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■■電波の日 【今日は何の日】 6月1日 ■ 電波の日
6月1日は「電波の日」で、1951年に総務省(当時の郵政省)が制定しました。
その前年に電波三法といわれる電波法、放送法、電波監理委員会設置法が施行されました。これにより電波が一般に開放されることになったのです。
今日、われわれはテレビ放送や携帯電話なしには生活できないほどですが、これをうけて1985年に電気通信の自由化がなされた恩恵です。今日では6月1日の電波の日だけではなく、6月前半が「テレコム旬間」と拡充されて各種の行事が行われるようになりました。 ■ 万国郵便連合加盟記念日
1877(明治10)年2月19日に、郵便の国際機関である万国郵便連合(UPU)に加盟したことを記念して「万国郵便連合加盟記念日」が制定されました。
万国郵便連合は1874(明治7)年にでき、日本は世界で23番目の加盟国でした。アジアでは最初に加盟した国です。
日本は、戦前に一度脱退しているので、1948(昭和23)年6月1日に再加盟したさいに6月1日を再度「万国郵便連合加盟記念日」としたので、年に2回この日があります。
図 万国郵便連合 ←クリック
■ 気象記念日
6月1日は「気象記念日」で、東京気象台(現在の気象庁)が1884年に制定しました。
1875年6月1日に、東京・赤坂葵町に、日本初の気象台「東京気象台」が設置され、東京で気象と地震の観測が開始されました。ながらく「気象台」と呼んでいましたが、1956年に「気象庁」として、運輸省(現在の国土交通省)の外局に昇格しました。
気象庁のサイトによると、その目的は下記のように記述されています。
気象庁の任務
気象庁は的確な気象情報を提供することによって、自然災害の軽減、国民生活の向上、交通安全の確保、産業の発展などを実現することを任務としています。また、世界でも先進的な気象機関として、気象業務に関する国際協力も行っています。
このため、気象庁は、常に最新の科学技術を駆使することによって気象業務の技術基盤を確立し、利用目的に応じた分かりやすい気象情報の作成・提供を行っていきます。また、気象庁のサービスに対する利用者の皆様からの声を基に評価を行い、技術開発を進め、新しいサービスを計画・実現していきます。
因みに、3月23日は国際デーの一つである「世界気象デー(World Meteorological Day)」です。世界気象機関(WMO)が、発足10周年を記念して1960(昭和35)年に制定しました。
WMOが発足する10年前の1950(昭和25)年3月23日に、世界気象機関条約が発効しました。加盟諸国の気象観測通報の調整、気象観測や気象資料などのデータ・情報交換を行っています。この機関には、日本は1953(昭和28)年に加盟しました。
図 気象庁 ←クリック
■ 真珠の日
6月の 誕生石は真珠です。そのため日本真珠振興会では6月を「真珠月間」に、6月1日を「真珠の日」としています。 真珠と言えば「御木本」を日本人なら誰もが連想するでしょう。19世紀の末に世界に先駆けて真珠養殖に成功した御木本幸吉の伝記は、私どもが子供の頃には必読書の一つと言われるほどでした。
第2次世界大戦の奢侈品禁止令の発布で真珠の製造販売を中止せざるを得ない窮地に追い込まれた御木本ですが、それで負けていないところが伝記が読まれる理由です。中国に伝わる漢方思想に「真珠を飲むと不老長寿を保ち、美容と健康に輝く」ということがあり、そこに着目しました。
真珠タンパク質を含んだ真珠カルシウム剤の製造に成功し、御木本製薬株式会社を創立し、今日の「御木本化粧品」が誕生したそうです。 因みに7月11日は「真珠記念日」です。 ■ 【今日は何の日】その他
◇ 更衣
◇ 写真の日
◇ 水郷潮来あやめ祭(~30日)
◇ 金沢かが百万石祭(~3日)
◇ 広島とうかさん大祭(~3日)
◇ 相模川鮎解禁日
◇ 向阿忌
◇ 国泰寺開山忌
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 豚に真珠 6月の 誕生石は何でしょうか? 真珠ですね。 真珠と言えば、私どもの年代では御木本幸吉を思い浮かべるでしょう。 御木本幸吉(みきもと こうきち)は、江戸末期に、現在の三重県鳥羽市に生まれました。 うどん屋の長男が、機械いじりが好きで、粉を挽く石臼を使いやすく改良して、賞金をもらったというように伝記に書いてあったと記憶しています。 真珠と言いますと「豚に真珠」という諺があります。 人間にとっては価値のある真珠ですが、豚には真珠の価値は理解されません。 このことから、価値のわからない人に、価値あるモノを与えてもムダであるという意味で用いられます。 同じような意味合いで、「猫に小判」というのがあります。 ニュアンスが多少異なりますが、「馬の耳に念仏」というのもあります。 情報にしろ、知識にしろ、その価値がわからない人には無意味なモノで、機会損失を起こしていることに気がつかないのです。 私達、経営士・コンサルタントには、その様な経営者に気づきを覚えてもらうのが重要な業務のひとつです。(ドアノブ) 【きょうの人】 ■ 徳川 家康 没 とくがわ いえやす、旧字体:德川 家康 天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、遡及グレゴリオ暦1543年2月10日)- 元和2年4月17日(グレゴリオ暦1616年6月1日) 主君 今川義元 → 今川氏真 → 足利義昭 →織田信長[2]→ 豊臣秀吉→豊臣秀頼 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名で、天下人と呼ばれます。安祥松平家9代当主で、徳川家や徳川将軍家、御三家の始祖です。 家系は、三河国の国人土豪・松平氏、旧称は松平元康(まつだいら もとやす)で、戦国時代に終止符を打ち、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開き、三英傑のひとりといわれます。 幼名は、竹千代、通称は次郎三郎で、のちに蔵人佐とも呼ばれていたようです。諱は今川義元より元信(もとのぶ)を授かり、元康とも名乗っていましたが、今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改めました。 本姓は、私的には源氏を称していましたが、徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるほど、ブランディングを目的として苗字にはこだわりました。天正16年(1588年)以降に源氏を再び称しています。 このことから、家康の出自は、それほど良いとは言えず、それを糊塗するための戦略でしょう。そこから読み取れることは、一般に知られるほどには肝が据わった男ではなく、小心な面を持っていたのではないかと、勝手に、独断と偏見でもって感じています。 家康につきましては、多くを語る必要がないほど、よく知られています。 ■■
■■横浜開港記念日 【今日は何の日】 6月2日 ■ 東京スカイツリーオープン 自立塔として、世界で最も高い(2012年現在)、高さ634メートルの東京スカイツリーが開業しました。 地上デジタル放送に対応した電波塔として建設され、それまで電波塔としての東京タワーから役割を引き継ぎました。(2013年1月) 高さ350メートルと450メートルのところに展望台が設けられています。そこへのエレベーターは、所在地である墨田区の伝統工芸技術が活かされた装飾がなされています。 ■ 横浜開港記念日 1858(安政5)年に日米修好通商条約が締結されました。この翌年6月2日に横浜と長崎や新潟、兵庫で開港し、それを記念する日です。
江戸幕府がアメリカの自由貿易を求められて、その強気に押されて調印したと言われています。アメリカ総領事であるハリスとの間で調印され、14箇条からなる条約です。
横浜では毎年横浜開港祭がみなとみらいの赤レンガパーク他で開催されます。 ■ カレーの日 6月2日は「カレーの日」だそうです。カレーうどんが全国に浸透して100周年を記念して2010(平成22)年に「カレーうどん100年革新プロジェクト」という組織が中心となって制定しました。 6月2日が「カレーの日」、7月2日が「うどんの日」、8月2日がそれを併せて「カレーうどんの日」となりました。
子供は、カレーが好きですが、私が子供の頃はカレーといっても、肉が入っていなかったり、細切れ肉が少し入っていたりする程度でした。それでも子供の頃は楽しみでした。
■ 【今日は何の日】その他 ◇ 東照宮輪王寺夏祭
◇ 貞極忌
◇ 雪江寂
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 横浜開港祭で盛大な祭典 横浜港開港を記念して祭典が開催されます。 小中高の歌合戦もあるようです。 開港祭親善大使の綺麗なおねえさんも登場。 複数の会場で開催されるようです。 祭典の期間は、6月2~3日ですので、本日ならまだ間に合います。 横浜港と言いましても広いです。 レトロバスが走っていますので、一日券を購入してそれを利用しますと安価に移動ができます。 ただし、一方向にぐるりと回りますので、適度に地下鉄やみなとみらい線を利用するとよいのかもしれません。 開講祭のURLは私のブログからも紹介しています。(ドアノブ) ■【きょうの人】 ■ 尾形光琳 紅白梅図他の国宝で知られる江戸時代の画家 おがた こうりん 万治元年〈1658年〉-享保元年6月2日〈1716年7月20日〉 本名は尾形 惟富(おがた これとみ)。通称は市之丞。 尾形光琳は、江戸時代中期の画家、工芸家で、琳派の創始者とされる人物です。 京都の呉服商の次男として生まれ、王朝文化に親しみながら、明るく華やかな色彩と独創的な意匠で多くの作品を残しました。光琳の作品は「光琳模様」と呼ばれるほど、日本の美意識に大きな影響を与えました。 光琳は屏風や小袖、蒔絵など様々な媒体に絵を描きましたが、紅白梅図、燕子花図屏風は国宝に指定されている名作です。光琳は30歳代前半に光琳と改名し、44歳で法橋の位を得ています。代表作の『燕子花図』は法橋位受領以前の作品のようです。 光琳の作品には、制作年代のはっきりわかる作品は少なく、画風や、画面に捺されている印章などから制作年が推定されています。 光琳と並び称される俵屋宗達は、生没年未詳の人物で、直接的な師弟関係はないのですが、『風神雷神図』『槙楓図』のように宗達の原画を題材にした作品もあります。このことから、光琳が宗達に学ぶ意識のあったと推定されます。 江戸下向時代には、雪村の絵に感銘を受けたようで、雪村の絵を模写したものが数点残っています。 尾形光琳の作品は、明るく華やかな色彩と独創的な意匠が多く、日本の美意識に大きな影響を与えたといえます。 菖蒲図屏風の制作に見られるように、生家の染色業での型紙を、利用するなど、その手法の工夫は日本の伝統からの変化も見られます。 ■ 専誉 真言宗豊山派の第一祖 せんよ 享禄3年(1530年)- 慶長9年5月5日(1604年6月2日) 室町時代の僧で、「専誉僧正(せんよそうじょう)」の名で知られ、真言宗豊山派の第一祖です。 和泉国大鳥郡(現・大阪府堺市)において、石垣氏に生まれ、天文11年(1542年)に出家し、専誉と称するようになりました。 天正12年(1584年)に根来寺学頭に就任し、羽柴秀吉による根来焼き討ち後、高野山・醍醐寺・和泉国分寺に移りました。その後、豊臣秀長に招聘されて長谷寺に入山し、慶長9年(1604年)5月5日、75歳で入寂しました。 ■ 呑龍 どんりゅう 弘治2年4月23日(1556年6月2日)- 元和9年8月9日(1623年9月3日) 群馬県太田市の浄土宗大光院(だいこういん)、正式には「義重山大光院新田寺」という寺院があります。通称「子育て呑龍(こそだてどんりゅう)」もしくは「呑龍様(どんりゅうさま)」と親しまれています。 真偽の程は定かでありませんが、徳川家康は源氏の流れを汲む新田義重の末裔であるといいます。 慶長18年(1613年)、家康は呑龍を招聘して大光院を創建させました。境内裏には、新田義重や呑龍の墓があります。義重は九条兼実に従い法然上人に帰依しました。 大光院は、もともとは建久6年(1195年)に、寺尾城内に建立され、家康は観智国師・土井利勝・成瀬正成に遺跡を探させ、墓石と礎石などをここに移させました。 当時、多くの子どもが間引きといわれ、殺されていいましたが、呑龍は、これを悲しみ、これらの子どもを弟子として引き取って育てたため、後世の人々から「子育て呑龍」と慕われました。 