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■■計量の日と日本経営士協会の判断基準【今日は何の日】 11月1日 ■ 計量記念日
11月1日は、「計量記念日」です。通商産業省(現在の経済産業省)が1952(昭和27)年に1993(平成5)年の新計量法の施行にともなって、計量思想の向上・普及を目的に制定しました。
1875年5月20日にフランス政府の提唱により「メートル条約」が欧米17か国間で締結されました。この「メートル条約」締結の125周年を記念して2000年から「世界計量記念日」が制定されました。
メートル原器である「アルシーブ原器」は、1799年12月10日に基準として指定されたものです。これは、白金製で、フランス国立中央文書館に保管されています。
基準になるものがないと計量はできません。1kgの白金製の原器ですが、永年の変化でそれを原器にすることを検討する動きも出てきました。また、1メートルの定義も科学の変遷に伴い、変化しています。
1951(昭和26)年6月7日に、「度量衡法」を大幅に改正して新しい「計量法」が公布されました。通商産業省(現在の経済産業省)が、これを記念して、1952(昭和27)年に計量記念日を制定しました。
ご存知のように、ビジネスに使う計量機器は、定期的に原器に照らし合わせた機器を基準に「校正(較正)」を受けなければなりません。
企業経営においても、たとえば年度計画のような「ものさし」を以て経営状態をはかるのが一般的です。ところが間違えた方法で経営計画を立てている企業がいます。間違えたものさしで経営を計っても正しい評価が出てきません。
間違えたものさしを使って人事考課に反映されたのでは、社員は溜まった物ではありません。企業も年に一度は「健康診断」を受けるべきです。
■ 灯台記念日
基準になる点として、航海の世界では位置を特定するための灯台があります。今日は海上保安庁が1949(昭和24)年に制定した「灯台記念日」でもあります。
明治村を訪問したことのある人は、公園内の池に突き出た小半島の灯台があるのをご覧になったでしょう。日本最初の洋式灯台で、1869(明治元)年、神奈川県横須賀市に観音埼灯台が起工されたのです。
判断を行うときに基準を持つことは重要です。「一視同仁」という言葉がありますが、これは日本経営士協会における判断基準に通じるところがあります。
何かを行う決定を下す前に、「これは公平性の原則に反しているか」という観点で判断します。
例えば、日本経営士協会には「経営支援センター」というのが支部の下部組織として全国各地にあります。会員が、地域密着型のサービス提供等を通じて、会員のビジネスチャンス拡大に繋げようと言うことがその主旨です。
では、「経営支援センター長会議を開催するときに、その交通費や運営経費は本部が負担すべきかどうか」という問題が発生したらどうするか、という時に「公平性の原則」が判断基準となります。
■ 諸聖人の日(万聖節) 「諸聖人の日(All Saints' Day)」は、古くは「万聖節」と呼ばれるカトリック教会の祝日の一つです。 全ての聖人と殉教者を記念する日のことです。 カトリック教会にかぎらず、諸聖人の日を設けて、祝祭日にしている教派があります。 その呼び名が異なったり、日付は必ずしも11月1日に統一されたりしているわけではありません。 この日は、死者のために祈りを捧げる日です。 ご存知の方も多いと思いますが、カトリックでは聖書のどの部分をミサで朗読するのか配分が定められています。 ところがこの日は死者のために自由に選ぶことができますので、ご自分の好きな一節を朗読できることになります。 【Wikipedia】によりますと、その起源は8世紀に遡るようです。(以下原文を挿入) 教皇グレゴリウス3世がサン・ピエトロ大聖堂の中に使徒とすべての聖人・殉教者のための小聖堂をつくり、その聖堂の祝別の日が11月1日にうつされたことでやがて11月1日がすべての聖人と殉教者の日となったというものである。 ■ 焼酎の日、泡盛の日
11月1日は、本格焼酎の日でもあります。沖縄では「泡盛の日」としています。日本経営士協会九州支部主催の一泊研修があり、宮崎県で開催されました。その折に宮崎県を代表する焼酎メーカー2社を訪問します。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 教育文化週間
◇ 新米穀年度
◇ 報恩講始
◇ 西教寺得度受戒
【経営コンサルタントの独り言】 1メートルの決め方 1952(昭和27)年に日本でメートル法が適用されるようになりました。 その経緯は、国際標準に合わせて日本も近代国家の道を歩み、先進国の仲間入りをしようということにあります。 世界中が、メートル法を用いるように切り替えをしました。 ところが、アメリカだけは、ヤード・ボンド法から抜けきれません。 世界一のアメリカがなぜ、馴れないメートル法を使わなければならないのだ、という傲慢さから、いまだにヤード・ポンド法を使っています。 道路標識もヤード・ポンド法とメートル法の両方が併記されています。 ところが、私がアメリカに駐在していた1970年代というのは、まだマイル表示でした。 カナダに入るとメートル法表記になるという現象があったのです。 ところで、1メートルはどのように決められ、メートル原器はどこにあるのでしょうか? 1メートルは地球の円周の40万分の1を基準として決められたといわれています。 しかし、18世紀末に正確に算出する技術があったのでしょうか? 1983年(昭和58年)に基準が見直され、現在は1秒の 299792458 分の1の時間に光が真空中を伝わる距離として定義されています。(Wikipedia) (ドアノブ) 【きょうの人】 ■ 円爾 生誕 (聖一国師) えんに/しょういちこくし 建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日) 鎌倉時代中期の臨済宗の僧で、藤原家道に迎えられ臨済宗東福寺の開山となりました。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。 法諱は初め弁円と称し、円爾は房号でしたが、後に房号の円爾を法諱としました(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もありますが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではないといわれています。 その宗風は、純一な禅でなく、禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本としますものの、禅のみを説くことはなく、真言・天台とまじって禅宗を広めました。 また、博多崇福寺に従し、承天寺の開山でもあります。宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称されます。 なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めています。 ■ 萩原 朔太郎 大正時代に近代詩の息吹 はぎわら さくたろう 1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日) 日本の詩人で、大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称されます。 群馬県(現・千代田町)に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれました。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名されました。 1913年(大正2年)に、北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表、詩人として出発しました。そこで室生犀星と知り合い、室生とは生涯の友となったのです。一期一会、出合は、大切ですね。 1923年(大正12年)に詩集『青猫』、『蝶を夢む』を刊行し、谷崎潤一郎に会う機会を得ました。 上毛新聞主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷、「透谷会」の創立発起人となり、「透谷文学賞」が設立されますと、島崎藤村や武者小路実篤等と共に選考委員となります。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになります。 1938年(昭和13年)に「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊、その年、『日本への回帰』を発表しました。この中で「日本主義」を主張し、一部から国粋主義者と批判されたりもします。 しかし、やがて身体に変調を引き起こし、他界することとなりました。 ■ 死者の日(万霊節 )
