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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

 

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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 【今日の写真】  
 福岡・楽水園

楽水園サイトより

  楽水園は博多駅近くのオフィス街の一画にある博多商人が粋に茶を楽しむ日本庭園です。

 博多商人にあやかって、私も一服いただきました
。  説明 ←クリック
今日は何の日    1月21日

■ 初大師、初弘法

 1月21日は、真言宗の開祖である弘法大師空海の入寂の日です。一年で最初の弘法大師の縁日で、「初大師(はつだいし)」とか「初弘法(はつこうぼう)」と呼ばれます。

 毎月21日に大師参り(たいしまいり)と称して大師堂に参拝します。1月21日は、大師参りの新年最初の日と言うことで、いつものつきより参拝者が多い縁日です。とりわけ有名なところでは、神奈川県の川崎大師や京都の東寺、東京の西新井大師があります。

 因みに、「大師」とは、朝廷から高僧に対してその死後に贈られる諡(おくりな)のことです。真言宗では空海が最初に「弘法大師」と、最初に大師を贈られました。

 弘法大師は、真言宗の開祖で、弘法は「法を弘げた」という意味です。

Wikipedia

平安時代初期の。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号921醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお(まな))。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。

  写真: 善通寺 香川県善通寺市) クリック

 
 
■ インドカレー 

 ラス・ビハリ・ボース(1886~1945)はインドの独立運動家です。1945年1月21日に彼が亡くなりました。

 インド国籍の彼は、イギリスからの独立運動を続けたために、過激派として指名手配されて、日本に逃亡してきました。

 日本に滞在中、本格的なインドカレーを日本に根付かせた人物として知られています。

 日英同盟の関係にあった日本政府は、新宿中村屋にかくまわれていた彼を、イギリス政府の要求により、来日してわずか4か月で国外退去を命令じました。

 その間、インドカレーの伝授をし、中村屋はインドカレーでも名前を挙げることになりました。


Wikipedia

和菓子洋菓子の他、菓子パン中華まんレトルト・缶詰のカレー等を製造販売している他、いわゆるデパ地下ショッピングセンター等に菓子の名店として出店(直営店160店)、レストラン(直営店20店)を営業している。

■ その他
◇ 袋中上人忌
◇ 日朗忌

 
【経営コンサルタントの独り言】

◆ 東京に高野山があるとは知りませんでした!!


 東京港区高輪といいますと、都内の高級住宅地のひとつです。

 慶応大学のあるところと言えば、お解りになる方も多いかと思います。

「シロガネーゼ」の名前で知られます白銀地域のある場所としても知られています。


 江戸御府内八十八か所巡りの一環で一番札所の高野山東京別院を訪れることにしました。
 和歌山県の高野山真言宗の東京別院ですが、総本山の金剛峰寺をイメージすると大違いです。

 しかし、都内にある寺院としては、広い土地にデ~んと構えているのですから、立派なものです。

 1月21日は「初大師」でしたが、東京別院の門前にも太子像がありました。

 真言宗のお寺には、大師堂があったり、太子像があったりしますね。

 昨日のブログでは、香川県善通寺の太子像を掲載してあります。


 御府内八十八ヶ所巡りの一番札所ですので、ここで御朱印帳とガイドブックを揃え、ご記帳をお願いしました。

 お恥ずかしながら、東京に高野山の別院があることを知りませんでした。

 東京にいながら高野山の御利益をいただけるのですから、ありがたいことです。

 昨年、高野山に行ってきました。その写真がサイトに掲載されていますので、そちらも併せてご覧下さると幸いです。

 
高野山写真集
 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/wakayama/wakayama-kouyasan.htm
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■ 崇伝(以心崇伝)

 いしんすうでん
 永禄12年(1569年)-- 寛永10年1月20日(1633年2月28日)

 安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧で、字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれます。俗姓は一色氏。

 寛永3年(1626)に後水尾天皇の師となり本光国師の称が授けられました。

 徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から黒衣の宰相の異名を取りました。

 崇伝が起草した「武家諸法度」は、老中以下諸大名の前で崇伝により布告されました。徳川家光、徳川忠長の諱は崇伝により名付けられました。

 僧侶としてだけではなく非常に優秀なブレーンとして家康をささえ、その能力に対する信頼は厚いものでした。


 自分の上司から信頼されると、実力以上の物を発揮できるビジネスパーソンが多いです。部下を使う人の能力や努力によって、部下の能力をどこまで引き出せるかが決まるようです。

 一方で、上司に評価されると周囲からのやっかみも出てくることも多いです。

 他方で、自分の能力を過信しすぎて、鼻持ちならない人間になってしまうこともあります。その様な時というのは、自分では、それに気づかないことが多いですね。



■ 弘法大師 空海

 こうぼうだいし くうかい
 宝亀5年(774年)-- 承和2年3月21日(835年4月22日)高野山にて入寂

 空海は、平安時代初期の僧侶で、弘法大師の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られ、真言宗の開祖です。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。