話は、昭和の第二次大戦前になりますが、中島飛行機で開発された百式重爆撃機という航空機がありましたが、その愛称「呑龍」でした。 ■ 中山 みき(美伎) 天理教教祖 なかやま みき 寛政10年4月18日(1798年6月2日)- 明治20年(1887年)2月18日) 日本の宗教家として天理教教祖、明治21年(1888年)11月1日に、出版された「みかぐらうた」では、著者は「奈良県平民 故中山美支」となっています。現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされています。 天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称しています。 『稿本天理教教祖伝』など多くの資料で、幼少の頃からの慈悲深さと同情の心の篤さ、信仰熱心といった記述が多く見られます。 文化7年9月15日(1810年10月13日)に、同じく津藩領・庄屋敷村の庄屋・中山善兵衛に嫁ぎます。天理教では、その教義においてこの中山家を含む地所が人間世界創造に由来があるとして、この場所を「元のやしき」あるいは「お屋敷」と呼んでいます。 天保9年10月23日(1838年12月9日)、長男・秀司の原因究明の足の病気にかかり、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏に祈祷を依頼しました。その時、憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となりました。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入りました。 このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいて、天理教が誕生することになります。 ■■ ■ 雲仙普賢岳祈りの日 1991年6月3日、雲仙普賢岳で大火砕流が発生し、雲仙普賢岳祈りの日を、長崎県島原市が1998年から実施しています。 避難勧告地区内で警戒中の消防団員、警察官、取材中の報道関係者等が巻き込まれ、死者40人、行方不明3人という犠牲者を出しました。 この様な自然災害は避けられないのでしょうから、せめて被災は最小限に抑えたいですね。 普賢岳は、雲仙岳(うんぜんだけ)のひとつです。 雲仙岳は、長崎県の島原半島中央部にそびえる火山で、半島西方の橘湾を中心とする千々石カルデラの外輪に位置します。 高峰の平成新山をはじめ、三岳(三峰)とも呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳、五峰(五岳)とも呼ばれる野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山を含め、東の眉山から西の猿葉山まで、総計20以上の山々から構成されています。(【Wikipedia】を基に作成) ■ ウェストン祭 イギリス人宣教師で、史上初めて日本アルプスを踏破した日本近代登山の祖、ウェルター・ウェストンを偲んで、長野県上高地の梓川河畔にあるウェストン碑の前で献花、記念講演、合唱等が行われます。 場所 〒390-1502松本市安曇島々上高地ウェストン碑前広場 松本市アルプス観光協会 0263-94-2221 http://jac-shinano.cocolog-nifty.com/blog/cat814669/ ウォルター・ウェストン(Walter Weston, 1861年12月25日-1940年3月27日)は、イギリス人宣教師です。 日本に3度長期滞在し、日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などの出版があります。 日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した登山家です。 マッターホルンなどのアルプス山脈の山にも登頂しています。登山愛好者には、身近な人です。 ■ 測量の日 1949年6月3日に「測量法」が公布されたのを記念して建設省(現在の国土交通省)と国土地理院等が1989年に制定しました。測量・地図への関心を高めることを目的としています。
測量というと伊能忠敬を思い浮かべる人が多いと思います。江戸時代に足かけ17年をかけて全国を測量し、日本の国土をほぼ正確に地図化した人です。 もう30年以上も前の話になりますが、私の顧問先で測量図用のCADを開発し、そのブランドとして「INOU」を使うことになりました。了解を取るために、当時伊能家13(?)代当主であったその末裔が武蔵大学で教授(たしか化学?)をしていました。
訪問して、いきさつを説明すると快く引き受けてくださりました。ロイヤルティを取るなど、金銭だけでなく他の要求もなく、さすが日本人がほこりとする人の子孫であると感心しました。
雑談になりますが、伊能の弟子である間宮林蔵は探検家として樺太(現サハリン)にまで行って間宮海峡を発見した人です。彼は江戸幕府の隠密であったということです。
因みに、4月19日は「地図の日(最初の一歩の日)」です。
寛政12(1800)年旧暦閏4月19日、伊能忠敬が蝦夷地の測量に出発した日を記念しています。
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 測量のやり方は原始的 測量という言葉を聞きますと伊能忠敬を連想するのは、私だけではないでしょう。 今日のような素晴らしい測量機器がない時代に、あれほど正確な地図を描けたと言うことは素晴らしいことですね。 測量というのは、今日のような電子機器万能な時代でも、その方法は原始的と言いますか、数学的と言いますか、あまり変化はないようですね。 土木測量というのは、土地の面積を測る作業が多いです。 その測量のしかたですが、カーブをしていても、まっすぐであっても、直線で測量するのですね。 ポールとポールの間の距離を測って、それを繋げます。 すなわち、三角形に土地を分けて計算します。 これを「三斜を(に)切る」というのだそうです。 ポールの位置は、北緯何度東経何度というように地球規模の大きさで、それを分割した形で表記するのです。 一坪何百万円とか、何千万円というような高価なものですので、なんとなく大雑把な測り方のように、素人の私には思えます。 かつて、伊能忠敬の末裔の方とお話をした折に、そのことを話しましたら、笑われてしまいました。(ドアノブ) 【一口情報】 アトムトランジスタとは、従来の100万分の1の消費電力で、演算も記憶も行うことができる、まったく新しいタイプのトランジスタのことだそうです。 独立行政法人物質・材料研究機構が、大阪大学大学院理学研究科と東京大学大学院工学系研究科と共同で開発に成功しました。
電子の代わりに金属原子を使って動作するというのですから、従来の発想とは異なるトランジスタですので、省エネに繋がりますね。電源を入れるとすぐに起動するノ一トPCが誕生するかもしれません。(J-NETより転載) 詳細 ←クリック ■ 【今日は何の日】その他 ◇ 危険物安全週間(~9日)
◇ 横浜みなと祭
◇ せっぺとべ(第一日曜日)
【きょうの人】 ■ 細川 幽斎(藤孝) ほそかわ ゆうさい / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか) 天文3年4月22日(1534年6月3日)-慶長15年8月20日(1610年10月6日) 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人、幼名は、万吉(まんきち)で、元服して藤孝を名乗ります。幽斎は雅号で、法名を玄旨といいます。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍足利義昭の擁立に尽力しました。 後に、義昭が信長に敵対して京都を逐われますと、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となりました。 本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲りました。 しかし、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎を築きました。 また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもありました。 享年77(満76歳没)で、京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の塔頭寺院である天授庵に墓があります。 ■■ ■ 歯と口の健康週間 厚生省(現:厚生労働省)、文部省(現:文部科学省)、日本歯科医師会が、1958年から実施しています。2013年からは、日本学校歯科医会も主催団体に加わりました。 毎年6月4日から6月10日までの1週間にわたり、実施されます。 「6(む)4(し)」に因んでの命名であることは、想像できます。 歯の衛生に関する正しい知識を国民に対して普及啓発するとともに、歯科疾患の予防処置の徹底を図り、併せてその早期発見、早期治療を励行することにより歯の寿命を延ばし、国民の健康の保持増進を寄与することを目的としています。(【Wikipedia】を基に作成) ■省エネでポイント記念日 2011年に東京都墨田区では、区民の省エネ活動にポイントを与える制度を始めました。二酸化炭素排出量削減につながる取り組みをした家庭にポイントが与えられます。 一般家庭で15%削減目標を達成するために、残念ながら個人の努力だけに期待しているのでは実現は困難でしょう。行政がリーダーシップを発揮することにより実現に近づけるようになるでしょう。
しかし、人からインセンティブを与えられないと実行できないと言うことは寂しいことです。一人前の大人なら、自分で考え、自分で判断して、自主的に行動すべきではないでしょうか
墨田区の場合には、どのくらい省エネ効果を出したかの基準が、現状からどのくらい下げることができたかというところにあります。これでは不公平感をぬぐえません。
省エネ意識の高い家庭では、すでに相当なる努力の結果、それ相応の効果をすでに上げてきています。すでに実施しているからそれ以上する必要はないとは言いませんが、ほぼ乾いたぞうきんを絞らせることになります。エコ意識の高い人は、現状より絞ることは難しく、そのような人はポイントの対象にならないというのもおかしいです。
1人あたりの平均消費量より低い家庭にもインセンティブ対象となるように実績対効果を計れるような基準作りをすべきではないでしょうか。
■ 【今日は何の日】その他 ◇ 歯の衛生週間
◇ ハーリー
◇ 伝教大師忌
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 喉元過ぎれば熱さを忘れる われわれは、熱しやすく冷めやすいという局面を大なり小なり持っているような気がします。 それが「ブーム」とか「流行」とかいわれるものです。 意識面でも一過性があるように思えます。 東日本大震災直後は、省エネ意識も高まりました。 自治体の中には省エネ活動でポイントを与えるなどの工夫をしたところもあります。 ところが近年、その意識も低下してきてしまったように思えます。 トランプ大統領がパリ協定から脱退するというのは、地球温暖化に対する軽視も甚だしいことです。 処々でいろいろな天災が起こっている事実から目を背けているに過ぎません。 大国のトップであれば、大所高所からむしろその様な人達を諫めるべき立場にあるのです。 いくら世界の警察官をやめたからと言って、いくらアメリカファーストだからといってリーダーたるべき言動としてはあるまじきことです。 そのくせ、G7の集合写真をとるときには、「俺様はアメリカ大統領だから、お前どけ」と幼稚園児のような行動は、アメリカ大国意識を丸出しでした。 今のアメリカでは、彼を弾劾裁判にかける判断力すら薄れてしまっているのでしょうか。 【今日の写真】 近所のバラ