11月2日は、「死者の日(万霊節)」で、カトリックの宗教行事の一つで、死者のために祈りを捧げる日とされています。
私共のブログでも紹介しているように11月1日は「諸聖人の日(諸聖人の祭日)」(その前夜がハロウィン)で、死者の日はその翌日にきます。ご存知の方も多いと思いますが、カトリックでは聖書のどの部分をミサで朗読するのか配分が定められています。ところがこの日は死者のために自由に選ぶことができます。
【Wikipedia】
かつてカトリックでは、人間が死んだ後で、罪の清めが必要な霊魂は煉獄での清めを受けないと天国にいけないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなるという考え方があった。死者の日はこのような発想にもとづいて、煉獄の死者のために祈る日という性格があった。
話は変わりますが「グローバル」という言葉がしばしば使われます。私はかつて商社に10年ほどいましたので、外国の方と接することが多かったのです。直接フェース・ツー・フェースであうだけではなく、コレポンといって、タイプライターで打った手紙やテレックスでやりとりをして、ビジネスにむつび付けるのです。
欧米人は、ビジネスはビジネスライクにと言う、無駄を省いた仕事の進め方をすると先輩から教えられました。それを承知の上で、単にビジネスの話だけではなく、日本の紹介をしたり、海外の風俗習慣などについて知っていることを書いたりしました。
それが後に海外出張のオリエンテーションや、アメリカの現地法人で仕事をしたときにフェース・ツー・フェース会話のオリエンテーションに大変役立ちました。
「君は、変わったビジネスマンだ」という捉えられ方が好意的だったのです。
「君とのコレポンは楽しい」と言ってくれ、ビジネスも経験の浅い私にしては先輩と伍して業績を上げられるほど、かわいがってもらいました。
「人生、万事塞翁が馬」
何が幸いするかわかりません。
■ 唐津くんち(からつくんち)
11月2日はお隣佐賀県の唐津神社のくんちの初日で4日まで開催されます。
唐津くんちは、佐賀県唐津市の唐津神社の秋祭りです。長崎くんちや博多おくんちと共に日本三大くんちと言われていることはよく知られています。
くんちですので、曳山が出ますが、厚い和紙にカラフルなデザインで街の中を練り歩きます。金・銀・朱などを塗った「漆の一閑張」は、佐賀県の文化財に指定されています。
私が行ったときには、たまたまなのか車輪が砂にめり込み、男達がそれを引き出そうとする様は、力強さを以上の何かを感じました。
■ 酉の市
11月2日、14日、26日は、東京・浅草では酉の市で賑わいます。江戸っ子にとっては、年の瀬が近づくことを知る行事です。その年によつて開催される日が異なります。月初めの最初の酉の日を一の酉、次を二の酉、その次を三の酉といいます。
酉の市と言えば福を取り込む熊手、大判小判、稲穂などいう縁起物が飾り付けらレ、それを買ういなせな客と手拍子というのがおきまりです。
図 酉の市 ←クリック
■ 【今日は何の日】その他
◇ 中尊寺藤原祭
◇ 京都松尾大社上卯大祭
◇ おはら祭
◇ 存応寂
◇ 永観忌
【経営コンサルタントの独り言】 ■ いまさらですがハロウィーンってなんだかご存知でしょうか? 10月31日はハロウィーンで盛り上がった人が多いのではないでしょうか? でも、その中でハロウィーンとは何かをご存知の方は、失礼ながらどの程度いらっしゃるのでしょうか? 「カボチャを食べる日??????」 実は、ハロウィーンというのは「イブ」なのです。 イブと言いましてもクリスマスイブではありません。 11月1日は、「諸聖人の日(諸聖人の祭日)」の日で、その前夜祭、すなわち「イブ」がハロウィーンなのです。 それに続く11月2日は、「死者の日(万霊節)」でした。 こちらもカトリックの宗教行事の一つで、死者のために祈りを捧げる日とされています。 ご存知の方も多いと思いますが、カトリックでは聖書のどの部分をミサで朗読するのか配分が定められています。 ところがこの日は死者のために自由に選ぶことができますので、ご自分の好きな一節を朗読できることになります。 せっかくハロウィーンを楽しんだりするのですから、その背景を知っておきますと楽しさが倍増するのではないでしょうか? (ドアノブ)
■■文化の日と文房具 【今日は何の日】 11月3日
■ 文化の日
11月3日は「文化の日(National Culture Day)」で国民の祝日です。
1946(昭和21)年11月3日に、平和と文化を重視した日本国憲法の公布を記念して、1948(昭和23)年公布・制定されました。今日では祝日法により「自由と平和を愛し、文化をすすめる」国民の祝日と定められています。
この日には、文化面での功労者に文化勲章が授けられます。
しかし、その選定には首をかしげるような人もいる反面、なぜあのような人が選ばれないのか、選定の透明性というか、判断基準を奇異に感ずることもあります。
近年、日本の国際的な地位低下とともに、国民全体が自信をなくしているように思えます。その主因の一つが、ゆとり教育であり、その見直しもされていますが、一方で政治の貧困から来る「社会が悪い」という意識が蔓延しているようにも思えます。
最低限度の社会生活が憲法で保障されている割には、国民の多くが日々の生活に苦しんでいるように思えます。しかし、だからといって「社会が悪い」の一言で責任転嫁をしてもそれが改善するわけではありません。
選挙の投票率の低さは、自分は責任ある一票を投じもせず、世の中批判をするのはおかしいことにさえ気がついていないのです。国民をその様に無気力にしている政治家を始め、日本を満ちちびいている多くの人に反省をしてもらうようにわれわれはもっと声を高くすべきです。
11月3日は、私よりちょっと年齢の上の人は「明治節」という名称だったことをご記憶ではないでしょうか。この日が明治天皇の誕生日であることからこのように呼ばれました。
■ 文具の日
日本国憲法が公布された半年後である1947年(昭和22年)5月3日に施行されたましたが、5月3日は「憲法記念日」であることもよくご存知でしょう。
文具というのは武官との関わり合いのあることから、東京都文具事務用品商業組合等が1987(昭和62)年に「文具の日」を制定しました。
私が商社マンであった時代には、中南米市場向けの文具関連の商品を輸出担当したこともあり、いまだに100円ショップに行ったり、デパートを廻ったりするときには文具コーナーに足が向いてしまいます。マーケティングが専門であることから、市場調査の癖が体に染み込んでしまっているようです。
文具というのは、文房具という言葉に現代では置き換わってしまっていますが、小学生というイメージが強いかと思います。しかし、小学生が使う文房具も、オフィスで使う文房具も基本的には同じものです。すなわち、文房具というのは一生ついて回るものなのかも知れません。
筆記具やノートだけではなく、不祝儀袋もこの範疇に入ります。プリンターに使う上質紙ももともとは文具店で「わら半紙」として売られていたものです。わら半紙は、再生紙であることからなのか、時間が経つと赤茶けてきます。
私が経営コンサルタントになり始めた頃作成した資料の中にはわら半紙を使ったもの、ジアゾ式複写機でコピーしたものなど多数あります。それらをそのままにしておくといつしか消え去ってしまいます。
これらをデジタル化して、保存しておきたいと思いつつも、スケジュールには乗っているのですが、日々の仕事に追われてなかなか実現しません。
クライアント・顧問先には、偉そうに「今日できることを明日に回すな」なんて言っていますが、自分のこととなると実行できないものですね。反省!!
