40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
Yahooブログ アメブロ ブログ人 ドリームゲート |
【今日の写真】 | |
福岡・楽水園 楽水園サイトより 楽水園は博多駅近くのオフィス街の一画にある博多商人が粋に茶を楽しむ日本庭園です。 博多商人にあやかって、私も一服いただきました。 説明 ←クリック |
|
1月26日 | |
■ 文化財防火デー 子供心に奈良の法隆寺の金堂が全焼したことを覚えています。祖母が「大切な壁画が消失してしまったんだよ」と言っていました。 |
|
■ 帝銀事件の日 1948年1月26日、銀行の閉店直後の午後3時すぎ、東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を差し出して、「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に青酸化合物[1]を飲ませた。その結果11人が直後に死亡、さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。犯人は現金16万円と、安田銀行板橋支店の小切手、額面1万7450円を奪って逃走したが、現場の状況が集団中毒の様相を呈していたため混乱が生じて初動捜査が遅れ、身柄は確保できなかった。なお小切手は事件発生の翌日に現金化されていたが、関係者がその小切手の盗難を確認したのは事件から2日経った28日の午前中であった。 |
|
■ その他 |
|
【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 乾燥注意報と文化財 2月26日は、文化財防火デーです。 いつどの様なところで火災が発生するか解りませんので、平素からの注意が必要なのでしょう。 文化財保護法で、保護の対象とされている文化財には、 有形文化財(建造物、彫刻・絵画、工芸品など) 無形文化財(演劇、工芸技術など) 民俗文化財(風俗慣習など) 記念物 伝統的建造物 の5分類があるそうです。 イメージとしては、すぐに有形文化財を想像しますが、ユネスコ無形文化遺産に登録された日本の祭り・屋台などもあるわけですものね。 先日、京都のあるお寺さんで、飛鳥時代の仏像が見つかったと報道されていました。 それまで、それほど貴重な仏像とは思われていなかったといいますから、まだまだ知られていない貴重なお宝が眠っているのかもしれません。 だからこそ、テレビのなんでも鑑定団が人気番組として続いているのでしょうね。 http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/333cf15cc3fb5e5bb15b2a445b325e4d |
|
↑ Page Top | |
■ 盛田 昭夫 ソニー創業者の一人 もりた あきお 1921年1月26日 - 1999年10月3日 日本の技術者、実業家で、井深大と共に、電気機器メーカーソニー創業者の一人であることは、周知の通りです。 意外と忘れられているのが、1992年(平成4年)に、名誉大英帝国勲章を受勲していることです。 愛知県名古屋市白壁(盛田家の出自は常滑)にm盛田久左衛門・収子の長男として生まれました。生家は、代々続いた造り酒屋で、父・久左衛門は盛田家第14代当主です。母・収子は、元大垣共立銀行頭取戸田鋭之助の娘です。 お母さんは、姪に、元仙台市長・早川智寛、いとこに会社再建の神様といわれた早川種三がいるといいますので、盛田は、その血筋も強く引いていたのかもしれません。 第八高等学校(現・名古屋大学)と、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業しています。 太平洋戦争中、海軍技術中尉時代に、ケ号爆弾開発研究会で井深大と知り合います。 終戦後、1946年(昭和21年)に、井深大らとソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し、盛田は常務取締役に就任しました。 製品開発に独創性とスピードを求め、他社に先駆けた革新的製品を作り出すことで、ソニーブランドの人気を高め、企業イメージを確立したのです。 |
|
■ 良源 りょうげん 延喜12年9月3日(912年10月15日) - 永観3年1月3日(985年1月26日) 平安時代の天台宗の僧で、近江に生まれ、諡号は「慈恵(じえ)」、一般には通称の「元三大師(がんざんだいし)」の名で知られています。 12歳で、比叡山の登り、理仙、相応に師事しまし、康保3年に、第18代天台座主(天台宗の最高の位)であり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られています。 比叡山の横川(よかわ)には、元三大師堂がありますが、東西両塔と鼎立させる盛況を呈しています。 比叡山の写真 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_hieizan.htm また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集めています。 良源というより元三大師と呼ばれるほど、比叡山での功績が認められているいます。 良源と対比できることではありませんが、私事で恐縮ですが、「コンサルタントのためのコンサルタント」と呼ばれます。何ごとも、石の上に三年で、見る人は、それなりに評価をしてくれるものですね。 |
|
■ 藤沢周平 情感溢れる描写の小説家 ふじさわ しゅうへい 1927年(昭和2年)12月26日-1997年(平成9年)1月26日) 山形県鶴岡市出身の小説家で、本名、小菅留治(こすげ とめじ)といいます。 江戸時代を舞台に、庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品を多く残しています。とくに、架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品群が有名です。 長女遠藤展子は、エッセイストで、2010年4月29日、出身地の鶴岡市に「鶴岡市立藤沢周平記念館」を開館しました。 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/yamagata/yamagata-tsuruoka/yamagata-tsuruoka.htm 実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表することになります。郷里庄内と並んで農は、作家藤沢周平を考えるうえで欠くことのできない要素です。 1946年に中学校を卒業後、山形師範学校(現在の山形大学)に進みます。一級上には無着成恭がいました。 入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌『砕氷船』に参加しました。この時期の思いでは自伝『半生の記』に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれています。 初期には自ら述べるように暗く重い作風であり、地味な作家でしたが、1976年刊行の『竹光始末』、同年連載の『用心棒日月抄』のあたりから作風が変わりました。綿密な描写と美しい抒情性のうえにユーモアの彩りが濃厚となってきたのです。 藤沢は、これについて 「『用心棒日月抄』あたりからユーモアの要素が入り込んでき、北国風のユーモアが目覚めたといえます。 1980年代前半、町人もので数多くの秀品をものする短篇集を書く一方で、大衆小説の本道ともいうべき娯楽色の強いシリーズもの(短篇連作)を次々と生みだします。 1984年以降になりますと、こうしたシリーズもののほかに綿密な構成による長篇が登場し、物語性のつよい傑作を相次いで発表・刊行します。 テレビドラマ化された「せみしぐれ」に見られるようなおふくと清四郎などを通して情感溢れる描写が私の心に響きます。 |
|
【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
|
昨日 明日 | |
↑ Page Top |