■■世界環境デー 【今日は何の日】 6月5日毎朝、近所を散歩するようにしています。ウォーキングが唯一の運動と言っても良いでしょうか。 散歩をしていると、何匹ものワンちゃんにあいます。始めは私の姿を見て吠えたワンちゃんも、今ではしかとされています。 ジョギングをする人にも会います。「砂利道を駆け足で、マラソン人が行き過ぎる」五輪真弓さんの有名な曲「恋人よ」の一節です。カラオケで歌うと、この部分が難しいです。 今朝は、立派なバラを見つけました。 【きょうの人】 ■ 聖武天皇 しょうむてんのう 701年〈大宝元年〉-756年6月4日〈天平勝宝8年5月2日〉) 日本の第45代天皇(在位:724年3月3日〈神亀元年2月4日〉- 749年8月19日〈天平勝宝元年7月2日〉で、諱は首(おびと)、尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)ともいいます。 文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子です。 父・文武天皇に、7歳で死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはありませんでした。このため、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位しました。 最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入りましたが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血縁の者でした。 天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整えることになりました。 天平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出しています。 病弱でありましたが、その功績は、後世でも認められています。 ■ 最澄(伝教大師) さいちょう、でんぎょうだいし 神護景雲元年(767年)8月18日-弘仁13年6月4日(822年6月26日) 平安時代の僧で、天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られています。 生地は、近江国滋賀郡古市郷(現:滋賀県大津市・坂本)で、生源寺で、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)です。 生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在します。 十二歳で比叡山に登り、研究修行を積みました。 延暦23年に空海と共に、中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となりました。 なお、最澄に唱える言葉は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」です。 ■ 澤 太郎左衛門 生誕 幕末から明治期の幕臣・海軍教官 さわ たろうざえもん 天保5年6月4日(1834年7月10日) - 明治31年(1898年)5月9日 幕末から明治期の幕臣で、技術者、海軍教官でもありました。名は貞説、幼名はえい太郎(鍈太郎)です。 箱館戦争時に成立した旧幕府軍政権(蝦夷共和国)の開拓奉行です。海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞は,彼の子息です。 日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは、澤が最初です。 榎本武揚が、オランダ渡航中に著した『航海日誌』は、榎本がセントヘレナ島で海に投げ捨てようとしたところを澤が惜しんで預かりました。 その時に判断に任せて行うことは、時として大きな損失に繋がることがあります。茶話の陰で貴重な記録が残されたのです。 ■■ ■ 芒種(年により日付が異なる)
今日は二十四節気の一つで、小満と夏至の間にあたる「芒種(ぼうしゅ)」です。 芒種とは、稲とか麦などの芒(のぎ)のある穀物の種子のことです。麦を刈ったり、稲を植えたりする時節のことです。梅雨を控え、この頃から田植えが始まる農繁期に入る頃でもあります。
芒はのぎへんの基となる「禾」と書くこともあります。
【Wikipedia】 芒種
芒(のぎ 、イネ科植物の果実を包む穎(えい)すなわち稲でいう籾殻にあるとげのような突起)を持った植物の種をまくころ。『暦便覧』には「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」と記されている。実際には、現在の種まきはこれよりも早い。
西日本では梅雨入りのころ。
■世界環境デー
1972(昭和47)年6月5日に、ストックホルムで開催された国連人間環境会議で「人間環境宣言」が採択されました。これを記念して同年12月に国際デーの一つとして世界環境デー(World
Environment Day)が制定されました。
日本では、1993(平成5)年に「環境基本法」で「環境の日」として定められ、環境の保全についての関心を高めることを目指しています。
■ ろうごの日 神戸市老人福祉施設連盟が、6月5日を、六(ろう)五(ご)で「ろうご」(老後)の語呂合せから「老後の日」として制定しました。 少子高齢化が叫ばれはじめて久しくなりますが、効果的な対策が打たれているとはいえない昨今です。 保育費や学費の無償化で多くの税金を使っている反面、年金削減や社会福祉面での質の低下など、高齢者に対しては、「自分で何とかしろ」という政策がなされています。 日本では、オンブズマン制度があまり定着していないこともあり、税金の浪費などへのチェックは残念ながら、キチンとなされていないといえます。 ちなみに「オンブズマン」というのは、スウェーデンで始まった民間運動です。 ombudsmanという言葉のもとの意味は「代理人」という意味です。「行政機関を外部から監視し、行政機関による国民の権利・利益の侵害に対する調査及び救済の勧告を図る公職(【Wikipedia】)」と定義づけられています。 行政機関を監視する公的な組織・制度といえます。 国民が、もっと行政のあり方に意見を言わないと、長期政権の驕りから変革は望めないのではないでしょうか。 ■ 【今日は何の日】その他
◇ 鶴岡大山犬祭
◇ 熱田神宮祭
◇ 宇治県神社祭
◇ 唐招提寺開山鑑真忌
◇ 建仁寺開山忌
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 各自の意識変革で環境問題に取り組める 環境問題は、省エネ問題とも切り離せません。それには個人の意識の変革が必要です。このような記念日があるのですから、一人一人その意義を考えるべきです。
そういいながら、なかなか実行できませんが、努力をしています。努力の結果の見えるかができるともっと効果が上がると思います。
【今日の写真】 近所の花
■■経営は心で 【今日は何の日】 6月6日今朝の早朝散歩で見つけた花です。何という名前かわかりませんが、白とパープルというか淡いすみれ色の花をたくさん付けています。 先日、テレビを見ていたら「パープル」のことを「青」とタレントさんが言っていました。コスチュームの番組でしたので、アナンウンサーがパープルと言い直しているのに、そのタレントさんは「青」で通していました。 ボキャブラリー不足なのか、色感覚がおかしいのかわかりませんが、番組が番組だけにふさわしい人を招いて欲しいですね。 【きょうの人】 ■ 重源 没 ちょうげん 保安2年(1121年)- 建永元年6月5日(1206年7月12日) 俊乗房重源は、1121年(保安二年)に京都に生まれました。父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族の紀季重です。 13歳で醍醐寺に入って密教を学び、1167年(仁安2年)入宋(にっそう:中国宋を訪問)し、翌年帰国しました。 1180年(治承4年)平重衡によって大仏殿が焼かれるなど、東大寺の多くの伽藍が焼失したが、翌年60歳を過ぎた彼が造東大寺の大勧進職に任ぜられ、10数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げました。再建に当って、大仏様(だいぶつよう)と呼ぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚の号を受け、1206年(健永元年)86歳で入滅した。 ■■ 【今日の写真】 東京ドームシティ観覧車からのスカイツリー 先日、孫を連れて東京ドームシティの遊園地に行ってきました。色々な乗り物に付き合わされました。コーヒーカップでは目が回りました。歳でしょうか。 ウォーターシュートには連続3回ずつ、2クール、計6回も乗りました。気温も高かったので、水に滑り落ちたときの水しぶきが爽快感を増してくれ、自分も楽しんできました。 最後は観覧車に乗り、彼方にスカイツリーが見えました。 ■ 建武の新政(けんむのしんせい) 鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月に後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始したことにより成立した政権及びその新政策(「新政」)のことです。建武の中興(けんむのちゅうこう)とも表現されます。 翌年は、元弘4年ですが、これが建武元年(1334年)で、その年に定められたことから「建武」の名がつきました。近年では「建武政権」という表現が使われることもあります。 後醍醐天皇は、天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしましたが、武士層を中心とする不満を招き、建武3年(1336年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊し、新政権は短命に終わりました。 微妙大師授翁宗弼は、客観的なものの見方をすることができる人だったようで、後醍醐天皇による建武の新政における考え方に危機感を持ちました。天皇を諫めましたが、聴く耳を持たなかったようで、足利尊氏が離反するなど、人心掌握力にも欠けていたようです。 ビジネスパーソンが、変革など、何か、ことを起こそうというときには、周到なる準備が必要です。また、周囲の人間をキチンと掌握していませんと、離反者が出てしまいます。一人離反者が出ますと,利販社が続出してしまう懸念がありますので、離反者が出ないように、心する必要があります。 起こそうとするコンサルタントデプトは何かを、明確にし、それを関係者に周知徹底する必要があります。 6月6日は、「補聴器の日」です。6という数字をミラリングして並べると耳の形に見えるところから、全国補聴器メーカー協議会・全国補聴器販売店協会が、2000(平成12)年に制定しました。
数字の読み方で「○○の日」という付け方もありますが、6月6日のように形で制定している例に「目の愛護デー」があります。10月10日がそうです。こちらは、中央盲人福祉協会が1931(昭和6)年に「視力保存デー」として制定し、厚生省(現在の厚生労働省)が「目の愛護デー」と改称したといういきさつがあります。
経営コンサルタント業界でも「五感を使え」とか「第六感を働かせよ」という言葉がよく使われます。経営というと数字で論理的に追いかけるように考える人が多いでしょうが、経営は人間が携わります。ですから、論理的思考だけではコンサルティングはできないのです。 経営は、人間同士の共同作業ですので、感情が入り乱れます。感情だけでは経営はできませんが、感情を無視して経営は成り立ちません。実績主義など効率優先の経営が見直されて、日本の伝統的な経営の必要性を無視できないのもここに起因しています。 しばしば、MBAを取ったばかりの、あるいは永年大企業にいて定年後経営コンサルタントとしてスタートした人が失敗するのは、頭で経営を行うからです。
「経営は心で行う」ことと考えています。
■ 兄の日
6月6日は、「兄の日」です。 姉妹型研究家として知られる漫画家の畑田国男が1992(平成4)年に提唱し、「兄の日」は6月ですが、弟の日が3月、妹の日が9月、姉の日が12月の各6日に制定されています。
因みに語呂合わせから11月23日は「いい兄さんの日」です。
■ 【今日は何の日】その他 ◇ 重厳寂