■ 【今日は何の日】その他 ◇ 明治神宮例祭
◇ 東京足立皿沼不動万燈祭
【きょうの人】 ■ 了誉上人 りょうよ 興国2年/暦応4年10月15日(1341年11月24日-応永27年9月27日(1420年11月3日) 号は「酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)」である「聖冏(しょうげい)」は、南北朝時代から室町時代中期にかけての僧で、浄土宗(鎮西義)第7祖です。 常陸国・椎尾氏の出身で同国瓜連常福寺の了実について出家しまし、太田法然寺の蓮勝に師事しました。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く仏教を修めてもいます。 宗徒養成のために伝法の儀式を整備し、五重相伝の法を定め、神道・儒学・和歌にも精通し『古今集序註』『麗気記拾遺抄』を著しています。 門弟に聖聡・了知などがおり、第8祖となった聖聡とともに、浄土宗鎮西義を教学面から興隆した人物として評価されています。 江戸小石川に伝通院を、無量山寿経寺という名で開創したことでも知られています。 慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母「於大の方」が75才、伏見城で逝去し、その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」と号しました。この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。 家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り、千姫の墓標もここにあります。 ■ 田中 正造 日本最初の公害に立ち向かった男 たなか しょうぞう 天保12年11月3日(1841年12月15日)- 1913年(大正2年)9月4日) 幼名、兼三郎、下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)の出身です。 日本の政治家で、日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として知られています。衆議院議員選挙に当選6回。 足尾鉱毒事件は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本で初めてとなる公害事件です。 銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起しましたが、加害者決定はされませんでした。 足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っています。 学生時代に、鉱山跡に行ったことがありますが、周囲の木々は立ち枯れたまま残っていました。その不気味さは、人気もないことから今でも覚えています。 ■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者 てづか おさむ、本名:手塚 治 1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日 説明するまでもなく、日本を代表する漫画家であり、アニメーター、アニメ監督としても活躍しました。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍してこられました。 兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)で、同市名誉市民でもあります。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学)を持っていました。 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューしたのですね。知りませんでした。 1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現していて、手塚は、漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていました。そのためにノイローゼにまでかかったという話も残っています。天才にも、その様なことがあるのですね。 幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーションに強い関心を持っており、 1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立、後に虫プロダクションと改名しています。 1963年に、自作をもとにした、日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしたことはいうまでもありません。 当時、従兄弟達が、それを見る年代で、テレビにかじりついていたことが、昨日のように思い出されます。 しかし、アニメブームと共に、多くの同業社の乱立・乱作から、コスト競争に直面し、倒産にまで追い込まれました。私の知人が、その時の管財人をしていました。 晩年近く、1980年代になりますと、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)など、歴史物で円熟味を示し、青年漫画というJANするに新たな代表作を手がけることになりました。 100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、昏睡状態を断続的に起こしたにもかかわらず、病院のベッドで医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていたそうです。 死に立ち会った人によりますと、「頼むから仕事をさせてくれ」というのが手塚の最後の言葉であったといわれています。 最後まで、漫画・アニメーターだったのですね。 戦後の日本を明るくする、ストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在といえます。出生は大阪府ですが、兵庫県宝塚市出身でして、同市名誉市民にもなっています。 お医者さんの勉強をされていたのですね。 私ども経営コンサルタントは、企業・組織のいろいろな局面を見ますので、「マルチライセンス」ということが、業務遂行上好ましいと言われています。 手塚治虫は、マンガの中に医師の知識が処々に活かされているように思え、「一芸に秀でる者は多芸に通ず」という茅誠司先生の言葉の証左のように思えます。 ■ 泉 鏡花 明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家 いずみ きょうか 1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日) 明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家で、小説のほか、戯曲や俳句も手がけました。本名、鏡太郎(きょうたろう)で、金沢市下新町に生まれました。 尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』という作品で高い評価を得ました。川端康成、石川淳、三島由紀夫らに影響を与えた小説家です。 東京新宿区の赤城神社に近い南榎町22に、泉鏡花の居跡のひとつがあり、ここに明治32年から4年間住んで、この地で「高野聖」などを発表しました。 31才の泉鏡花は、神楽坂の芸妓桃太郎さんと、この借家に住みます。しかしこれには泉鏡花の師である「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉から相当怒られ、やむなく、桃太郎(本名伊藤すず)と別れます。 鏡花は、 紅葉が没してから正式に妻として桃太郎を迎えます。 なお、桃太郎は、あの「婦系図(おんなけいず)」のお蔦、『湯島詣』の蝶吉のモデルといわれています。 千代田区六番町5番地にも「泉鏡花旧居跡」があり、1910年(明治43年)から亡くなる1939年の間、この地に愛妻すず(桃太郎)と暮らしていました。 代表作『高野聖』『婦系図』で人気作家の一人になり、江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる作家となりました。 近代における幻想文学の先駆者としても評価されます。 晩年、春陽堂より『鏡花全集』刊行を開始し、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫などの錚々たる面々が編集委員を務めました。 ■ 【経営コンサルタントの独り言】 文房具と言いますと、若かりし頃、私が商社マンであった時代を思い出します。 入社して直ぐ、中南米市場向けの文具関連の商品輸出を担当させられました。 先輩から聞くところによりますと、新人の多くが担当される地域だそうです。 裏を返しますと、それほど重視をされていない市場と言えます。 当時は、「コレポン」といいまして、手紙でやりとりをすることが主流でした。 緊急性が高い場合には、テレックスという電信機器を利用することもありましたが、コストが高いので新人にはなかなか利用させてもらえませんでした。 新人であるということもあり、一所懸命さが先に立ちました。 問合せのありましたお客様に、自分なりに工夫を凝らして返事をしました。 先方からの問い合わせに対して返事を書くことが精一杯でしたが、二か月、三か月と経過するうちに、関連する商品を紹介するようにしました。 それに対して返事が来なければ再び手紙を送るようにしました。 何年も注文がないお客様もいるので、それらのお客様にも手紙を送りました。 JETROに行って見込み客発掘のリストづくりもしました。 いろいろ工夫をした結果、期末集計で、予算比170%弱、前年比180%以上という結果となりました。 驚いたのは前任者です。 課長だけではなく部長からも一躍注目を浴びることになり、自分でも驚きました。 何十年も昔の話です。 (ドアノブ) ■ 王貞治氏の引退エピソード
