40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
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【今日の写真】花の女王「ラン」 国際らん展より | |
ランは、英語でOrchidといいます。洋ランは、豊富に流通していますが、どの世界でも珍種を好む人は多いのです。新種を求めたり、野生種を求めたりという動向から、乱獲は世界的な問題です。 絶滅を回避するためにワシントン条約で規制されています。 |
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2月16日 | |
■ 天気図記念日 天気図は1日1回発行されることになり、8月23日からは新橋と横浜の駅頭にに掲示されました。 |
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【Wikipedia】 毎日、世界標準時0時と12時、加えてその間の3時間ごとに、世界中の地上気象観測地点数千箇所で、気象観測データをまとめて送信する。また、海上の船舶、上空の観測気球などからもデータが集められる。各地域の気象機関は、そのうち必要なデータを使用して天気図を作成し、現在の気象の解析や今後の気象の予報に利用する。 データの解析にコンピュータを使用することはあるが、天気図の作成には熟練した技術も必要であり、手書きに頼る部分もまだ残されている。 主要地点の気象観測データは、ファクシミリや無線などでも配信されており、気象関係者以外でも入手することができるため、天気図作成の知識があれば誰でも天気図を作成することができる。 |
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■ その他 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 天気図はいつ、どの様に作られるのでしょうか? 昔の山男は、ラジオの天気情報を基に自分で天気図を作成し、自分で天気の状況を読んで、行動の判断に使いました。 昨今では、天気予報は、気象衛星ひまわりからの映像データを詳しくテレビなどで見ることができます。 天気図も、モノクロだったのが、カラー化されて見やすいです。 その天気図や天気予報は、どの様に作られているのでしょうか? 気象庁のサイトによりますと、日本周辺域の天気図の実況天気図は、3時間おきに発表されています。 観測時刻の約2時間10分後に、アジア太平洋域天気図の実況天気図が6時間おきに観測時刻の約2時間30分後に発表されています。 それ以外に24時間予想図と48時間予想図が、日本周辺域、アジア太平洋域ともに12時間おきに発表されています。 詳しくは、気象庁のウェブサイトでご覧いただけます。 http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/a8f2a771326c90974aa720759990c5f7 なお、天気図の有効な活用法というページも参考になります。 気象庁 http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kurashi/tenkizu_katuyo.html |
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■ 日蓮聖人降誕会 |
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■ 藤堂高虎 とうどう たかとら 弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日) 藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる、藤堂家宗家初代です。 浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光と、何度も主君を変えた戦国武将として知られています。 築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られています。 高虎の築城の特徴は、石垣を高く積み上げることと堀の設計です。石垣の反りを重視する加藤清正と対比されることが多いです。 関ヶ原の戦いでは、秀吉の死後、徳川家康に接近していたこともあり、徳川家康側として闘いました。 その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を上げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封、22万石の津藩主となりました。 家康は、高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用したそうです。 |
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■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及 いっこう しゅんしょう 暦仁2年1月1日(1239年2月6日)-- 弘安10年11月18日(1287年12月24日) 鎌倉時代の僧侶で、伝記に謎が多く、生没日も定かでなく、実在すらが疑問視されていましたが、考古遺物により、存在が証明されました。 伝承によりますと、筑後国西好田(福岡県久留米市か)の鎮西御家人草野氏の草野永泰の第二子に生まれたとあります。 俊聖(一向上人)は、寛元3年(1245年)に、播磨国の書写山にある圓教寺に入寺して天台教学を修めることとなり、建長5年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。 翌年夏には書写山を下り、奈良の興福寺、鎌倉の蓮華寺(光明寺)をはじめ各地を遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏を修し、道場を設けるまでに至りました。 一遍と並んで浄土系遊行聖となり、各地を回り踊り念仏を広めました。 弘安七年、近江蓮華寺を立てて開基となりました。49歳で同寺で最期を迎えたといわれています。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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昨日 明日 | |
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