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 補聴器とハウリング 「6」を、元の6とともにミラリングして並べ、上下逆転すると耳に見えませんか? このことから6月6日は、「補聴器の日」だそうです。 近視の私にとってメガネがないと何もできないのと同様に、難聴の人にとっては補聴器はありがたい存在ではないでしょうか。 補聴器もマイクとイヤホンが一対となっていますので、分離型の補聴器ではハウリングを起こしてしまいます。 近年、電池の技術改良で、小型化が可能で、一体型の補聴器が一般的になってきています。 ハウリングを起こすことはあまりないのではないでしょうか。 骨伝導型というのもあるようです。 イヤホンやヘッドセットは長時間使っていますと疲れます。 私は、骨伝導型のヘッドセットを併用して、長時間のSKYPEでもあまり疲労しないようにしています。 歳を重ねるにつれ、以前のような集中力がなくなりました。 周囲の会話の声で、集中できなくなってしまいました。 そこで、購入したのが、警察官などが射撃訓練の時に使うイヤ・マフラーです。 20デシベルくらいに、外音を減らしてくれるので集中できるようになりました。 イヤ・マフラーを付けるようになって気がついたのですが、キーボードの音は結構大きいのですね。 イヤ・マフラーを付けますと、それが非常に小さく聞こえ、初めは違和感を覚えました。 電車の中で、消音機能付きのヘッドセットを使っていましたが、その効果は限定的でした。 イヤ・マフラーは、その点では効果的ですが、耳の圧迫感は、ヘッドセットの比ではなく、今後も愛用できるのかどうかはわかりません。(ドアノブ) 【今日の人】 ■ 相馬 哲平(そうま てっぺい) 初代相馬哲平は、1833年6月22日(天保4年5月5日に生まれ、1921年(大正10年)6月6日)に歿しています。 日本の実業家、政治家、貴族院多額納税者議員で、北海道の多額納税者のひとりです。 函館貯蓄銀行頭取、相馬合名代表社員等、北海道屈指の豪商で、箱館の発展に寄与しました。 写真 函館・相馬邸 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/hokkaido/hokkaido-hakodate-motomachi2.htm ■ 池 大雅 いけの たいが 享保8年5月4日(1723年6月6日)- 安永5年4月13日(1776年5月30日) 諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい) 日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。 雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。 与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。 享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。 柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。 室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。 大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。 ■■ ■ 日枝神社山王祭 tennkamaturiサイトによりますと、徳川時代、江戸城内に入御した御神輿を、三代将軍家光公以来、歴代の将軍が上覧拝礼する「天下祭」として盛大をきわめ、江戸三大祭の筆頭として、さらに京都の祇園祭・大阪の天神祭と共に、日本三大祭に数えられているお祭りで、例年6月に開催されます。 さらに、本年は東京都心を300mの祭礼行列が練り歩く神幸祭も山王祭の行事として開催予定で、境内では江戸時代の伝統芸能である邦楽やお茶、お花、など様々なイベントが開催しています。東京のど真ん中で江戸時代にタイムスリップしたかのような体験をもてるそうです。 山王日枝神社は、東京都千代田区永田町にあります。 旧社格は准勅祭社(東京十社)、官幣大社です。 大山咋神(おほやまくひのかみ)を主祭神とし、相殿に国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉神(いざなみのかみ)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀っています。 ■ 計量記念日 1951(昭和26)年6月7日に、「度量衡法」を大幅に改正して新しい「計量法」が公布されました。通商産業省(現在の経済産業省)が、これを記念して、1952(昭和27)年に計量記念日を制定しました。因みに、現在の計量法は、1993(平成5)年11月1日に全面改定されたものとなっています。
ご存知のように、ビジネスに使う計量機器は、定期的に原器に照らし合わせた機器を基準に「校正(較正)」を受けなければなりません 企業経営においても、たとえば年度計画のような「ものさし」を以て経営状態をはかるのが一般的です。ところが間違えた方法で経営計画を立てている企業がいます。間違えたものさしで経営を計っても正しい評価が出てきません。 間違えたものさしを使って人事考課に反映されたのでは、社員は溜まった物ではありません。企業も年に一度は「健康診断」を受けるべきです。 ビジネスドック ←クリック 11月1日は、「計量記念日」です。通商産業省(現在の経済産業省)が1952(昭和27)年に1993(平成5)年の新計量法の施行にともなって、計量思想の向上・普及を目的に制定しました。
1875年5月20日にフランス政府の提唱により「メートル条約」が欧米17か国間で締結されました。この「メートル条約」締結の125周年を記念して2000年から「世界計量記念日」が制定されました。 メートル原器である「アルシーブ原器」は、1799年12月10日に基準として指定されたものです。これは、白金製で、フランス国立中央文書館に保管されています。 基準になるものがないと計量はできません。1kgの白金製の原器ですが、永年の変化でそれを原器にすることを検討する動きも出てきました。また、1メートルの定義も科学の変遷に伴い、変化しています。 ■ 【今日は何の日】その他 ◇ 東京日枝神社山王祭(~17日) ◇ 光明皇后忌
◇ 大峰花供入峰
【経営コンサルタントの独り言】 ■ メートル原器は今は使われていない? 6月7日は旧の計量記念日で、新しい計量記念日は11月1日に変更となっています。 メートル原器である「アルシーブ原器」は、1kgの白金製です。 でも、今は、電子的に決められているので、この原器は使われていないのです。 「ものさし」は、経営においても重要です。 経営におけるモノサシは、経営理念であったり、経営計画であったりします。 多くの経営コンサルタントが、顧問契約をすると一番最初に経営理念の再構築や経営計画作りの支援をするのは、それゆえです。 モノサシがずれてしまっている企業の経営は、やはりどこかがずれているのです。(ドアノブ) 【きょうの人】 ■ 役行者 えんのぎょうじゃ 役行者、別名「役小角(えん の おづぬ /おづの /おつの) 舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年6月7日(701年7月16日)伝) 飛鳥時代の呪術者で、役優婆塞(えんのうばそく)、役小角(えん の おづぬ / おづの / おつの)という呼び名でも広く知られています。 姓は君、修験道の開祖とされています。 実在の人物ですが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きく、真の姿が見えない部分があります。 天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など、多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があります。 役行者神変大菩薩(奈良・金峯山寺) 日本の正史『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生しました。名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山上にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられています。 やがて修行の高まりと共に、強固な精神力と、煩悩を克服した境地に達し、呪術家としての名声は天下に鳴り響りました。 699年(文武天皇3年)、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の謗言によって伊豆大島に流罪になり、701年(大宝元年)無罪がわかり、許されて都に戻られました。 同年6月7日68歳で、箕面の天上ヶ岳にて入寂されたと伝えられていますが、異説も多く、「昇天した」「母を鉄鉢にのせて海を渡って入唐した」などと多くの伝説が残されています。 その尊像の多くは、折伏した2匹の鬼(前鬼・後鬼)を従えた仙人風の姿で祀られています。 1100年忌にあたる1799年(寛政11年)に光格天皇より、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう)が贈られました。 ■ 隆光 りゅうこう 慶安2年2月8日(1649年3月20日)-享保9年6月7日(1724年7月26日) 江戸時代中期の新義真言宗の僧で、大和国の旧家河辺氏からの出身。初名は、河辺隆長、字(あざな)は栄春です。 1658年(万治元年)仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修学した後、奈良・醍醐で密教を修め、儒学・老荘をも学びました。 1686年(貞享3年)5代将軍徳川綱吉の命により、将軍家の祈祷寺である筑波山知足院の住職となり、その後、急速に綱吉の帰依を得ることになりました。10月3日に、江戸城黒書院で安鎮法を修しています。 1688年(元禄元年)には、知足院を神田橋外に移して護持院と改称してその開山となりました。 1695年(元禄8年)には新義真言宗の僧では初めて大僧正となり、宝永4年2月25日に隠居し、駿河台成満院へ転住しました。 しかし、綱吉の死去と共に失脚し、宝永6年(1709年)には江戸城への登城を禁じられるまでに至りました。 筑波山知足院への復帰願いも認められず、失意の内に大和に帰郷し没したといわれています。墓所は大阪府羽曳野市と奈良市の佐紀幼稚園裏の2カ所にあります。 ■■ ■ チャグチャグ馬コ(6月第2土曜日) チャグチャグ馬コは、毎年6月の第2土曜日に、農耕馬に感謝するために岩手県滝沢市と盛岡市で開催される伝統的なお祭りです。 、滝沢市の鬼越蒼前神社を出発した、華やかな馬具を付けた馬のパレードで、盛岡市の盛岡八幡宮まで13㎞を4時間かけて行列します。 1978年に選択無形民俗文化財に、1996年に環境省(当時は環境庁)の「残したい日本の音風景100選」に選出されました。 盛岡観光情報 http://www.odette.or.jp/?p=1351 ■ 成層圏発見の日
2011年6月8日、ロシアのソユーズ宇宙船が古川聡さんを載せて国際宇宙ステーションに向けて出発しました。半年もの間長期滞在でミッションをつつがなくこなしてきました。 一方でアメリカのスペースシャトルは、同じ年にその役目を終えるという報道が出ました。 6月8日は、「成層圏発見の日」だそうです。1902年にフランスの気象学者テスラン・ド・ポールが成層圏を発見したことを記念して制定されました。 成層圏は、地表からの高度10~15km以上のことで、それより下では空気が対流する対流圏です。空気の対流が雲を生むので、成層圏には雲がなく、各種の観測に適しています。ハッブル宇宙望遠鏡は、地上約600km上空を集会しているので当然成層圏にあるので、あのようなすばらしい成果を上げることができているのです。 因みにジェット機の巡航は成層圏でなされるので、いつでも快晴です。 1970年12月、私の若かりし頃、アメリカに赴任することになりました。生まれて初めて乗る飛行機が飛び立ち、雲の中を随分と長く飛行した末に雲海から出たときの感動はいまでも新鮮な記憶として残っています。 雲の絨毯という言葉を聞いていましたが、私には雲の造形美として目に焼き付けられた気がします。真っ青な空を背景とした樹氷のような雲、太陽光を受けて真っ白なハイライト部分からのグラデーションはマンセルの色相環では表せないほどのバリエーションに心を打たれました。 ■ 【今日は何の日】その他 ◇ 横浜宝林寺開山忌
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 私はカモメ、ではなく成層圏を飛ぶ男!!