1980年11月4日は、読売ジャイアンツの王貞治氏が現役を引退した日です。ON時代として、ソフトバンクを常勝チームに育成した監督として、彼の功績は大きいです。
王氏が引退したときは、まだまだ現役で選手を続けられるほどの成績を残していました。人の引き際の美しさというものを教えられた気がしました。
爾来、人の上に立つときには、引き際を常に意識して、それまでのプランに沿ってやって行こうと心に決めています。
来年は,経営コンサルタントとして35年になります。内閣府認証特定非営利活動法人・日本経営士協会理事長として丸8年になります。そろそろ後進に道を譲ろうと考えていますが、幸い候補者は複数いるので気分は楽です。
もし、私が権力欲が強く、また王氏から無言の教えを感じ取れていなければ、まだまだ理事長という権力の座にしがみついていたかも知れません。
「禅譲(ぜんじょう)」という言葉があります。中国において、帝王がその位を世襲しないで有徳者にその座を譲るという時に使います。
その起源は、尭が自分の身内からではなく、舜にその座を譲り、その舜が尭に習い、禹に帝位を譲ったことにあります。
このことが転じて「天子が皇位を譲る」という意味もあります。
30年近くも社長をしている人に、「そろそろ禅譲を考えてみてはどうでしょうか」と水を向けたところ、「禅譲」という意味を知っていてにこりとして、それからまもなく社長の座を退きました。
別のあるサラリーマン社長は、長期借入金の多い会社のため、禅譲したいのですが誰も引き受けてくれません。遂に80歳という高齢になってしまいましたが、いまだに後を継いでくれる人を待っています。
後継者の育成をしてこなかったことのツケが、ここに出てきています。
後継者がいなければいないなりの手を打つべきなのに、その手を打とうとせず、ただひたすら待つだけなのです。
かつては、その業界では冠たる地位を築いていたにもかかわらず、商品が陳腐化、社員、とりわけ技術者が高齢化してきてしまい、崖っぷちに追いやられています。
王氏も、それ以上現役として留まっていたら、それまでの名声を汚すことになるかも知れないと考えたのかもしれません。
■ ユネスコ憲章記念日 11月4日は、「ユネスコ憲章記念日」でもあります。国連教育科学文化機関(ユネスコ)が1946年に発足したのを記念して制定されました。
UNESCOというのは、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationの頭文字をとっていることはよく知られていますが、UNESCOが何をしているのか、お恥ずかしながら詳細なことを知りませんでした。
Wikipediaによると下記のように説明されています。
教育や文化の振興を通じて、戦争の悲劇を繰り返さないとの理念により設立の意義を定めたユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」
今日では世界の文化および自然遺産の保存・保護活動を推進していることはNHKのテレビ番組でもおなじみです。
何かを契機に、あることについてひもとくことは知識を広げることに繋がります。知らないことは、Wikipediaを見るだけで終わりにせず、関連するサイトや書籍等を見る習慣が必要なことを再認識するのも良いではありませんか。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 消費者センター開設記念日
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 王貞治氏の生き方に学ぶ 現役時代の王貞治氏の活躍は、長嶋氏のような派手さはありませんでしたが、活躍は長嶋氏のそれに劣ることはありませんでした。 2020オリンピック・パラリンピックでも、その運営において王貞治氏はご活躍です。 王氏が、ハンク・アーロンの記録を破ったときに、ハンクは王氏に祝福の言葉をかけました。 ハンクの素晴らしさに感動しました。 それを上回るのが、王氏の引き際です。 人生、いろいろな道で、いろいろな立場で過ごしてきます。 生涯現役という考え方もありますが、一方、王氏のようにきっぱりとした引き際で、第二の人生に踏み込み、異なった形での社会貢献も、その人らしさを発揮できると思います。 そのような王氏の生き方について、私なりに感じたことを書いてみました。 http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/df4d01f1069f542801234659ff050a97 (ドアノブ)
■ 善光寺十夜会(じゅうやえ) 長野県にある善光(ぜんこうじ)は、無宗派の単立寺院です。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務めるという珍しいお寺です。 日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊としています。江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになりました。 十夜会は、10月5日から14日と11月5日から14日までの十日間ずつ、本堂において執り行われます。 十夜会は「この世で十日十夜、善い行いをすることは、仏さまのもとで善い行いを千年することにも勝る」という 『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』の教えを実践する法要です。 ■ Burn ALL GIFs day
11月5日は「Burn ALL GIFs day(全てのGIFを焼き尽くす日)」でした。1999(平成11)年から実施されていたのですが、現在は中止されています。
パソコンを使っている人であれば「GIF」にはお世話になっているのではないでしょうか。
画像フォーマットとして広く使用されています。ファイルサイズが大きくならない故知やGIFアニメ機能など使いやすさなど長所が多いファイル形式です。
ファイル圧縮のLZWを開発したのがユニシスというアメリカの会社です。ところがGIFにもこれが使え、普及し出すとLZWの利用者に特許使用料の支払いを求めました。
これに反発する人たちは多く、ユニシスに抗議をするために、GIFの使用を止めましょうという運動を起こし、この日を制定したのです。アプリケーションの中にもGIFが使えないものができたりしました。
今日ではLZWの特許期限が来て、執行しているので、現在では誰もが事由にGIFを使えるようになったのです。
企業利益が優先するか、社会貢献を重視して企業イメージ高揚をはかるか、その戦略判断には迷うかも知れません。今日では後者を優先する企業が圧倒的の多いと思いますが、経営者の中にはまだまだ前者が頭から離れ切れていない人が多いように思えます。
因みに、ユニシスという会社は、IT業界との関わりの長い人であれば、あるいは事務機業界に通じている人であれば「バロース」とか「ユニバック」という固有名詞はご存知でしょう。ユニシスの前身、核となる会社と言えます。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 善光寺大本願十夜会
