35年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
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12月04日 | |
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■ 東北新幹線が青森まで直通開業 2010(平成22)年12月4日に、東北新幹線が、青森直通開業しました。 青森県というのは、日本海側から太平洋側まで、結構横に広い件で、空港も三沢と青森が東京からは便利でした。しかし、東北新幹線一本で行けるとなると空路から切り替える人も出てきました。 別にこれという理由はないのですが、東京−大阪間ですら私は飛行機を利用する方が多いのです。 経営コンサルタントが求められる能力の一つに「話法」というのがあります。そのトレーニングのためにディベートを利用します。「東京−大阪間は飛行がよいか、新幹線がよいか」というテーマで望むときに体験していないと真実みのある意見を出せず、ディベートに負けてしまいかねません。 「JALがいいか、ANAがいいか」というのもテーマとしてはおもしろいかもしれませんね。一時は「JALは空いている」という理由で利用する人も多っかたですが、最近は空席率を抑えるために、機種選定を見込み乗客数に合わせるようになりました。空席率ではどちらが良いのか選べなくなりましたね。最後は、サービスとイメージでしょうか。 |
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■ 血清療法の日 北里柴三郎(1853〜1931年(昭和6年))は、「日本の細菌学の父」として知られ、日本を代表する細菌学者です。初代伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)所長であり、日本医師会創立者としても知られています。 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 外部ブレインを使いこなせない社長は引退せよ 技術革新は、ICT(IT)分野に限らず、あらゆる分野で行われています。 それも革新のスピードはますます速くなってきています。 その波に巧みに乗って成長している企業を見ますと、その視点の素晴らしさに感嘆します。 しかし、そのような企業は一握りに過ぎません。 多くの中小企業経営者・管理職とお話していますと、旧態依然としている人が多いのです。 「井の中の蛙」という言葉がありますが、企業内だけを見ている「内向き」な状態にいるようです。 一人の人間では限界があります。 社内だけの人材では充分に対応しきれません。 例え有能な人材がいても、人間関係の難しさから、その人の力が充分に発揮されていないために機会損失を起こしてしまっていることも多々あります。 外から風を入れてみましょう。 風を入れることは、投資をしただけの価値があります。 投資対効果の見合う風を入れることが契機となり、企業は、井の中の蛙ではいられなくなり、大きくジャンプすることができる可能性が出てきます。 あなたの会社も、外からあなたの会社に即した風を入れてみませんか? (ドアノブ) |
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■ 円珍 天台寺門宗(寺門派)の宗祖 えんちん 弘仁5年3月15日(814年4月8日− 寛平3年10月29日(891年12月4日) 平安時代の天台宗の僧で、天台寺門宗(寺門派)の宗祖でもあります。 (写真:Wikipedia) 法号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」で、諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)と称し、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人ですので、最澄・空海らと肩を並ぶお人なのです。 讃岐国(香川県)金倉郷に誕生しました。その地の豪族・佐伯一門のひとりで、俗姓は「」和気」といいます。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたるといわれています。 15歳で比叡山に登り、義真に師事、12年間の籠山行を終えました。 役行者を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼しました。吉野での修験道の発展に寄与することになり、承和13年(846年)には、延暦寺の学頭となりました。 仁寿3年(853年)に、新羅商人の船で唐に向かう途中で暴風に遭って台湾に漂着したいりしました。 天安2年(858年)帰国後、比叡山の山王院に住した後、第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜りました。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上におきましても注目されることです。 ■ 西有 穆山 曹洞宗の僧侶、総持寺独住三世貫首 にしあり ぼくざん 俗名:笹本万吉 文政4年10月23日(1821年11月17日)−明治43年(1910年)12月4日 陸奥国(青森県)八戸出身の日本の曹洞宗の僧侶で、横浜市總持寺独住3世貫首でもあります。法名は瑾英(きんえい)、直心浄国禅師で、俗名は、笹本万吉です。 天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、金栄と名乗っていました。天保10年(1839年)に、仙台に移転し、天保12年(1841年)に江戸に出て、吉祥寺旃檀林学寮に入りました。浅草本然寺の泰禅の後を継ぎ、牛込鳳林寺住職となり、小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行しました。 瑾英に改名し、1861年、諸嶽奕堂会下の龍海院で修行中に大悟を得て、奕堂より印可を受けました。 宗参寺・鳳仙寺を経て、大教院に呼ばれて中講義・大講義、總持寺出張所監院、本山貫首代理になりました。法光寺・中央寺・可睡斎・伝心寺を経ています。 明治33年(1900年)に、信者の寄付により、横浜に西有寺を創建、翌明治34年(1901年)に總持寺貫首に選ばれます。翌明治35年(1902年)に、曹洞宗管長となりました。明治38年(1905年)に横浜で引退し、明治43年(1910年)12月4日に遷化しました。 著書に『直心浄国禅師語録』4冊、『正法眼蔵啓迪(けいてき)』3冊などがあります。 |
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