■■ドラえもんとドナルドダック 【今日は何の日】 6月9日6月8日は、「成層圏発見の日」だそうです。 成層圏の発見の歴史からまだ百年強しか経っていないのですね。 1970年に初めてアメリカに飛んだのが、私のファースト・フライとでした。 窓から見える雲海は、登山をしたときの快感に似ていました。 「俺は、今、成層圏を飛んでいるのだ!!」と感動しました。 成層圏の快晴は、印象的でした。(ドアノブ) 【きょうの人】 ■ 感誉上人(感誉存貞) かんよぞんてい 1522年(大永2年)3月-1574年6月7日(天正2年5月18日) 室町時代の浄土宗の僧で、増上寺の第10代法主となり、檀林の掟制三十三条を定めた他、大長寺など、各地に浄土宗の寺院を建立しました。 感誉存貞は、後北条氏重臣、大道寺政繁の甥で小田原に生まれました。 小田原の伝長寺で出家した後、弘経寺で修行し、修行後は、小田原に戻り伝肇寺の住職となりました。 感誉存貞は北条一族の信仰を集め、1548年(天文17年)には、北条綱成の開基により、東郡岩瀬村(現在の鎌倉市岩瀬)に、大長寺を建立しました。 翌1549年(天文18年)には大道寺政繁の母、「蓮馨」の開基により、川越に蓮馨寺を建立するなど多数の寺を開きました。 1563年(永禄6年)、増上寺に移り法主となり、増上寺では檀林の整備を行いました。3年後、増上寺の法主を大長寺二代目住職雲誉円也に譲り、その後は、地方を放浪し、1574年(天正2年)に大長寺へ戻り、同年5月18日に黄泉の国に行きました。 ■ 蔵前の鳥越神社例大祭は巨大神輿の祭典(6月9日に近い週末) 毎年6月9日に近い土日に開催される東京台東区蔵前の鳥越神社(とりこえじんじゃ)は千貫神輿という4トンもある大神輿の祭典です。 蔵前橋通りに面した、1360年の歴史を誇る鳥越神社ですので、その起源は日本武尊を祀っている白鳥神社にあると伝えられています。 前九年の役に源義家が鳥越大明神と改めたと伝えられています。 昼間は、猿田彦(天狗)や手古舞連、稚児列に続く大神輿、よるは、提灯をつけた提灯神輿が宮入りします。 江戸有数の大神輿もさることながら、夜祭りの素晴らしさは定評があります。 東京観光サイト http://www.gotokyo.org/jp/kanko/taito/event/torigoejinjya.html ■ ドナルドダック誕生日
人気キャラクターのドラえもんの誕生日は西暦2112年9月3日とよく知られています。 日本ではドラえもんを知らない子供はほとんどいないように、アメリカではディズニーのキャラクターは大人気です。 その一つであるドナルドダックは1934(昭和9)年6月9日にデビューしたことから、ドナルドの誕生日となっています。ドナルドは「かしこいメンドリ」というウォルト・ディズニーのアニメ映画にはじめて登場しました。 では、ドラえもんの誕生日の由来は何でしょうか? 実は、私も知らなかったのですが、のび太君は小学4年生で、その当時の小学4年生の平均身長が129.3cmであったことに由来しているそうです。 ■ 音楽ロックと鍵のための記念日 6月9日は、「六(ろく)九(く)」で音楽のロック(rock)の記念日であるとともに、「我が家のカギを見直すロックの日」でもあります。 エルビス・プレスリーを初め、ロックファンは熱烈なことでも知られています。 私自身は、ロックというジャンルがキチンと理解できているわけではありませんが、プレスリーの音楽にも馴染みの曲があります。 後者の鍵の記念日は、日本ロックセキュリティ協同組合が制定しました。 前者は「rock」ですが、後者は「lock」で、RとLの違いがあります。 日本人にとっては、この区別が難しいですね。 ■ 【今日は何の日】その他 ◇ ロックウールの日
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 69からロックと鍵のための記念日 6月9日は、「六(ろく)九(く)」で音楽のロック(rock)の記念日であるとともに、「我が家のカギを見直すロックの日」でもあります。 ドナルドダック誕生日でもあるそうです。 ミッキーマウスほどではないものの、ドナルドの愛称でアメリカの子供には大人気です。 日本の子供は、アンパンマン、ドラえもん・・・・ 世代により人気度は異なりますね。 【きょうの人】 ■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者 てづか おさむ、本名:手塚 治 1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日 説明するまでもなく、日本を代表する漫画家であり、アニメーター、アニメ監督としても活躍しました。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍してこられました。 兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)で、同市名誉市民でもあります。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学)を持っていました。 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューしたのですね。知りませんでした。 1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現していて、手塚は、漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていました。そのためにノイローゼにまでかかったという話も残っています。天才にも、その様なことがあるのですね。 幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーションに強い関心を持っており、 1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立、後に虫プロダクションと改名しています。 1963年に、自作をもとにした、日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしたことはいうまでもありません。 当時、従兄弟達が、それを見る年代で、テレビにかじりついていたことが、昨日のように思い出されます。 しかし、アニメブームと共に、多くの同業社の乱立・乱作から、コスト競争に直面し、倒産にまで追い込まれました。私の知人が、その時の管財人をしていました。 晩年近く、1980年代になりますと、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)など、歴史物で円熟味を示し、青年漫画というJANするに新たな代表作を手がけることになりました。 100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、昏睡状態を断続的に起こしたにもかかわらず、病院のベッドで医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていたそうです。 死に立ち会った人によりますと、「頼むから仕事をさせてくれ」というのが手塚の最後の言葉であったといわれています。 最後まで、漫画・アニメーターだったのですね。 ■ ピョートル大帝(1世) 帝政ロシアの代表的な皇帝 Pyotr I Alekseevich(ラテン語表記) 1672年6月9日(ユリウス暦5月30日)-1725年2月8日(ユリウス暦1月28日) モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年 - 1725年)、初代ロシア皇帝(在位:1721年 - 1725年)。 ツァーリ(皇帝位)を父に持ち、大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝と称されるようになりました。 ロシアをヨーロッパ列強の一員に押し上げ、スウェーデンからバルト海海域世界の覇権を奪取してバルト海交易ルートを確保しました。黒海海域をロシアの影響下に置くことを目標とした「南下策」をとりました。 これらを達成するために治世の半ばを大北方戦争に費やし、戦争遂行を容易にするため行政改革、海軍創設を断行しました。その実現のために、貴族に国家奉仕の義務を負わせ、正教会を国家の管理下に据えるという、帝国における全勢力を皇帝の下に一元化しました。 また歴代ツァーリが進めてきた西欧化改革を強力に推進し、外国人を多く起用して国家体制の効率化に努めたことも知られています。 1721年に大北方戦争の勝利を記念し、元老院にインペラートルの称号を贈らせ、国家名称をロシア帝国に昇格させたのです。ロシアを東方の辺境国家から脱皮させたその功績は大きく国内で評価され、「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてここから流れ出す」とも評されるほどです。 ピョートル1世は身長203センチメートルの大男であり、普通の人間と並ぶといつも首だけ高く出っ張っていたそうです。復活祭等の挨拶をする際には、背中が痛くなるほど身体を屈曲させて周囲にあわせたという逸話が残っています。 ■■ ■ 入梅(年により日付が異なる)
今日は、暦上の梅雨入り「入梅」です。雨が続くのも嫌ですが、空梅雨で水不足になるのも困りものですね。 気象庁の「梅雨入り宣言」とは異なり、この頃、梅雨入りする年が多いという「暦上」の梅雨入りです。 【Wikipedia】 入梅
入梅(にゅうばい、ついり、つゆいり)は雑節の一つで、太陽が黄経80度の点を通過する日。毎年6月11日頃。本来は「梅雨入り」の漢語的表現であり、梅雨の季節全体を「入梅」と呼ぶ地方もある(西関東方言における用法は「入梅に入る」)。
太陽黄経に基づく定義は現在のもので、芒種の後の最初の壬の日を梅雨入り、小暑の後の最初の壬の日を梅雨明けとしていた時期もあった。本当の梅雨入り・梅雨明けの日付は年により、地方により異なるものであるが、農家にとって梅雨入りの時期を知ることは田植えの日取りを決めるのに重要だったので、その目安としてこの暦日が設けられた。
現在は、気象庁の本庁、管区気象台及び地方中枢官署(新潟、名古屋、広島、高松、鹿児島の各地方気象台)が、観測及び予報に基づいて梅雨入りを発表しており、「入梅」は実際の梅雨とは関係のない暦日となっている。
■ 時の記念日 6月10日は、時の記念日ですが、その制定に生活改善同盟会なるものが関連することを私は知りませんでした。 時の記念日というのは、「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」ということで1920(大正9)年に制定されたのです。この趣旨を見ると生活改善同盟会が関係することも頷けますね。 以下、古時計どっとコムによる「生活改善同盟会」の説明を挿入しておきます。 生活改善同盟会は、伊藤博邦公爵を会長として、有力なメンバーを擁し、大正九年一月に誕生した。 その活動は、社会や家庭に於ける生活を通じて、衣、食、住の改善をはじめ、社交、礼儀など、十数項目にわたり、 その改善を推進するものであった。 ■ 商工会の日 1960(昭和35)年6月10日に「商工会組織等に関する法律」が施行され、それを記念して商工会の日が制定されました。 商工会は、地域の事業者が業種に関わりなく会員となって、お互いの事業の発展や地域の発展のために総合的な活動を行う団体です。全国に1,747の商工会があります。市部は主に商工会議所が設立されていますが、小さな市や町村は商工会が中心です。 以下全国商工会連合会のウェブサイトよりご参考のために抜粋掲載しておきます。 国や都道府県の小規模企業施策(経営改善普及事業)の実施機関でもあり、 小規模事業者 のみなさまを支援するために様々な事業を実施しています。もちろん小規模企業施策だけでなく、様々な中小企業施策も実施しています。 ■ 【今日は何の日】その他 ◇ 永平寺眼蔵会初