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 写真と私 私とカメラとの出会いといいますと、子供の頃の日光写真とピンホールカメラでしょうか。 日光写真というのは、モノクロのフィルムに相当する、当時はセロファン紙に印刷されたものを、印画紙と重ねて日光に当てると、印刷された画像が印画紙に現れるというものでした。 定着していませんので、時間経過とともに真っ黒になってしまいます。 ピンホールカメラというのは、箱に針穴をあけ、針穴をレンズ代わりにしてフィルムに撮影するおもちゃです。 ピンホールカメラは芸術写真にも使われますので、おもちゃではなく器械というべきでしょう。 しかし、私のは、厚紙の箱を利用した手作りですので、おもちゃの域を出ていませんでした。 私のこれらの経験は、印画紙が、時間経過とともに黒くなってしまうので、それが納得できませんでした。 小学生の頃、雑誌の付録についたカメラがあります。 曲がりなりにもレンズもついていました。 それだけではなく、フィルムに印画紙、現像液と定着液がついていたのです。 しかし、2枚分くらいしか付いてこないので、一度で終わってしまいました。 その様なあるとき、叔父が中古のカメラを入手し、それを使わせてもらうようになりました。 現像や焼き付けを写真屋さんに出すのでは、小遣いがすぐに亡くなってしまうのが悩みでした。 小遣いを貯めて、現像用のバットを買ったのを契機に、焼き付け期などを買い増しして、押し入れ現像室からわたしと写真の第二ステージが始まりました。 (ドアノブ) 【きょうの人】 ■ 高峰顕日 こうほう けんにち 仁治2年(1241年)- 正和5年10月20日(1316年11月5日) 鎌倉時代後期の臨済宗の僧で、後嵯峨天皇の第二皇子です。諱は顕日、字は高峰、密道と号しました。諡号は、仏国禅師・仏国応供広済国師といいます。 1256年(康元元年)に、円爾に従って出家し、十六歳の時に聖一国師につき得度しました。その後、兀庵普寧や弘安二年には、無学祖元に世良田長楽寺にて師事しました。 下野国那須の雲巌寺の開山にもなっています。 南浦紹明とともに天下の二甘露門と称されました。 鎌倉幕府執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、鎌倉万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任しています。門下には、夢窓疎石などの俊才を輩出し、関東における禅林の主流を形成しました。 七十二歳で遷化しています。 ■ 島村抱月 新劇運動の先駆者 しまむら ほうげつ 1871年2月28日(明治4年1月10日)- 1918年(大正7年)11月5日 日本におけます新劇運動の先駆けの一人として知られています。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎です。 イギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学に留学しました。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」誌を復刊(第二次)し、主宰しています。 1906年(明治39年)には、坪内逍遥とともに文芸協会を設立、1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめ、芸術の拠点である「芸術倶楽部」(東京都新宿区)を創設しました。 芸術倶楽部跡、終焉の地(写真) http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/shinjukuku-kagurazaka/shinjuku-kagurazaka15.htm しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化、これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となりました。 同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博しました。 ■■ ■■国際デーに思うリンカーン【今日は何の日】 11月6日 ■ お見合い記念日 その始まりと歴史 1947(昭和22)年11月6日、東京の多摩川河畔で集団お見合いが開催されたことを記念して記念日が制定されました。 戦時中は、国内に男性が少なく、女性が結婚相手を見つけるのが大変な時代でした。 結婚紹介雑誌で応募した、戦争のために婚期を逃してしまった人達が会場に集まって相手探しをしたそうです。 近年、結婚をしない人が増えてきていると言います。それぞれの人に考えがあることですが、結婚する人が減ると人口減少につながり、国力低下をきたすことが懸念されます。 結婚する人が減少してきているのは、子育て環境が整っていないことが最大の理由と言われています。 理由がわかっているのですから、その対策を打ちやすいはずです。本気になって、その対策を打とうとする政府の政策姿勢が問題のように思えます。 ■ リンカーンデイ
今年も余すところ55にちとなりました。11月6日はアブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln、1809~1865)が、1860年のアメリカ大統領選挙で、共和党初代となる第16代大統領に選ばれました。
奴隷制に反対し、これが契機で南部9州が連邦を離脱し、後に南北戦争に繋がるのです。
では、奴隷制に反対する契機は何だったのか、子供の頃読んだ伝記を思い出すと、たしかミシシッピー川で船による運送業をやっていと記憶しています。おそらく、その時に南部での黒人奴隷の売買現場を見たのではないかと思います。
民主主義の本質を表すということから、誰もが知っている「人民の人民による人民のための政治(government of the people,
by the people, for the people)は、1863年11月19日にゲティスバーグで戦没者国立墓地開所式での短い「ゲティスバーグ演説」と呼ばれる挨拶のなかの言葉です。
1865年4月14日劇場で観劇中、北軍に属した俳優ブースに至近距離から銃撃されて、56歳の生涯を終えました。同伴していた奥さんにはつらい事件ですが、奥さんが身近にいて息を引き取れたことは不幸中の幸いと私は思います。
因みに、林間とは無関係ですが、この日は「戦争と武力紛争による環境搾取防止のための国際デー(International Day for Preventing
the Exploitation of the Environment in War and Armed Conflict)」でもあります。
戦争の悲惨さを考えると、この国際デーの精神である勃発防止、早期終結を願います。
【経営コンサルタントの独り言】 ■ リンカーンデイに人間性について考えさせられる アメリカのワシントンDCを訪れた方は、おそらくリンカーン・メモリアルを訪れたと思います。 あのあごひげをはやした像は、記憶に残りますね。 子供の頃、リンカーンの伝記を読んだことがあります。 奴隷という言葉が現実に結びつかないものの、やってはいけないことなのだというような認識程度でした。 風と共に去りぬなどの映画を見て始めて、それが人間性を無視した行為として認識を強められました。 それがひとつの契機となって「相手の人格を尊重する」ということが私の生き方の中で重みを増してきました。 ところが現実の世界では、自分があって、周囲に他の人が存在するということを無視するといいますか、無関心と言った方がよろしいでしょうか、それがあたり前のようになってきてしまっています。 例えば、狭い歩道を歩いているときに前方から横に並んで歩いてきても、横に避けて道を譲ると言うことをしません。 おそらく、こちらに対して無関心なために、避けるという行為に結びつかないのでしょう。 あるいは、相手が避けてあたり前と思っているのでしょうか。 寂しい世の中ですね。 (ドアノブ) ■ 虚構の平穏は、全ての人の信頼を失う 人は誰しも、諍いや争いなどのトラブルを嫌うのではないでしょうか。 目の前に、自分が嫌いな虫が群れをなして、ウジャウジャとしていたら、ファーブルのような人は喜ぶかもしれませんが、大半の人は、そこから目をそらしてしまうでしょう。 トラブルは、上述の虫の群れのようなもので、人は、目の前の問題を避けるために、見て見ぬ振りをしてしまうことがあります。 そこまで行かないまでも、トラブルを度の合った眼鏡で直視すると、トラブルが、トラブルとしてクッキリと見えてしまうので、度の甘い眼鏡で見たくなってしまいます。そして、自分自身をごまかして、お茶を濁そうとしがちです。 良薬は口に苦し 信頼できる人であれば、見て見ぬ振りをせず、「度の甘い眼鏡をかけて見るのではなく、キチンと検眼された眼鏡で直視しなさい」と厳しくアドバイスをしてくれるでしょう。すなわち、現実から、目を背けるのではなく、キチンと直面しなさいと、厳しく言ってくれるはずです。 本来、信頼できる人の言葉は、「良薬」のはずです。 ところが、自分のことを思って厳しく言ってくれる人の言葉には、耳に蓋をしたくなります。受け入れることもなかなかできないのではないでしょうか。 しかし、再三のアドバイスを熟考しないで、その諫言を受け入れようとしないと、ついには、何も言わずにその人は去って行くでしょう。その様な人は概して、去って行った人の価値の大きさを理解できず、大きな財産を失い、機会損失を起こしていることに気がつかないのです。 失ったものの大きさを理解できないから、「あのブドウは酸っぱい」とイソップ寓話の狐になってしまうのです。 その人との関係を修復しようと三顧の礼を尽くそうという気持ちも起こらないのです。
