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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

今日は何の日 話材からヒントと気づきを

35年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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今日は何の日      11月17日
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■ 将棋の日

 将棋の日(しょうぎのひ)は、日本将棋連盟が1975年に定めました。この日の前後には毎年将棋にかかわるイベントが開催されます。

 その起源を辿りますと、八代将軍徳川吉宗のころ、毎年11月17日に「御城将棋の日」として将棋大会を行っていたので、この日を選んで、「将棋の日」としたといいます。

 因みに徳川家康は、将棋や囲碁が大好きであったと言われていて、、幕府がこれを公認したことが、吉宗の時代にまで繋がったようです。

 子供の頃、叔父が私に将棋を教えてくれました。将棋が強い級友がいて、彼にはどうしても勝てませんでした。これが契機で、彼とは今でも親友として付き合っています。

 勝てないわけで、彼は後に教育大学(現筑波大学)数学科にストレートで入学した、数学の天才(秀才くらいかな)でもあったのです。


■ スエズ運河開通で大きな恩恵

 スエズ運河は、エジプトのスエズ地峡に、地中海と紅海を結ぶことでヨーロッパやアジアとを結ぶ運河とし1859年11月17日に、フランスの外交官であり、実業家でもあるレセップスにより建設されました。

 パナマ運河のように、山を越えるために水面調整をしなければならない運河の方式とは異なり、海面と水平な運河です。

 建設当初は164km、推進8mだったのですが、船舶の大型化などから何度も改修が行われ、現在では全長193.3km、推進24mとなりました。幅は、205mもあり、大型の船舶が複数の航路で行き来できるほどまでになっています。

 平時はもとより、有事の際でも、たとえ軍事目的の船舶であっても、どこの国であっても航行が認められています。いわば公海と同じですが、有料であるところが異なります。

 スエズ運河を通過しなければ、アフリカのケープホーンを経由することになり、時間と共に燃料費を節約できることから、その費用対効果は大きいといえます。



【経営コンサルタントのひとり言】

■ 将棋を通した無二の親友


 私が子供の頃、同級生で将棋の強い男の子がいました。

 勉強では、彼に負けませんでしたが、将棋ではこてんぱんに負け続けました。

 後に、東京教育大学(現筑波大学)数学科に進学するほどの理数系の人ですので、将棋に強い理由がわかるような気がします。

 今でも付き合いのある、私の無二の親友の一人です。(無二が複数いるのはおかしいですね<笑い>)

 彼は論理思考ができる男です。

 孫には彼のような素晴らしい人間になってほしいと願い、将棋セットを買ってあげました。

■ 二宮 尊徳

 にのみや たかのり
 天明7年7月23日(1787年9月4日)−安政3年10月20日(1856年11月17日)

 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家です。自筆文書では、金治郎(きんじろう)と署名している例が多いのですが、一般には「金次郎」と表記されることが多いです。

 諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読みますが、「そんとく」という読みで定着しています。

 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導しました。

  四字熟語 経世済民
  http://www.glomaconj.com/joho/keieijoho.htm#17


相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市)に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれました。

 尊徳は、まず生まれた堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻としますが、離縁、20歳も若い、貞淑温良ななみ(波子)と結婚しました。

 文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げるなど、成果を出しています。

 小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼し、千両もの負債を償却し、頭角を現しました。

 文政4年(1821年)には、小田原藩主大久保家の分家であります宇津家の旗本知行所が荒廃していて、再興救済を藩主より命じられました。農民の抵抗で苦労しましたが、再建しました。

 晩年近く、天保4年(1833年)には、天保の大飢饉が関東を襲いましたが、金次郎の力を充分に発揮しました。


 二宮金次郎といえば、戦前には、どの学校にも銅像が建っていると言えるほど、一般的でした。背中に芝を背負い、本を読む姿は、子供達へのお手本でした。今日では、歩きスマホが非難を浴びていますが、当時は、むしろ誉められる行為だったのですね。



■ 田中 久重 「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」、東芝の創業者

 たなか ひさしげ
 寛政11年9月18日(1799年10月16日)−明治14年(1881年)11月7日

 江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれました。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。

 江戸末期・寛政の頃、久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれ、幼名は儀右衛門でした。

 幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになりました。

 「弓曳童子」と「文字書き人形」は、その代表作で、からくり人形の最高傑作といわれています。折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などは、既述のからくり人形と共に、二十歳代の作品です。

 天文、蘭学などを学ぶうちに、季節によって昼夜における時間の長さの違う不定時法に対応した万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)を製作したことは、彼の非凡さを語る最大のものといえます。

 日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型製造、反射炉の設計(改築)、大砲製造など、広範囲にわたる功績は、今日の東芝の起業に繋がったようです。

 発明の数だけではなく、広範囲さから「東洋のエジソン」といわれるのは、至極当然といえます。



■ 西有 穆山 曹洞宗の僧侶、総持寺独住三世貫首

 にしあり ぼくざん
 俗名:笹本万吉
 文政4年10月23日(1821年11月17日)−明治43年(1910年)12月4日


 陸奥国(青森県)八戸出身の日本の曹洞宗の僧侶で、横浜市總持寺独住3世貫首でもあります。法名は瑾英(きんえい)、直心浄国禅師で、俗名は、笹本万吉です。

 天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、金栄と名乗っていました。天保10年(1839年)に、仙台に移転し、天保12年(1841年)に江戸に出て、吉祥寺旃檀林学寮に入りました。浅草本然寺の泰禅の後を継ぎ、牛込鳳林寺住職となり、小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行しました。

 瑾英に改名し、1861年、諸嶽奕堂会下の龍海院で修行中に大悟を得て、奕堂より印可を受けました。

 宗参寺・鳳仙寺を経て、大教院に呼ばれて中講義・大講義、總持寺出張所監院、本山貫首代理になりました。法光寺・中央寺・可睡斎・伝心寺を経ています。

 明治33年(1900年)に、信者の寄付により、横浜に西有寺を創建、翌明治34年(1901年)に總持寺貫首に選ばれます。翌明治35年(1902年)に、曹洞宗管長となりました。明治38年(1905年)に横浜で引退し、明治43年(1910年)12月4日に遷化しました。

 著書に『直心浄国禅師語録』4冊、『正法眼蔵啓迪(けいてき)』3冊などがあります。

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内閣府認証特定非営利活動法人・日本経営士協会会長
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