◇ 恵心僧都忌
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 日本経営士協会の理念とは 経営コンサルタントの資格というと「中小企業診断士」とほとんどの人が言いますが、中小企業診断士より10年も早く、当時の通産省や産業界の勧奨でできた「経営士」という資格があります。 この資格を付与する団体が(特)日本経営士協会です。 その歴史については、既述していますので多くの方に理解をしてもらっていますが、今日、どのような活動をしているのは意外とと知られていません。 (特)日本経営士協会の理念は、 経営コンサルタント業の発展を通じ、 活力ある経済産業社会の育成に寄与する。 で、これを実現するために下記のことをやってゆく団体です。 ◇ 経営に係る相談・診断・指導・調査・企画・能力開発訓練並びに経営 管理等に関する事業 ◇ 経営士及び経営士補の資格認定及び登録およびその育成事業 その実現のための行動指針が 共業 共用 共育 なのです。 【きょうの人】 ■ 惠心僧都源信 えしんそうずげんしん 天慶5年(942年)- 寛仁元年6月10日(1017年7月6日) 恵心院 (比叡山延暦寺横川兜率谷) 源信(げんしん)は、 平安時代中期の天台宗の僧で、惠心は、恵心僧都(えしんそうず)と、浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称されます。 大和当麻で生まれ、幼少時に比叡山に登り、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学び、天暦9年(955年)に得度しています。 天暦10年(956年)には、わずか15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれました。 寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂しました。臨終にあたって、阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅したといわれています。 ■■ ■ 国立銀行設立の日 1873年6月11日に、日本初の銀行である、第一国立銀行(後の第一銀行、現在のみずほ銀行)が設立されました。 その後の5年間に153もの国立銀行が発足しました。 「国立」という名前がついていますが、これはアメリカのNational Bankを直訳したもので、実際には民間の銀行でした。「国法によって立てられた銀行」という意味です。 明治時代に設立されました国立銀行とは、1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて開設された金融機関なのです。 しかし、金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持っていました。 国立銀行は、すべて第○国立銀行のような名前になっていて、ナンバー銀行と呼ばれていました。 現在も第四銀行とか、七十七銀行等と、そのままの名称を使っている銀行が残っています。 ただし、現在の「セブン銀行」は、第七国立銀行とは関係ありません。 ■ 傘の日、雨漏りの点検の日 6月11日頃は「入梅」に当たる年が多いことから、日本洋傘振興協議会(JUPA)が1989年に「傘の日」を制定しました。 同じ理由から、全国雨漏検査協会が1997年4月に「雨漏りの点検の日」を制定しています。
【Wikipedia】 雑節
雑節(ざっせつ)とは、二十四節気・五節句などの暦日のほかに、季節の移り変りをより適確に掴むために設けられた、特別な暦日のことである。
一般に雑節と呼ばれるのは、次の9つである。
節分
彼岸
社日
八十八夜
入梅
半夏生
土用
二百十日
二百二十日
これに、初午・三元(上元・中元・下元)、盂蘭盆、大祓を加える場合もある。
【経営コンサルタントの独り言】
■ 入梅と梅雨入りは異なります 6月11日は、「傘の日」でした。 制定の由来は、6月11日が「入梅」だからです。 「入梅」というのは、暦の上の梅雨入りです。 立春から計算してちょうどこの頃に梅雨入りすることが多いことから、入梅が設定されました。 一方で、梅雨入りは、気圧の配置により前線が停滞するようになると気象庁が発表します。 因みに、「入梅」は二十四節気には含まれていません。これとは別に「雑節」というのがあり、その一つです。 ■ 【今日は何の日】その他
◇ 念空寂
■ アレキサンドロス大王(3世) 紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日 通称アレクサンドロス大王といいますと、3世のことです。 3世は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)のことです。 「アレキサンドロスの大遠征」といわれ、強大な軍事力を下に、広大な地域を制覇しました。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主でありましたり、エジプトのファラオも兼ねたりもしました。 ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれました。 ギリシア語ではアレクサンドロス大王ですが、英語風に読みますとアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王となります。 ■ アンネの日記の日 1942年6月12日は、ユダヤ人の少女アンネ・フランクが日記を書き始めた日です。 世に言う「アンネの日記」です。 ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れるために、アムステルダムの家を改造して密室を作って、家族とともに生活していました。 私も訪れたことがありますが、想像していたよりは広かったですが、毎日、そのスペースにだけ暮らしていたとなると大変な苦労があったと想像できました。 1944年8月1日、アンネ家族は、ついに発見されて、ポーランドのアウシュビッツに送られました。 この日が、日記の最終日です。 アンネは、翌年ドイツの収容所で病死したと伝えられています。 ■ 恋人の日 6月12日には、ブラジルのサンパウロ地方では、「恋人の日」です。 縁結びの聖人であるアントニウスが歿した前日に当たります。この日には、恋人同士が、写真立てに写真を入れて交換する風習があります。 日本では、全国額縁組合連合会が1988(昭和63)年から実施しています。今日のように携帯電話にカメラ機能が付いている日本では、赤外線やブルーツース通信機能で、写真のやりとりをするのでしょうか。写真の交換と比べると趣がありませんね。 【今日は何の日】その他 ◇ 成田山開山忌
【経営コンサルタントの独り言】 ■ アンネの日記と恋人の日 1942年6月12日は、ユダヤ人の少女アンネ・フランクが日記を書き始めた日です。 ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れるために、アムステルダムの家を改造して密室を作って、家族とともに生活していました。 6月12日は、ブラジルのサンパウロ地方では、「恋人の日」だそうです。 アンネのために祈りを捧げる人もいれば、恋人と愛を確認しあう人もいます。 時代や場所が異なると、大きな違いがあるのですね。 かつて、ある人が、街の中を歩いていると、皆、幸せそうに見えたそうです。 その人は、会社が倒産してしまい、不安のどん底にいたのです。 その人から見れば、周囲の人が皆幸せに見えて当然であったかもしれません。 その人に私がかけられた言葉は「万事塞翁が馬」でした。 その人は、今、小さいながら自分の会社を持ち、充実した日々を送っていると聞いています。 【きょうの人】
■■ 【今日は何の日】 6月13日■ 今川 義元 いまがわ よしもと 永正16年(1519年)-永禄3年5月19日(1560年6月12日) 戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名で、今川氏第11代当主です。義元の姉妹が、政略結婚していますので、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたります。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者でした。 寄親・寄子制度という合理的な軍事改革等により、たくみな領国経営をしていました。また、外征面でも才覚を発揮して、今川氏を戦国大名へと転身させました。 所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させたのです。 戦国時代における今川家の最盛期を築き上げ、一方で、京都志向が強く、都の雅な文化を取り入れていたことも知られています。 桶狭間の戦いで大群を引き連れていたにもかかわらず、織田信長軍の奇襲戦に敗れたことは、あまりにも有名です。毛利良勝(新助)に討ち取られて、その生涯を閉じました。 ■■ ■ はやぶさの日 宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所がある神奈川県相模原市が、2012年に制定しました。 2010年6月13日に、小惑星探査機初代「はやぶさ」が、小惑星「イトカワ」までの7年間の旅を終えて地球に帰還した。 初代はやぶさ(第20号科学衛星MUSES-C)は、2003年5月9日に科学研究所(ISAS)が打ち上げた小惑星探査機です。 イオンエンジンの実証試験を行いながら、2005年夏にアポロ群の小惑星 イトカワに到達しました。 その表面を詳しく観測して。サンプル採集を試みた後、2010年6月13日、60億 kmの旅を終え、帰還し、オーストラリアで回収されました。地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸してのサンプルリターンに、世界で初めて成功しました。 最後は、はやぶさ本体を赤く染めたシーンは多くの人の記憶に残っているでしょう。 ■ 小さな親切運動スタートの日