 讃岐国に生まれ、はじめは経書を学び、20歳で出家しました。延曆22年に東大寺戒壇院で具足戒(出家した修行者 が遵守すべき戒)、翌年唐に渡り、新語温州の協議を受けました。大同元年に帰朝し、真言宗を広め始めました。


 空海は、最澄としばしば比較され、最澄が空海に教えを請うたときに、冷たい態度を取ったということが語られます。

 真偽の程はわかりませんが、ちょっとした言動が、後々までマイナスのイメージに繋がることがありますので、気をつけなければいけませんね。



■ 上杉 謙信 義を重んじる戦国武将

 うえすぎ けんしん / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)
 享禄3年1月21日(1530年2月18日)-天正6年3月13日(1578年4月19日)

 戦国時代 - 安土桃山時代に、越後国(現在の新潟県)などを支配した大名、関東管領(1561年 - 1578年)を務めます。山内上杉家16代当主として、越後を統一したほか、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵しました。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸かった戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称されます。

 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾景虎でした。後に、関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られました。「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられて、上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改名しました。

 上杉氏が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継ぎました。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の一字)を受けて、最終的には輝虎と名乗りました。「謙信」とは、さらに後に称した法号です。

 謙信は、内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させました。

 戦った戦国大名・武将は数多く、5回の川中島におけます合戦で有名な武田信玄だけではなく、北条氏康、織田信長、越中一向一揆等々多数挙げられます。

 謙信は、他国から救援を要請される形での遠征が多く、私利私欲に拘泥しない「義の武将」という印象が強いですが、利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も今日では多いです。

 足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国、能登国、加賀国へ勢力を拡大しましたが、志半ば、48歳で死去しました。

 謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発しました。

 上杉景勝が、謙信の意を引き継ぎ、米沢で初代藩主となりました。



 日朗

 にちろう
 寛元3年4月8日(1245年5月5日)- 元応2年1月21日(1320年3月1日)

 鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人です。号は筑後房、大国阿闍梨とも称します。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖です。下総国の出身、父は平賀有国です。

 1261年(文応2年)日蓮を師として法を学び、1271年(文永8年)日蓮の流罪の際に、土牢に押込となりました。

 1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っています。但し、これは伝承で幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはあり得ず、誤伝である可能性が高いといわれています。

 日蓮滅後に、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、日蓮の遺言に背き勝手に持ち去っています。

 1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築きました。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立しました。鎌倉光則寺は、1274年に、日朗を開祖として創建されました。

  光則寺 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kanagawa/kanagawa-kamakura-kousokuji.htm

 1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。




■ 上杉 謙信 生誕 戦国武将、関東管領

 うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)
 享禄3年1月21日(1530年2月18日)(グレゴリオ暦1530年2月28日)-死没
天正6年3月13日(1578年4月19日)

 戦国時代の越後国の大名で、後に山内上杉家16代当主となります。武田信玄と並ぶ、戦国時代でも屈指の戦上手といわれ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称されました。

 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)でした。

 1561年(景虎31歳)の折に、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られました。「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられて、上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名したのです。

 上杉氏が、世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継ぎました。

 後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱として「輝」の1字を受けて、最終的には輝虎と名乗りました。謙信は、さらに後に称した法号です。

 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させたのですから、単なる戦国武将ではなかったのです。

 他国から救援を要請されますと、黙っていられない聖覚で、秩序回復を掲げ、幾度となく出兵しました。

 闘った相手は、武田信玄だけではなく、北条氏康や織田信長、また、越中一向一揆にも遭遇しています。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られています。

 さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へと勢力を拡大しましたが、48歳で死去しました。

 謙信には実子がなく、死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発しました。

 「道理をもって誰にでも力を貸す」と、『白河風土記』に述べられています。私達経営コンサルタントの心得の一つに繋がります。

 謙信が敵将武田信玄に塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれましたが、本当に塩を送ったのかどうかの真偽の程は解明されていないようです。



■ 鈴木 三郎助(二代目) 味の素で成功

 すずき さぶろうすけ
 1868年1月21日(慶応3年12月27日)-- 1931年3月29日

 日本の実業家で、味の素の創設者です。

 明治17年(1884年)18歳で2代目三郎助を襲名、呉服商辻井家の次女テルを妻に迎えますが、三郎助の商売は当初は順調でしたが、次第に資金繰りに躓き、それを埋めるために米相場に手を染めていました。

 商売を、かじめ焼きに代えましたが、国内で生産過剰となったヨード製品に目を付けます。かじめ焼きが輸出され、日露戦争で需要が高まり、莫大な利益を上げました。

 明治41年(1908年)、東京帝国大学の池田菊苗がグルタミン酸を主要成分とする調味料の製造方法を発明し、特許が認められました。鈴木は知己を通じて開発中から池田博士と面談して、この特許の実施契約を得ました。

 弟に研究を任せ、はじめはうまく行かなかった味の素ですが、それが市場に受け入れられ、今日の味の素社の基礎を築くことができました。


 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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