その様なアドバイスをしてくれる人や、諫言していくれる部下がいないと、イージーな方向に逃げたくなるのが、人の性といえます。 度の甘い眼鏡に替えたり、モノサシを、自分の都合のよいモノサシに取り替えて測定し、「自分の考えは間違えていない」「自分は正しいことをしている」と思いたくなります。 自分でも、逃避と解っていながら、欺瞞であることが解っていながら自分を納得させようとしがちです。 しかし、判断基準が「多数決」というモノサシであることが落とし穴です。 少数派や声が小さい人が正しい判断をしているかもしれません。しかし、多数決で決めたのだからといって、「それが正しい判断である」と思い込みたがるのが人の常です。 小学生の頃、先生が「愚かな人による多数決を”衆愚政治”という」と教えてくれました。 企業や組織のトップは、社員や組織の構成員の意見を聴くべきであるということは間違っていません。 しかし、その声が、正しい判断に基づく声なのかどうかを、適切に見極め、自分の考えを決められなければなりません。 多数決で、ものごとを決めるのであれば、リーダーは要らないことになります。リーダーシップという言葉も不要です。 しかし、民主主義が正しいと信じ込んでいる人に、衆愚政治の話をしても、衆愚政治の問題点を理解することはできないでしょう。 一方で、衆愚政治の問題点を理解できていながら、そこで決定したことに反することをして、トラブルが発生することから目をそらしたがるリーダーも多いことでしょう。 少数派の「それでも地球は回っている」という声を、耳を塞いで、意図して聞こうとしないのでは、正しい政治はできません。
もし、トラブルを避けるために周囲の人の言うことに振り回されていることが、民主主義であると考え、それが多数決の原則に則しているので正しい判断であると、自分を信じ込ませようと、自分自身を欺瞞的に納得させようするのであれば、社員やその構成員は、そのリーダーを結果的には信頼しなくなるでしょう。 企業や組織のトップは、八方美人的なやり方は通用しないのです。それどころかリーダーとしての信頼が失墜し、ひいては、自分自身がリーダーの座から引きずり降ろされることさえ懸念されます。 人の言うことに振り回され、その場の取り繕いを求めることは、本質的な問題解決ではありません。表面的な取り繕いをしているだけですので、周囲の人の目には、その問題点が見えています。次第に、その様なリーダーに対する信頼は薄らぐでしょう。 すなわち「虚構の平穏は、全ての人の信頼を失う」ことに帰結してしまうのです。 ■■ 経営コンサルタントをめざす人の情報源 ←クリック
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【きょうの人】 ■ 泉 鏡花 いずみ きょうか 1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日) 明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家で、小説のほか、戯曲や俳句も手がけました。本名、鏡太郎(きょうたろう)で、金沢市下新町に生まれました。 尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』という作品で高い評価を得ました。 代表作『高野聖』『婦系図』で人気作家の一人になり、江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる作家となりました。 近代における幻想文学の先駆者としても評価されます。 晩年、春陽堂より『鏡花全集』刊行を開始し、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫などの錚々たる面々が編集委員を務めました。 ■ 立冬(年により日付が異なる)
今日は「立冬」です。暦の上では、日増しに陽射しが弱まり、朝夕の寒さが厳しくなる頃を指し、立冬から冬が始まります。
立冬(りっとう)は、二十四節気の一つです。
【Wikipedia】
現在広まっている定気法では太陽黄経が定気法では太陽黄経が225度のときで11月7日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から7/8年(約319.59日)後で11月6日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の小雪前日までである。
■ 知恵の日 「知恵」と「智恵」
11月7日は「知恵の日」です。朝日新聞社が1988(昭和63)年に「朝日現代用語“知恵蔵”」を発刊したことを記念して制定しました。
私の論文に「企業を持続的に成長させる共用智」というのがあります。その一節より
「知」とは、「ある事項について知っていること(広辞苑)」である。同様に、「智」は「物事を理解し、是非・善悪を弁別する心の作用」とある。仏教では「知とは、一般の分別・判断・認識の作用」であり、「智とは、高次の宗教的叡知の意味に用いる」とある。
このことから、洗練された「知識」を「智識」と表記する。この「智識」は、「正しく教え導く作用を起こすもの」である。
成功の体験も良いが、「失敗は成功の母」ということばは智恵を得るにはぴったりの言葉である。智識を行動に変化させ、成否にかかわらず、行動を通じてそれを智恵に昇華することができるのだ。
この論文の先で「知恵」と「智恵」の違いについても記述していますが、上述の「知」と「智」の違いに基づき定義付けをしました。別の機会にご紹介できると思います。
「智恵」というのは、知識や経験をベースにし、実体験を通じて熟成して行くものです。一長一短にしてはできないのです。
企業においては、Wikipediaのような集合知を、その企業独自のものとして構築していく中で、その企業における智恵となるのです。その智恵を全社員が使えるようにしたものが「共用智」です。
共用智は、その会社の財産です。共用智が豊かであるほど、その企業のレベルは高いものなります。経営コンサルタントとしての35年の経験の中で、共用智構築を、私自身のコンサルティングの核として進めてきました。
共用智を持つ企業は、持続的な成長ができるのです。急激な成長では、企業内にゆがみができてしまいます。智恵の蓄積という地道な活動を通した成長は持続力を身につけられるのです。
一見抽象的な「共用智」の重要性を理解できる経営者・管理職は、残念ながら少ないのです。先般、経営コンサルタントを対象とした研修会の中でも理解できない人が多数いたのは残念です。
理解していただけるような話し方の私にも責任の一端がありそうですね。
ちなみに、2008年以降は紙媒体での提供を休止し、インターネット上で提供に移行しているようです。 ■ 鍋の日 もつ鍋の日 「鍋の日」は、めんつゆなどの食品メーカー・ヤマキが、立冬に当たる日がこの前後であることから、この日を選んで制定しました。 鍋(なべ)とは、一般には熱源を併せ持っていない加熱調理用容器をさし、電気鍋のように熱源を併せ持っているものも近年は多く存在します。 「鍋」と言いますときに、上記のような機器を刺す場合だけではなく、鍋を使った食卓上で作る煮物料理(鍋料理、鍋物)の名称を指す場合もあります。このことから「鍋を食べる」という表現も使われます。 もつ鍋など、庶民が気軽に食べられる料理は、食する機会も多いのではないでしょうか。ただし、わが家では、妻がもつを厭がることもあり、あまり食べることはありません。 社団法人日本畜産副産物協会が「もつ鍋の日」を、やはり11月7日に、2011年に制定しています。 立冬で、鍋物が一層恋しい時期になりますね。 【経営コンサルタントの独り言】 ■ 小春日和とは 秋の暖かい日を「小春日」といいます。 「小春(しょうしゅん、こはる)」は、旧暦10月の別名だそうです。 気候が春に似ているからでしょう。 「小雪」を挟む新月から新月の旧暦の一月を「小春」といいます。 その年により異なりますが、【Wikipedia】によりますと「最大で10月23日ごろ~12月22日ごろ」が旧暦10月になるとのことです。 英語では、「Indian summer」といいます。 英英辞典では「晩秋において、暖かく乾燥し、かつ霞のかかった気候」と記述されています。(さらに細かい記述がついていますので、ご確認下さい) (ドアノブ) ■■ 経営コンサルタント開業ノウハウ 5つの要諦 ←クリック 経営コンサルタント開業のポイントをご紹介
