40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
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【今日の写真】 花の女王「ラン」 国際らん展より | |
ランは、英語でOrchidといいます。ランは、花びらが6枚あります。外側にくる花弁が3枚あり、内側が3枚です。 内側の花弁形状が独特なことが、ランを美しく見せたり、左右対称形を作りやすくしています。 公開時間:午前10時00分~午後5時30分(入場は午後4時30分まで) 東京ドーム(東京都文京区後楽1-3-61) |
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2月15日 | |
■ 兼好忌 ラブレターの代筆?? 通常「吉田兼好」と呼んでいますが、俗名は卜部兼好です。兼好の生家が京都吉田神社の神官をしていたことから、その子孫が吉田姓を名乗ったために「吉田兼好」という呼び名が広まったのです。 兼好は、鎌倉時代末期の人で随筆だけではなく歌も作ったようです。 兼好には、「ラブレター代筆事件」というのがあるそうです。 |
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【Wikipedia】 足利幕府の執事高師直は、侍従という女房から塩冶高貞(塩谷判官)の妻が美人であると聞いて、急に恋心を起こし侍従に取り持ちを頼むが上手くいかない。いっそう思いを募らせた師直は「兼好とひける能書の遁世者」に艶書の代作をさせ、使者に届けさせる。しかし判官の妻は、その手紙を開けもせず庭に捨ててしまったので、師直は怒って兼好の屋敷への出入りを禁じてしまったのだという。 |
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■ 涅槃会 涅槃会とは、お釈迦様の入滅の日を記念して、各地のお寺で行う法会の一つです。涅槃図を掛けて、涅槃経や遺経を読謡します。日本では、清和帝の貞観2年に奈良の興福寺で行ったのが最初だとされています。 【Wikipedia】涅槃会(ねはんえ) 涅槃講や涅槃忌とも称し、陰暦2月15日、釈迦の入滅(にゅうめつ)の日に、日本や中国などで勤修される、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要である。現在では、3月15日に行なわれているところもある。 涅槃とは、ニルヴァーナの訳語であり、迷妄のなくなった心の境地を指す言葉であったが、この場合には、釈迦が亡くなったという意味で用いられている。 実際には、釈尊が入滅した月日は不明であり、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日(ウェーサーカ祭)と定められている。ヴァイシャーカ月が、インドの暦では第2の月であることから、中国で2月15日と定めたものである。 法要中は、釈迦が娑羅双樹の下で涅槃に入った際の、頭を北にして西を向き右脇を下にした姿で臥し、周囲に十大弟子を始め諸菩薩、天部や獣畜、虫類などまでが嘆き悲しむさまを描いた仏涅槃図(涅槃図)を掲げ、『仏遺教経』を読誦することとなっている。仏涅槃図の絵解きを行うところもある。平安時代には、山階寺の涅槃会がとりわけ有名であり、常楽会(じょうらくえ)とも称されており、『三宝絵』の中でも「年中主要法会」の一として記されている。 |
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■ その他 |
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【経営コンサルタントの独り言】 徒然草を知らない人はいないでしょう。 その作者の兼好法師もよく知られています。 私達は、吉田兼好と呼んでいますが、俗名は卜部兼好だそうです。 「とべ」ではなく「うらべ」と読みます。 某TV局のアナウンサー「水卜」さんは、本名は「みうら」さんですが、「ミトちゃん」の愛称で人気ですね。 ですから「卜」は、カタカナの「ト」などと誤って読む人は少ないかもしれませんね。 これは、失礼しました!! |
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■ 聖宝(理源大師)生誕 しょうぼう 天長9年2月15日(832年3月21日)- 延喜9年7月6日(909年7月25日) 平安時代前期の真言宗の僧、醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖でもあります。また、後に当山派修験道の祖ともされています。 俗名は、恒蔭王(つねかげおう)で、天智天皇の6世孫にあたり、父は、葛声王(かどなおう)といい、諡号は、理源大師です。 三論、法相、華厳などを学び、後に、密教を真雅、真然より授かっています。醍醐寺を開き、また東南院を建てて、三論宗の本拠地としています。 役行者(役小角)の遺風を慕って、その最高に務めたので、後世、修験道の中興と言われるようになりました。 『古今和歌集』に歌一首があります。 聖宝に唱える言葉は「南無聖宝尊師(なむ しょうぼうそんじ」であり、三祖宝号の時は「南無遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」で、お山の中では順番は逆になるのだそうです。 善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。 信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。 そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。 鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。 建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。 弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。 |
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■ 武田豊 |
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■ 一遍上人降誕会 いっぺん 延応元年2月15日 - 正応2年8月23日 1239年3月21日 - 1289年9月9日 鎌倉時代中期、伊予国で誕生した僧侶で、時宗の開祖です。 「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満より、名前が付けられています。 「一遍」とは、「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教義でもあります。 「智」は、「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表します。 「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称されます。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られ、俗名は河野時氏とも、通秀とも、通尚ともいいますが、定かではありません。 古来日本では、人の名をむやみに呼ぶべきではなく、人に知らせるものでもありません。ましてや実名では呼ぶべきではないという慣習が存在していましたので、このように複数の名前が存在する原因と考えられます。 延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)の豪族、別府氏に生まれました。道後温泉の近くです。 各地を行脚し、信濃国で踊り念仏を始め、民衆を極楽浄土へと導きました。踊り念仏は尊敬していた空也上人に倣ったものといわれています。 正応2年(1289年)2月15日、享年51歳で摂津兵庫津の観音堂(後の真光寺)で没しました 【Wikipedia】 一遍(いっぺん) 鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。「一遍」は房号で、法諱は「智真」。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀、通尚ともいうが、定かでない。 |
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【きょうの人】 ■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力 り こうしょう 1823年2月15日(道光3年1月5日)-- 1901年11月7日(光緒27年9月27日) 中国清代の政治家で、字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力しました。 日清戦争の講和条約である下関条約で、清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことで知られています。 清朝末期に起こった反乱・太平天国の欄で、政府軍に降伏した敵軍を吸収しながら、西洋式軍事訓練も施して、自軍強化に努め、蘇州・常州を奪回するなど、活躍しました。 李鴻章は、その手腕を買われ、清朝の重臣筆頭となり、さらに同治帝の母・西太后の厚い信任を得ました。 日本の朝鮮出兵などの動きに驚異を感じ、日本との関係を模索しました。同治9年9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、日本との提携を記した草案の作成を担当し、伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結びました。 大久保利通他とも交流を持ち、西欧やロシアの圧力に対抗を試みるなど政治的手腕を発揮しました。しかし、日本は、日清戦争に走ります。日本側は列国の干渉をおそれ、休戦条約を調印し、日清講和条約(下関条約)の調印を行います。 この条約で朝鮮・台湾・遼東半島などの喪失と賠償金支払いなどで、清の威信は大きく低下し、李鴻章は失脚します。しかし、西太后の意もあり、復権します。 波乱の人生でしたが、李鴻章の意志は、袁世凱に引き継がれます。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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