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12月03日 | |
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■ みかんの日 |
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■ 小汀 利得 毒舌ジャーナリスト、時事評論家 おばま としえ 1889年(明治22年)12月3日−1972年(昭和47年)5月28日) 第二次世界大戦前は中外商業新報(後の日本経済新聞)の記者で、経済部長、編集局長、社長を歴任、戦後はTBSテレビの座談会番組「時事放談」のレギュラー出演者として活躍しました。勲一等瑞宝章受章、叙・従三位。 島根県(旧)神門郡に8人兄弟の三男として生まれました。 早くから新聞記者を目指していた小汀は、酒屋などで小僧奉公の後、1906年に上京、当時は人気がなかった青山方面で真っ暗闇のなか新聞配達で学資を稼いだそうです。 中学校卒業資格を持っていませんでしたが、早稲田大学の独特の資格試験に合格、1915年、政治経済学科(現・政治経済学部)を卒業しました。 衆議院議長島田三郎(立憲同志会)の議長秘書官を務めたあと、貿易会社に就職しましたが倒産。1921年、ようやく念願の新聞社に入社できました。 貿易実務を経たためか小汀の興味・関心は経済・金融分野にあり、彼は中外商業新報社(日本経済新聞の前身)に経済部記者として入社したのでした。32歳、ジャーナリストとしては遅咲きのスタートといえます。 1930年の濱口雄幸内閣の金融政策に反発し、同様の主張を行った石橋湛山(東洋経済新報)、高橋亀吉(経済評論家)、山崎靖純(時事新報、後に読売新聞)と共に、小汀は「新平価解禁四人組」として勇名を馳せました。 同社社長、大日本言論報国会参与でしたが、戦時下これらの要職にあったことを問題視され、1947年には公職追放となってしまいました。 1950年の公職追放解除後は、国家公安委員会委員をはじめ各省庁の委員会・審議会委員を歴任しました。1957年からはTBSテレビ「時事放談」のレギュラー出演者として、細川隆元とともにその毒舌が評判となりました。テレビで細川が頻繁に「リトクさん」と呼びかけたことから晩年にはこの俗称が定着してしたのです。 政府・官僚機構を「木っ端役人ども」「無能な官僚」などと呼び、また日本武道館をビートルズのコンサート会場として使用させることに対して口を極めて非難するなど、うるさ型としての意地を通しました。 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 高価な果物も外国人にはどこまで好まれるか? サラリーマン新人時代に、カナダから重要なお客様が毎年来ていました。 果物好きで、昼食は千疋屋から取り寄せた果物バスケットが饗されました。 それがどのくらいの値段だったのかは知りませんが、当時の私の給与の10〜20%位に相当したのではないでしょうか。 日本のみかんは好きか?と問うたところ、口ごもりました。 オレンジを食べ慣れている彼らには、温州みかんはさっぱりとしすぎているから、「もの足りない」とは言えなかったのでしょう。 海外では、オレンジが主流の柑橘類果物 日本人には馴染みですが、海外の人には味が淡泊に感じるようで、多くの人が努力している割には、なかなか大量の輸出にまで至っていないようです。 (ドアノブ) |
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【きょうの人】 ■ 阿部 正弘 あべ まさひろ 文政2年10月16日(1819年12月3日)− 安政4年6月17日(1857年8月6日) 江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主で、江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行しました。 天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰することになりました。 しかし正弘は、一度罷免された水野が復帰することに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したといわれます。 水野が復帰しますと、天保改革時代に不正などを行っていた町奉行鳥居忠耀や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となりました。 また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め大胆な人材登用を行いました。 ペリーの再来により、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げさせることになります。 開国派であった井伊直弼らと反りが合わず、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図りました。 |
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昨日 明日 | |
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