【きょうの人】 ■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力 り こうしょう 1823年2月15日(道光3年1月5日)-- 1901年11月7日(光緒27年9月27日) 中国清代の政治家で、字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力しました。 日清戦争の講和条約である下関条約で、清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことで知られています。 清朝末期に起こった反乱・太平天国の欄で、政府軍に降伏した敵軍を吸収しながら、西洋式軍事訓練も施して、自軍強化に努め、蘇州・常州を奪回するなど、活躍しました。 李鴻章は、その手腕を買われ、清朝の重臣筆頭となり、さらに同治帝の母・西太后の厚い信任を得ました。 日本の朝鮮出兵などの動きに驚異を感じ、日本との関係を模索しました。同治9年9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、日本との提携を記した草案の作成を担当し、伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結びました。 大久保利通他とも交流を持ち、西欧やロシアの圧力に対抗を試みるなど政治的手腕を発揮しました。しかし、日本は、日清戦争に走ります。日本側は列国の干渉をおそれ、休戦条約を調印し、日清講和条約(下関条約)の調印を行います。 この条約で朝鮮・台湾・遼東半島などの喪失と賠償金支払いなどで、清の威信は大きく低下し、李鴻章は失脚します。しかし、西太后の意もあり、復権します。 波乱の人生でしたが、李鴻章の意志は、袁世凱に引き継がれます。 ■ 成道会 今日は、日本の仏教界では「成道会(じょうどうえ)」です。お釈迦様が、臘月(12月)の8日に成道(悟りを開いた事)といわれ、この法要(行事)が行われるのです。
禅宗の僧堂で、成道を記念して旧暦12月1日から8日にかけて昼夜を通して接心する修行が実施されます。 「接心」とは、乱れる心を一つに摂(おさ)めることで、「摂心不乱(せっしんふらん)」ともいいます。 この間は、睡眠も結跏趺坐(「けっかふざ」瞑想する時の座り方)したままとるという、大変な修行法です。 ■ レントゲンの日
1895年11月8日に、ドイツの物理学者であるレントゲンがX線を発見しました。
真空管に高電圧をかけて実験をしている時に、そばに置いてある蛍光紙が光ることに気づきました。その真空管と蛍光紙の間に厚い本を置いてもこの光は光り続けたのです。すなわち、厚い本を何かが透過したのです。その光の「正体が不明である」という意味で「X線」と名付けられたと言われています。
その後、研究を続けたところ、X線は、たいへん波長の短い電磁波であることが判りました。波長が短いので、厚い本を通り抜けることができるということを発見しただけではなく、人体を通すと、体の場所によって通り抜け方が異なることがわかりました。それを利用して内部の状態を撮影することができると考えたのです。
その功績が認められ、1901年に第1回ノーベル物理学賞を受賞しました。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 銀閣寺夢想忌
◇ 世界都市計画の日
◇ 京都伏見稲荷火焚祭
◇ ふいご祭
◇ 一の酉
【経営コンサルタントの独り言】 ■ レントゲンのメリットとディメリット レントゲンの良いところは、人体を傷つけずに体内の様子がわかることですが、一方で、これは放射能に被爆するということです。日本人は、健康診断で毎年のようにX線を浴びるので、その怖さについては余り気にしていません。
私がアメリカにいたときに、年に一度の健康診断のつもりでかかりつけの医師に「レントゲンを撮ってください」とお願いしたところ、眼を丸くして「Oh,no」と驚かれました。アメリカでは、レントゲン撮影はできるだけしないようにしているのです。
一般的に、人体に影響があるのは、年間被曝量が200mSVと言われています。福島原発事故では、数千から数万Msvとという致命的な障害を起こす被曝量も報告されました。
胸のレントゲン撮影では0.05mSV、CTとなると7.0mSVと言われています。われわれは自然界から、年間平均して2.4mSVを浴びているし、危険域と言われる200mSVより遙かに低いし、近年は100mSVという厳しい値になっているけど、それにも至らないので安心だと言われています。
しかし累積で見るわけですから、本当に影響がないのかどうか、心配になりますね。
(ドアノブ) 【きょうの人】 ■ 仮名垣 魯文 かながき ろぶん 1829年2月9日(文政12年1月6日)- 1894年(明治27年)11月8日 江戸末期から明治初頭にかけての戯作者で、新聞記者もしていました。 江戸の京橋生まれ、本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めました。別号に鈍亭、猫々道人(みょうみょうどうじん)などがあり、俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄です。これらからも、魯文の多才さがうかがえます。 魚屋を営む父野崎佐吉は、俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育ちました。大きな商家の丁稚となった時に、人相見に、「小説家になれば出世する」と言われ、18才で花笠魯介文京の弟子となりました。 自作の執筆の他に、先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、生活のために古道具屋や売薬業も営みました。 筆名は、初め「英(はなぶさ)」または「鈍亭」としていましたが、1873年(明治6年)に、師の魯と文の字を取って仮名垣魯文としました。 代表作に西洋道中膝栗毛(1870-1876年)があり、多数の書を書いています。 ■■ 社長・役員・管理職のしりとく情報 ←クリック
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■ 119番の日 7119番も知ろう 国民の消防全般に対する正しい理解と認識を深め、住民の防災意識の高揚を図ることを目的とし、11月9日を「119番の日」として、1987年に自治体消防発足40周年を機に、消防庁によって制定されました。 類似する日本の緊急通報用電話番号の語呂合わせの記念日として110番の日、118番の日があります。 ちなみに「119」を連想させる1月19日は「家庭用消火器点検の日」です。 この日は、秋の全国火災予防運動の初日にもなっています。 一方で、近年、タクシーを利用すべきところを、安易に119番に電話して救急車の出動を求める人が多くなっているといわれています。 「7119」という電話番号をご存知でしょうか。 急な病気やケガをした場合に、「救急車を呼んだほうがいいのかな?」、「今すぐ病院に行ったほうがいいのかな?」など迷ったときには、119ではなく7119に電話すべきです。 ここは、「東京消防庁救急相談センター」の相談窓口です。相談医療チーム(医師、看護師、救急隊経験者等の職員)が、24時間年中無休で対応しています。 それにより不要に救急車を利用して、本来必要としている人に迷惑を掛けなくて済むようになります。 東京消防庁 http://www.tfd.metro.tokyo.jp/lfe/kyuu-adv/soudan-center.htm ■ 太陽暦採用記念日
11月9日は太陽暦採用記念日です。1872年に月の満ち欠けを基準にした太陰暦から変わったと言います。
わずか140年強前までは日本では太陰暦を使っていたことになります。なんとなく奇異感を持つのは私だけでしょうか。
明治5年のことと言いますから、逆に考えると、坂本龍馬で話題の大政奉還、明治時代初期というのは日本においては大転換の時期であったと言えます。
ご存知のように太陽暦は地球が太陽を一周することを基準にしています。正確には一年は365.2432日となり、その端数を閏年毎に修正しているわけです。
閏年で調節すると言うことは、自然の営みを人間の世界に取り入れる際の「知恵」と言えます。
しばしば経営コンサルタントというのは何でも知っている人と見られます。知識としては豊かな人であることは確かですが、知識だけでは経営コンサルタントはやれません。コンサルティング・ファームの中にはMBAを取得して間もない人をコンサルタントとして採用していますが、彼らには中小企業の現場コンサルティングは重荷ではないでしょうか?