6月13日は、「小さな親切運動スタートの日」です。1963年に「小さな親切」運動本部が発足したことを記念しています。 1963年の東大卒業式で、茅誠司総長が「小さな親切を勇気をもってやってほしい」と言ったことがきっかけとなりました。 “できる親切はみんなでしよう それが社会の習慣となるように”、“人を信じ、人を愛し、人に尽くす”をスローガンに運動が進められています。http://www.kindness.or.jp/ 近年は、親切な行為を行うどころか、人に迷惑をかけることを何とも思わない人が多いように思えます。人に対する思いやりがない以前の問題もありそうです。世の中は自分を中心に廻っていると思っているのか、人が目にとまらないのか・・・・・ 道を横に並んで歩いている人は、他の人が目に入らないのでしょうか。それが迷惑になっていることに気がついているのでしょうか。
「人様の直前を歩くことは失礼になる」と教えてくれたのは、祖母でした。子供の頃、おばあちゃん子であった私の記憶に残っています。 ちあきなおみの喝采ではないですが「今日もブログを書いています」。親切を押し売りしているつもりはないのですが、ご迷惑でしたらごめんなさい。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 善光寺大法要
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 一日一善、再思三省、人に優しく 「一日一善」 一日にひとつは良いことをしましょうという運動です。 ここで重要なことは、継続と積み重ねだと考えます。 「善」とは広辞苑第六版によりますと「道徳の理想」とあります。 一日一善の本来の趣旨とは異なるかもしれませんが、道徳に固執しなくても良いと考えています。 私は、「善」とはかならずしも辞書的な意味での善い行いというだけではなく、健康に良いとか、仕事にプラスになるとか、いわゆる建設的な意味での善行であれば「善」であると考えるようにしています。 本来の意味の「一日一善」ですとなかなか継続できませんが、このように考えますと継続できます。 「本日は一日一善を励行できたか」と反省することで、生活にメリハリが出てくるように思えます。 「三省」 三回反省するという意味ではなく、「三」とは「たくさん」という意味です。 論語に「再思三省」とあります。 何度も考え、何度も自分を振り返ると言う意味です。 そこには、謙虚に自分を反省する行為が含まれているべきです。 【きょうの人】 ■ 修円 しゅえん 宝亀2年(771年)-承和2年6月13日(835年7月16日) 平安時代前期の法相宗の僧で、俗姓は小谷氏、大和国北谷の出身です。 生禅師(ていしょうぜんじ)とも称されます。 義真から天台教学を学び、義真の没後は義真に代わって、大和国室生寺に住し、いわゆる「室生天台」を現出させた「円修」と混同されることが多いのですが、別人です。 大和国興福寺の賢憬に法相を学び、794年(延暦13年)比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめました。805年(延暦24年)には最澄から灌頂(かんじょう:菩薩が仏になる儀式)を受けています。 810年(弘仁元年)に律師、812年(弘仁3年)に興福寺別当となり、興福寺に伝法院を設けて深密会を始めました。827年(天長4年)には、少僧都(しょうそうず:僧正の下にあって、大僧都を助けて僧尼を統率する僧官)となりました。 空海とも親しく、天台宗・真言宗という当時としては新しい仏教に理解を示していたようです。 ■ 明智 光秀 あけち みつひで 不明 - 天正10年6月13日(1582年7月2日) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名で、本能寺の変で、その名はよく知られています。 清和源氏の土岐氏の支流である明智氏に生まれ、父親の名前も伝わらない低い身分でした。そのため、歴史舞台に登場する前野光秀の詳細は、あまり伝わっていません。 土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えますが、弘治2年(1556年)に、道三が、息子義龍と長良川の戦いを行い、道三に味方した光秀は、義龍に明智城を攻められ、一族が離散しました。 室町幕府の将軍足利義昭は、織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促しました。朝倉義景の世話を受けていた光秀は、義昭が義景を頼ったことを契機に、光秀は義昭と接触を持つこととなりました。 一時期、義昭と信長の両属の家臣でしたが、光秀は、金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に、秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功しました。 比叡山焼き討ちでは、実行部隊の中心として武功を上げ、近江国の滋賀郡を与えられ、間もなく坂本城を築城します。 この頃から信長に重用されます。ところが、原因は、いまだに明白ではありませんが、信長に反旗を翻し、本能寺の変に至ります。 羽柴秀吉に攻められ、配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されました。最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けることを言い残したといわれています。 光秀の娘珠(後の細川ガラシャ)は、細川忠興の正室となっていることは、よく知られています。 ■ 北条 義時 ほうじょう よしとき 長寛元年(1163年)-元仁元年6月13日(1224年7月1日) 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で、鎌倉幕府の第2代執権です。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男で、源頼朝の正室・北条政子の弟です。 源氏三代にわたる将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者といえます。 幕府と朝廷の対立が激化しますと、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となりました。幕府軍は、京都に攻め上り、朝廷を制圧した、いわゆる承久の乱となったのです。 北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなりました。 ■ ■ えんま祭・えんま市 新潟県の柏崎市に江戸時代から伝わるお祭りで、毎年6月14日から16日にかけて開催されます。 200有余年の歴史を持つこの祭・市には、閻魔堂(えんまどう)のある本町通りを中心に全国各地から集まった500以上の露店が約2キロメートルにわたって立ち並び、期間中20万人を超える人出でにぎわいます。 えんま市の始まりは馬市で、現在のような見世物・露店の市に変わったのは、文政年間(1818-1829年)といわれています。 えんま市がこれだけの規模になったのは、柏崎の位置と6月15日前後という日取りが、全国各地の祭りや市を次々廻っている露天商人が、一堂に会するのに都合が良かったことが要因といわれています。 季節はちょうど衣替えの時期にもあり、ここで夏衣になって旅立っていったことから自然に呉服市が立つようになり、それがまた田植えを終えた農村の人たちの人気を呼んだともいわれています。 村上市の村上大祭、新潟市の蒲原大祭に並び「新潟三大高市(たかまち)」の一つにあげられ、毎年、この市を楽しみにしている多くの方の笑顔で、通りが埋め尽くされます。(柏崎市公式サイトより) http://www.city.kashiwazaki.lg.jp/sightseeing/kanko/event/6/enma/enma.html ■ フラッグデー アメリカでは6月14日は「フラッグデー」という国民の祝日です。 1777年6月14日に、今日の星条旗のもととなるアメリカ合衆国の国旗が定められました。ご存知の方も多いでしょうが、7つのストライプに多数の星をちりばめたデザインです。 このデザインは、フィラデルフィアの旗作り職人であるベッツイ・ロスによるものです。7つのストライプは、アメリカが独立したときに7つの州があったことを示しています。星の数は、その時の州の数を表します。従って、州の数が増減するたびに星条旗のデザインが変わるのです。 ロスのデザインは、7つのストライプを背景に、13の星が円形に並べられていたものです。近年は48州に、アラスカとハワイが加わった50の星が並んでいます。 私のつたない経験では、アメリカの学校では、教室に星条旗が掲げられているところが多いですね。多民族国家ですので、国を愛する気持ちを束ねるためには必要なことなのでしょう。 日本の学校で、もしそのようなことをする教師がいたらどうなるでしょうか? 国を象徴する国旗が軽んじられている国は、数少ないと思います。戦後何十年も経った今日です。私にはよく解りませんが、日章旗を掲揚するだけで国粋主義者として差別するようなことは好ましくないように思えます。 ■ オリンピック大会旗制定記念日 2020年は、東京オリンピック・パラリンピックです。 オリンピック・パラリンピックで、日章旗が掲揚されるとうれしいですね。 ちなみに6月14日は「オリンピック大会旗制定記念日」でもあります。 1914年に今日の5色のオリンピック大会旗が制定されました。5色は5大陸を象徴すると聞いています。 青 ヨーロッパ 黄 南北アメリカ
黒 アフリカ
緑 アジア
赤 オセアニア
あれ??? 日本は何処に? アジア大陸の一部なのですね。 余談になりますが、私がはじめてアメリカに行った1970年には、日本が何処にあるのかを知らない人が多かったことに驚きました。 中には、中国の一部と考えている人もいたのです。信じられますか? ■ 【今日は何の日】その他 ◇ 大阪住吉神社田植神事
◇ 善通寺誕生会
【経営コンサルタントの独り言】 ■ オリンピックの旗の色と大陸名を言えますか? 6月14日は「フラッグデー」で、アメリカでは国民の祝日です。 星条旗の意味をご存知の方は多いですが、五輪旗の意味は知っていても、いざ具体的な意味合いとなるとご存知でない方が多いようです。 日本では、国旗を軽視どころか無視している人もいます。 戦前戦中の軍の無謀とも言える行為に対する反発からという人が多いようです。 確かに不幸な戦争でしたし、私も父を戦争で亡くしました。 しかし、だからと言って国旗を無視するような行為は如何なものでしょうか。 【きょうの人】 ■ 柴田 勝家 しばた かついえ 大永2年(1522年)?-天正11年4月24日(1583年6月14日) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名で、下社城址には、柴田勝家誕生地の碑が、愛知県名古屋市名東区陸前町の明徳寺に建っています。 出自は不明で柴田勝義の子といわれますが、確実な資料はなく、おそらく土豪階層の家の出身であるといわれています。 若いころから織田信秀の重鎮として仕え、尾張国愛知郡下社村を領していました。信秀が死去しますと、子の織田信行(信勝)に家老として仕えました。 信行を信秀の後継者にしようと林秀貞と共に画策し、織田信長の排除を試みましたが、信長との戦いに敗れました。信長・信行生母の土田御前の強い願いで赦免され、受け入れられました。 信行が、謀反の計画を企んだときには信長に事前に密告し、仮病の信長を見舞った信行は殺害されました。 本能寺の変後の清洲会議で、織田氏の後継者問題では秀吉への対抗もあり、信長の三男・織田信孝を推しました。しかし、秀吉が、明智光秀を討伐したことで実績や発言力を増し、信長の嫡孫・三法師(後の織田秀信)を擁立した秀吉に押し切られました。(異説もある) 信長の遺領配分においても河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江3郡と長浜城(現在の長浜市)を新たに得たのみで、勝家と秀吉の立場は逆転してしまいました。 清洲会議の結果、3歳の三法師に叔父・織田信雄と信孝が後見人となり、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制となりました。 その後、勝家は信長の妹・お市の方と結婚しました。 勢力争いがくすぶり、勝家は、滝川一益、織田信孝と手を結んで秀吉と対抗しますが、結果的には、賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城にてお市とともに自害しました。享年62歳でした。
