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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

 

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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 【今日の写真】  
 福岡・筥崎宮(はこざきぐう)近くにある植物園
ぼたんが寒風の中で凜と咲いていました。
今日は何の日    1月15日
■ 小正月

 小正月(こしょうがつ)とは、満月を年の始めとした、古い暦上の正月の名残で、正月の望の日(満月の日、旧暦1月15日)のことをもともとは指しました。

 小正月の期間は、一般的には14日の夕から15日、地方によっては16日までとか20日までを含めるなど土地によつて多少の違いがあるようです。

 呼び名も「小正月」以外に「女正月」と言ったり、地方によっては「若年」とあ「若正月」などとも言うようです。

 餅をつく地方もあるようですが、私の子供の頃は団子を作って、飾り物などと共に木に刺して床の間に飾っていました。小正月が過ぎるとそれを焼いて醤油を付けて食べました。米粉の団子なので、香ばしさが違います。

 古くは朝に小豆粥を食べる習慣があり、「土佐日記」や「枕草子」などにも記されています。

■ どんど焼き

 「どんど焼き」とは小正月の行事で、正月の松飾りや注連縄(しめなわ)などを一カ所に積み上げて燃やすという、日本の各処で行われる火祭り行事です。

 残り火で、木や竹にさした団子や餅を焼いて食べるという風習です。それを食べるとその年は健康でいられと言われ、無病息災や五穀豊穣を祈ります。

 成人の日が15日と定まらなくなった今日では、1月15日前後の終末に行う地方も増えました。

 私は「どんど焼き」と聞いてきましたが、「どんどん焼き」とか「とんど焼き」など、色々な呼び名があるようです。その語源は、火が燃えるのを見て「尊(とうと)や尊(とうと)」というのが訛ったという説が有力です。

 

■ 初閻魔

 藪入りの1月と7月の15~16日は、「閻魔賽日(えんまさいじつ)」と言って、地獄の釜の蓋が開いて鬼も亡者も休むとされる日です。

 1月15日を「初閻魔」といいます。寺院では、十王図や地獄相変図を拝んだり、閻魔堂に参詣したりすることから「十王詣」とも言います。

 十王とは地獄にいて亡くなった人の罪を裁く10人の判官のことで、閻魔大王はその一人です。

 閻魔はインドの神話にある神で、人類最初の死者だったと言われています。そのことから「死の神」として冥界を支配しています。一二途(さんず)の川を渡る死者を待ちかまえて審判する判官です。善人は極楽へ、悪人は地獄へ落とす、その判断をします。審判の時に、嘘をつくと舌を抜かれるとも言われています。

 この縁日に参拝すると長寿や厄除けの功徳にあずかれるそうです。

【経営コンサルタントの独り言】

◆ 人間で最初に死んだ人は誰?


 嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる

 子供が嘘をつかないようにさせる躾のための言葉です。

「カミナリ様におへそをとられる」もその代表的存在ですね。

 カミナリ様は、「雷神」といわれますので、神様ですが、閻魔様ももともとはインドの神様です。

 人間は黄泉(よみ)国に渡るときに、六文の銭をとられ、そこで裁きを受けると言われています。

 これも戒めの言い伝えと言えます。

 ところで、その時に立ち会うのは閻魔様だけではないそうです。

■ 【一口知識】 小豆粥

 小豆粥(あずきがゆ)とは、米と小豆を炊き込んだお粥のことで、”ハレの日”、すなわち何かの行事の時に食べられます。

【Wikipedia】
 中国においては、古くは冬至の際に小豆粥が食せられた。後にこの風習が発達して12月8日には米と小豆ほか複数の穀物や木の実を入れた「臘八粥」(ろうはちがゆ)というものが食せられ、六朝時代の中国南部では1月15日に豆粥が食せられた(『荊楚歳時記』)。
 これが日本に伝わって1月15日すなわち小正月の朝に小豆粥を食するようになったと考えられている。『延喜式』によれば、小正月には宮中において米・小豆・粟・胡麻・黍・稗・葟子(ムツオレグサ)の「七種粥」が食せられ、一般官人には米に小豆を入れたより簡素な「御粥」が振舞われている。
 これは七種粥が小豆粥に他の穀物を入れることで成立したものによるとする見方がある。また、紀貫之の『土佐日記』によれば、承平7年(935年)の1月15日(小正月)の朝に「あづきがゆ」を食したという記述が登場している。江戸時代には15日すなわち「望(もち)の日」の粥という語が転じて「餅(の日)」の粥と解せられ、小豆粥に餅を入れて食べる風習も行われるようになった。今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥や小豆雑煮で祝う風習のある地方が存在す。

■ その他

 ◇ 筒粥神事
 ◇ 熱田神宮歩射神事三十三間堂通し矢

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■ 松平 定信  江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫、寛政の改革

 まつだいら さだのぶ
 宝暦8年12月27日(1759年1月25日)-文政12年5月13日(1829年6月14日)

 江戸時代中期の大名、陸奥国白河藩3代藩主で、老中を務めました。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫に当たります。

 1787年から1793年まで、1759宝暦8年12月27日、新暦では1月15日に寛政の改革を行いました。定信は、田沼の政策の経済政策をことごとく覆したとしばし言われます。

 天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となりました。田沼意次が失脚した後の、天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となります。

 田沼意次の政治により、武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していました。

 天明の打ちこわしを期に、幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指しました。

 幕府財政の再建の為に、大胆な財政緊縮政策を行いました。田沼時代の運上金、冥加金の上納を引き換えとして特権を与えるなどといった商業資本重視の政策は、下層への搾取を生み、富商・富農の誕生を促進させたと判断した対応でした。

 一方で、農村で大量離村が発生したりして苦慮しました。対策として倹約や風紀粛清に尽力しました。福祉政策として、飢餓に備えて各藩で「社倉」「義倉」に穀物を備蓄するよう命じたりもしています。

 教育政策では、朱子学による学問吟味=官吏登用試験を行うことによって、幕府に忠実な封建官僚群を育成しようとしました。

 ヨーロッパの情勢が変化する中、定信は消極的開国政策を示し、ロシアなどの対外政策を実施しました。

 松平定信の改革は、一定の成果をあげましたが、その厳粛な厳しい政治に対する反発から失脚しました。

 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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