なぜなら、中小企業現場というのは理屈より人間関係が絡んだ問題・課題が多いのです。社会経験の浅い人達が偉そうにご高説をたれると、社員さん達からそっぽを向かれます。中小企業のコンサルティングには「心」と「智慧」が大切なのです。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 119番の日
◇ 秋の全国火災予防運動(~15日)
◇ 常陸瓜連常福寺二廿六夜おる尊大祭(冏師忌)
◇ 証空上人降誕(西山浄土宗)
【経営コンサルタントの独り言】
■ 太陽暦の歴史はまだ浅いのですね 紫色がかった小さな雲の塊が、白み始めた東の空に次第にピンク色に変わり、その範囲が視る観る広がって行きました。 次第に、いつものオレンジの空に変わったときには、何かホッとしました。 自然の営みというのは素晴らしいですね。 1872年11月9日、太陰暦から太陽暦に切り替わりました。 月の満ち欠けを基準にした太陰暦が、わずか140年強前まで太陰暦が使われていたのです。 太陽暦を基にしたカレンダーを毎日使っていてそれがあたり前と思っていますので、わずか百数十年前まで太陰暦が使われたことを改めて知りますと奇異感を持つのは私だけでしょうか。 龍馬や西郷が幕末から活躍し、明治新政府がよちよち歩きしだした頃の話です。 日本の大転換期ですので、当然のことなのですから、奇異に感じることの方がおかしいのかもしれませんね。 【きょうの人】 ■ 藤堂高虎 とうどう たかとら 弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日) 藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる、藤堂家宗家初代です。 浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光と、何度も主君を変えた戦国武将として知られています。 築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られています。 高虎の築城の特徴は、石垣を高く積み上げることと堀の設計です。石垣の反りを重視する加藤清正と対比されることが多いです。 関ヶ原の戦いでは、秀吉の死後、徳川家康に接近していたこともあり、徳川家康側として闘いました。 その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を上げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封、22万石の津藩主となりました。 家康は、高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用したそうです。 ■■ 人気上昇中<経営四字熟語> ←クリック
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■ 尻摘み祭
11月10日は、静岡県伊東市にある音無神社の「尻つみ祭」です。祭神の豊玉姫命に安産を祈願する祭事が起源とされています。
祭の時には境内の明かりは消され、暗闇の中で行われます。会話を交わすことも禁じられています。
御神酒をまわし飲みするのですが、隣の人の尻をつねって合図をすることから、「尻つみ祭」と命名されました。
お囃子にあわせて尻をぶつけ合う尻相撲大会も開かれます。
■ 肢体不自由児愛護の日
1953年(昭和28年)に肢体不自由児協会の主唱で、「肢体不自由児愛護の日」が制定されました。肢体不自由児愛護思想を普及させ、子供達の幸せをはかり、推進して行くことを目的としています。
友情年賀絵はがきと愛の年賀絵はがきの領布活動があることを知っている人も多いでしょう。友情の作文や図画の募集、肢体不自由高校奨学生の採用など、積極的な活動を行っています。
同協会のサイトによると、協会の目的は、下記のように説明されています。
肢体不自由児とは、生まれつき又は出産時の障害、あるいは幼い時の病気や事故などによっ て、手や足、背骨などの運動機能に不自由がある子どもたちのことです。
児童憲章には≪すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不十分な場合は、適切な治療と保護が与えられる≫とうたわれています。
肢体不自由児に必要なのは、家族や社会の愛情と理解、適切な治療や訓練、そして社会にとけこんでいくための手助けです。早期の訓練と良い環境が目を見張らせるような成果を上げることは、医学的にも証明されています。
日本肢体不自由児協会は、家族と社会の間に立って、家族を支援し、社会を啓発し、肢体不自由児が最も恵まれた環境にいられるようさまざまな事業を行っています。
■ 【今日は何の日】その他 ◇ 鋸南町浄蓮寺十夜法要
◇ 忍徴忌
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意外と知らないで損をしている人が多いのです
図: 肢体不自由児協会サイトより
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 国民のことを心からサポートする政治が行われることを望む 日本では、身障者の社会復帰というオブラートに包んだ甘言で、身障者への補助を減額する方向で動いています。「社会復帰」といいますと、一見すると、良いように見えます。それはタテマエで、ホンネは、社会復帰をさせて、補助金支出を減らそうというところに起因しているのです。 法律というのは、その抜け穴を探して不当なお金を手に入れようとする頭のよい人もいますが、多くの身障者は、直りたくても名折れ内で苦労したり、苦しんだりしています。身障者度合いを下げられて、補助金が少なくなって生活に困窮する人も出てきているようです。 “真”に国民のことを考えられる政治家であって欲しいです。 |
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■ 円爾 生誕 (聖一国師) えんに/しょういちこくし 建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日) 鎌倉時代中期の臨済宗の僧で、藤原家道に迎えられ臨済宗東福寺の開山となりました。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。 法諱は初め弁円と称し、円爾は房号でしたが、後に房号の円爾を法諱としました(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もありますが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではないといわれています。 その宗風は、純一な禅でなく、禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本としますものの、禅のみを説くことはなく、真言・天台とまじって禅宗を広めました。 また、博多崇福寺に従し、承天寺の開山でもあります。宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称されます。 なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めています。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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