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当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
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■ 【今日の写真】 早春の京都 詩仙堂 史跡「詩仙堂 丈山寺」 石川丈山は、隷書、漢詩の大家であり、わが国における煎茶(文人茶)の開祖と言われている。 壁には獅子が子を谷に落とす図のある扇形の壁間窓があり、その上方に、中国の詩人三十六人の画像および詩の額が四周に掲げられている。いまは大部黒ずんで、よくは見えない。(詩仙堂ウェブサイトより) 私が撮影した詩仙堂の写真 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_shisendou.htm |
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3月13日 | |
■ 奈良春日大社春日祭 毎年、奈良の春日大社で「春日祭(かすがさい)」が開催されます。嘉祥2年(849年)に始まったと伝えられ、明治19年の旧儀再興で例祭日が,この日に決まりました。 三大勅祭(葵祭、石清水祭、春日祭)の一つで氏神祭の典型。他の勅祭と異なる形態をとっています。 宮中より天皇陛下のご名代である勅使が参向し、国家の安泰と国民の繁栄を祈ります。 御戸開之神事が行われることから、大社内の回廊各所の建物には参詣できません。二之鳥居からの参道で、拝観することになります。 春日大社公式サイトによりますと、「 正午には、勅使以下斎館を出て、祓戸の儀、著到の儀を経て幣殿・直会殿の作合の座につき、御棚奉奠(みたなほうてん)、 御幣物奉納(ごへいもつほうのう)、御祭文奏上(ごさいもんそうじょう)、神馬牽廻(みうまのけんかい)、 和舞奉奏(やまとまいほうそう)、饗饌(きょうせん)、見参(げざん)、賜禄(しろく)をもって正午過ぎ祭儀が終了します」とあります。 ■ 青函トンネル開業記念日 1988(昭和63)年3月13日、青函トンネルを通るJR津軽海峡線が開業しました。 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ■ 経営コンサルタントの自己研鑽は「下学上達」 「下学上達」は何と読むのでしょう。 経営四字熟語は、「科学」です。 駄洒落です。<済みません m(_ _)m > 経営環境は、日々変化しています。 経営コンサルタントは常に先を読んで、アドバイスをしてゆかなければなりません。 しかし、難しい理論をひけらかす経営コンサルタントであって欲しくないのです。 経験や基礎知識・経験のない経営コンサルタントは、頭でっかちの、薄っぺらなことしかアドバイスをできません。 経営者・管理職の方が、実践の場を踏んでいるだけに強いのです。 そこで求められる姿勢が「下学上達」なのです。 http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/d4039bf762f9788cf3e85d95286d5cda |
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【きょうの人】 ■ 高村光太郎 私の座右の銘「道程」の作者 たかむら こうたろう 1883年(明治16年)3月13日 − 1956年(昭和31年)4月2日) 日本の詩人・歌人・彫刻家・画家で、現在の東京都台東区東上野一丁目の出身で、本名は光太郎と書いて「みつたろう」と読みます。 父は、彫刻家・仏師であります高村光雲で、そのえいきょうもあるのか、光太郎も日本を代表する彫刻家です。また、画家としても、評論や随筆、短歌にも通じ、能書家としても知られています。 『道程』『智恵子抄』などの詩集もあり、教科書にも多く作品が掲載されています。日本文学史上、近現代を代表する詩人の一人といえるほどです。 詩集『智恵子抄』はよく知られていますが、『道程』の冒頭「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」は、この詩を初めて目にしたときに、私に啓示を与えてくれたようにさえ思えました。 ■ 上杉 謙信 没 戦国武将、関東管領 うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら) 享禄3年1月21日(1530年2月18日)(グレゴリオ暦1530年2月28日)−天正6年3月13日(1578年4月19日) 戦国時代の越後国の大名で、後に山内上杉家16代当主となります。武田信玄と並ぶ、戦国時代でも屈指の戦上手といわれ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称されました。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)でした。 1561年(景虎31歳)の折に、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られました。「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられて、上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名したのです。 上杉氏が、世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継ぎました。 後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱として「輝」の1字を受けて、最終的には輝虎と名乗りました。謙信は、さらに後に称した法号です。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させたのですから、単なる戦国武将ではなかったのです。 他国から救援を要請されますと、黙っていられない聖覚で、秩序回復を掲げ、幾度となく出兵しました。 闘った相手は、武田信玄だけではなく、北条氏康や織田信長、また、越中一向一揆にも遭遇しています。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られています。 さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へと勢力を拡大しましたが、48歳で死去しました。 謙信には実子がなく、死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発しました。 「道理をもって誰にでも力を貸す」と、『白河風土記』に述べられています。私達経営コンサルタントの心得の一つに繋がります。 謙信が敵将武田信玄に塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれましたが、本当に塩を送ったのかどうかの真偽の程は解明されていないようです。 ■ 頓阿 新拾遺和歌集の撰進 とんあ / とんな 正応2年(1289年)−文中元年/応安5年3月13日(1372年4月17日) 鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての僧であり歌人でもあります。父は二階堂氏一族とされていますが、藤原師実の子孫という説もあります。 俗名は二階堂貞宗(にかいどう さだむね)で、父と祖父のなから一字ずつとって命名されたと言われています。 比叡山で篭居して天台教学を学び、その後高野山でも修行し、20歳代後半に金蓮寺の真観に師事しています。 西行を崇拝し、その史蹟を慕って諸国を行脚し、京都東山双林寺の西行の旧跡に草庵を構えるなどして隠遁者の生活を送りました。 二条為世に師事してから活躍が広がり、二条派(歌道)再興の祖とされるまでになり、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人と称されています。宮仕えをすることを地下(じげ)といいますが、頓阿はずっと宮仕えをした歌人でしたので、歌壇での本格的な活躍は晩年であったようです。 「新拾遺和歌集」の撰者二条為明(ためあき)を引き継いで完成させました。 「続千載集」以下の勅撰和歌集に44首が入集されています。著書に『井蛙抄』、『愚問賢註』などがあります。 兼好との交流も深いようで、徒然草第82段に登場します。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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昨日 明日 | |
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