35年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
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【今日の写真】 | |
朝の散歩で、寒風にさらされながらもけなげに咲く花を見つけました。 |
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1月27日 | |
■ 国旗制定記念日 1870(明治3)年1月27日に、太政官布告第57号の「商船規則」で、国旗のデザインや規格が定められました。 |
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■ ハワイ移民出発の日 1885(明治18)年1月27日に、日本からハワイへ向けての移民が始まりました。 第一号の船が横浜港を出航したことを記念して制定されました。 当時、砂糖の需要が急増し、労働需要が高まり、日本だけではなく各国から移住したのです。とりわけ、地理的にハワイに近いこともあり、中国やフィリピンを初め、アジア各国から多くの人が移住しました。 しかし、現地での労働条件は厳しいもので、月額10ドルほどであったと記録されています。 今日では、ハワイ産のパイナップルも人気です。 コーヒー通の人には、コナコーヒーを第一に挙げるでしょう。 普通に淹れますと、香りも味も今ひとつですが、他の豆とブレンドしますとふくよかな、深みのある味のコーヒーに変わりますので、まるでマジックの感がします。 日本では、コナ100%というのはなかなか手に入りません。ハワイに行っても、どこにでも売られているわけではないです。 最近は、フレーバーのついたコナコーヒーもありますが、やはり、普通のコナがいいですね。 ハワイに行きますと買って帰る人も多いのではないでしょうか。 |
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■ 道了尊大祭 大きなお椀で茶を飲む 正月・五月・九月は大祭の月にあり、27・28日の両日には、多くの参拝者が来山します。 五月大祭では、古則にのっとった大きなお椀で、御点前を頂く「禅院茶礼(ぜんいんされい)」が行われます。 九月大祭では「仏像を彫る教室」の作品展が催され、檀家など仏像彫刻に関心の集まる催し物です。 開催日が平日となる日が多いので、普段の参拝とはまたひと味違った日を過ごすことができるようです。 ちなみに神奈川県南足柄にあります大雄山最乗寺は、曹洞宗に属し、御本尊は 釈迦牟尼仏、脇侍仏として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門道場でもありますある。 開創以来600年の歴史をもつ関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山に漲り、堂塔は30余棟に及ぶ大きなお寺さんです。 |
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■ その他 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 年間報酬3千万円越が10年続くコンサルタント 「経営コンサルタントはどのように勉強するの?」「経営コンサルタントがどのような本を、どのように読んでいるのかを教えてください」「経営コンサルタントのお勧めの本は?」という声をしばしばお聞きします。 毎月第4火曜日に「経営コンサルタントの本棚」という、日本経営士協会の経営士・コンサルタントの先生方が読んでいる書籍紹介のブログをお届けしています。 いつぞやネットサーフィン(最近、この言葉もあまり使われなくなりました)をしていましたら、「コンサルタントで飯が食えている人はほとんどいない」という言葉を見て、ガックリしました。 それもコンサルタントをめざす人に対して、コンサルタントでない人が書いているのです。 「世の中には、キチと仕事をして、きちんと収入を上げているコンサルタントもたくさんいるのですよ」とその方に教えて差し上げたい気持ちになりました。 まじめなコンサルタントに対する侮辱のようにもとれました。 自分の少ない体験が、すべてであるかのような言い方をする人が、残念ながら多い昨今ですね。 今月の「経営コンサルタントの本棚」では「コンサルタントの教科書」という、年間3千万円を稼いでいるコンサルタントの書いた本を紹介しています。 http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/6e7e928c05d23faa00dd021ac17695e7 |
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■ 雨情 |
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■ 沢庵 宗彭 没 たくあん そうほう、澤庵 天正元年12月1日(1573年12月24日)- 正保2年12月11日(1646年1月27日) 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、諡は普光国師、号に東海・暮翁などがあります。 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。 8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人しました。 天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得ました。 天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しています。 天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。 文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名しています。 慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交がありました春屋に住職の派遣を依頼しました。 春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごしました。 慶長12年(1607年)、沢庵は、大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。 元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入りました。 寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されました。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。 書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。沢庵漬けの考案者と言われていますが、これについては諸説があるようです。 |
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■ 伊藤圭介 いとう けいすけ 享和3年1月27日(1803年2月18日)-明治34年(1901年)1月20日 幕末から明治期にかけて活躍した理学博士で、男爵の爵位を持っていました。 享和3年(1803年)、町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ、文政3年(1820年)には、若くして町医の資格を得て開業しました。 文政4年(1821年)、京都に遊学し、蘭学を学び、文政10年(1827年)には、長崎にて、シーボルトより本草学を学びました。翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの『日本植物誌』を受け取り、これの翻訳をし、文政12年(1829年)に、『泰西本草名疏』を刊行しました。 明治3年(1870年)、東京に移り、明治政府に仕えました。同14年(1881年)、東京大学教授に任ぜられ、同21年(1888年)、日本初の理学博士の学位を受けました。 また初代の東京学士会院会員となったり、学者として初の男爵を授けられたりしています。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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昨日 明日 | |
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