■ ◆ イチローvsローズとアーロン
イチロー選手が2016年6月15日に日米通算の安打数を4257本としました。賭博問題で永久追放処分を受けているピート・ローズの持つ大リーグ通算最多安打記録を、これからも上回り続けることになります。大リーグ通算3000本安打もターゲット圏内です。 球場の電光掲示板に、イチロー選手の日米通算安打数とローズ氏の通算安打数が紹介され、スタンドのファンが立ち上がって大きな歓声と拍手を送ったと報じられました。 本人は、「ここにゴールを設定したことはないので、実はそんなに大きなことという感じは全くしていない。何も大したことはない」と淡々と話したといいます。 ■ 米百俵デー
6月15日は「米百俵デー(こめひゃっぴょう)」です。1996年に新潟県長岡市が制定しました。
長岡藩(新潟県)は戊申戦争で敗れた後、財政に窮しました。米の配給を待つ藩士達に、三根山藩から百俵の米が贈られました。ところがそれを藩士に配給せず、売却してしまいました。
ここまで聞くと、長岡藩というのは何という非人道的な藩かと思いますね。ところがその代金で「国漢学校」を開校したのです。今日、長岡市などが教育熱心なのは昔からの伝統が続いているのですね。 ■ 【今日は何の日】その他
◇ 北海道神宮祭 ◇ 弘法大師降誕会(青葉祭)
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 人間性のスケールの違い イチローが、大記録を達成したときに、それまで記録保持者であったピート・ローズは「高校野球のヒット数を加えた数字を計算に入れたヒット数と比べても意味がない」と、イチロー選手の偉業を認めようとしませんでした。 もちろん、イチロー選手の4257本というのは、彼の高校時代のヒット数が加算されているのではなく、日米におけるプロ野球でのヒット数です。アメリカ人特有のアイロニー(皮肉)表現であることは、アメリカ生活がなかがったり、アメリカ通と言われたりする人にはすぐにお解りであったと思います。すなわち、ローズは、日本のプロ野球を低く見ているのです。 王貞治氏が、ホームラン数でハンク・アーロンの記録を破り、756本という記録を残しています。その時に、ハンク・アーロンは、王氏に対して、絶大なる賛辞を送ったというエピソードが残されています。それに対して、王氏が「アメリカの球場の大きさと日本とは差がありますから・・・」というようなことをおっしゃっていました。 ローズの発言に対して、「日米を合わせた記録というところが難しい。だから、いつかアメリカで、ピート・ローズ氏の記録を抜く選手が出てきてほしいし、もっと言えば日本だけでローズ氏の記録を抜くことが、おそらくいちばん難しい記録だと思うので、これを誰かにやってほしい。」とイチロー選手は述べたそうです。 イチロー選手も、本当は王氏と同様に、余計なことを言わないで、心からでローズをたたえたかったのでしょうが、ローズ発言で上述のような表現になってしまったのだと思います。首位打者を3回獲得したり、最優秀選手の栄誉に輝いたりしているローズですイチロー選手は「日米」、メジャーリーグの最多安打記録は、ローズであることには変わりがないのです。器の小ささを露呈してしまいましたね。晩年、野球賭博問題を起こすなど、意志薄弱な面を持っていたのかもしれません。 【きょうの人】 ■ 源 義経 みなもと の よしつね、源義經 平治元年(1159年)-文治5年閏4月30日(1189年6月15日) 享年31 平安時代末期の武将、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝は異母兄です。仮名は九郎、実名は義經(義経)です。 河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸(うしわかまる)と呼ばれ、五条の大橋で、弁慶を懲らしめた話は有名です。 平治の乱で父が敗死したことにより、鞍馬寺に預けられました。 後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受けました。 兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼす、最大の功労者となりました。 その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって頼朝の怒りを買うことになりました。 このことから、頼朝と対立し、朝敵とされ、義経の嘆願にもかかわらず、追われる身となりました。 全国に捕縛の命が伝わりますと、難を逃れ再び藤原秀衡を頼りました。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある衣川館で自刃しました。 その最期は、多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき、「はんがん」と読まない)という言葉を始め、多くの伝説や物語を生み、その一つとして、中国に渡り、ジンギスカンとなったともいわれます。ただし、ジンギスカンと義経とは時代が異なり、これは単なる伝説に過ぎないと言えます。 ■■ ■ 志度寺まつり(しどじ) 四国霊場八十八ヶ所・第86番札所の志度寺は、大きな五重塔があり、香川県瀬戸内海(志度湾)がすぐ近くにあります。 あたりに潮の香りが漂うお寺には、志度寺縁起にもなっている、竜神から宝珠を取り返す「海女の玉取り伝説」をはじめ、屋島で敗れた平家の落人が身を寄せたという説もあります。 また、石と白砂の美しい枯山水庭園「無染庭」も素晴らしいそうで、一見したいと思っています。 個々で毎年、志度寺祭が開催されます。 ■ 和菓子の日
6月16日は「和菓子の日」です。 西暦848年(承和15年・嘉祥元年)の夏、仁明天皇が御神託に基づいて、6月16日に16の数にちなんだ菓子、餅などを神前に供えて、疫病を除け健康招福を祈誓し、「嘉祥」と改元したという古例にちなみます。 詳細 http://www.wagashi.or.jp/wagashinohi/ 茶道には不可欠の和菓子ですが、伝統的製造法で作られた菓子のことです。明治になって、文明開化、外国の洋菓子に対して「和菓子」という言葉ができました。 従って遣唐使によって伝来した唐菓子も入ります。江戸時代に宣教師によって持ち込まれた南蛮菓子もふくまれることになります。カステラなどはその代表的な存在です。 【Wikipedia】 和菓子 京都の和菓子は、宮中や公家、寺社、茶家に納めたり、特別なお祝いのためにあつらえる「上菓子」、普段に食べる「おまん(饅頭の略)」や「だんご」「餅菓子」に分けられる ある地方の和菓子屋さんのコンサルティングをしたときに、季節感を上手に活かした販促策を提案しました。若かりし頃のことですが、幸いにもその効果が上がったことを思い出しました。 ■ 【今日は何の日】その他
◇ 柏崎えんま祭
◇ 志度寺祭
◇ 明遍忌
【経営コンサルタントの独り言】
■■ 【今日は何の日】 6月17日■ 季節を彩る和菓子は芸術作品 和菓子やケーキって、なんであんなに高いのだろうと、店頭の鮮やかさを見ながら思います。 それは、経済学的には「費用対効果」の問題であると学生時代に学びました。 当時は、私は世間知らずでした。 それが大学の学問というものなのかと落胆するとともに「学問」というのはそういうものなのかと半ば自分を慰めるようなことを考えたりしました。 この歳になってみますと、そのような基本的な知識がベースにあって、その上で思考し、その思考に行き詰まったらまた原点に戻ることの大切さがわかるようになりました。 企業の経営者・管理職や士業の先生などと話していて、基本や原点が理解されていないで、高尚なお話ばかりが進んでいるような気がします。 そのために、それが砂上の楼閣、結局一所懸命経営をしても、その成果に限界が早く訪れてしまっているのです。 さて、話を「費用対効果」に戻したいと思います。 スィーツが好きな人にとっては、それが何百円であろうが、千円を超えようが、それに投資するだけの価値を見出せれば購入するのです。 私には、他に投資したいことがあるので、目前のスィーツよりはそちらを優先したいがために価値を見出せないでいるだけなのです。 一方で、和菓子職人やパテシエの作業現場をテレビで拝見すると、高いのも当然と思うほど、きめ細かさや原材料へのこだわりがあるのですね。 【きょうの人】 ■ アレキサンドロス大王(3世) 紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日 通称アレクサンドロス大王といいますと、三省のことです。 3世は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)のことです。 「アレキサンドロスの大遠征」といわれ、強大な軍事力を下に、広大な地域を制覇しました。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主でありましたり、エジプトのファラオも兼ねたりもしました。 ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれました。 ギリシア語ではアレクサンドロス大王ですが、英語風に読みますとアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王となります。 ■■ ■ 砂漠化および干ばつと闘う国際デー COP会議などで環境問題が討議されてきていますが、福島原発問題でにほんではそのほかの環境問題は少々影が薄くなってしまっている今日この頃です。
6月17日は、「砂漠化および干ばつと闘う国際デー(World Day to Combat Desertification and Drought)」です。
1994(平成6)年6月17日に「国連砂漠化防止条約」が採択されたことを記念して1995(平成7)年に国連総会で制定された国際デーの一つです。地球温暖化の一環で、砂漠化と旱魃に対する国際協力の必要性を浸透させることが目的です。
■ おまわりさんの日 1874(明治7)年に、日本で初めて巡査制度ができ、「おまわりさんの日」が誕生しました。 この歳には、東京に交番制度が初めてできました。しかし、当時は、交番としての建物はなかったといいますので、冬は寒かったでしょうね。 昨今では「koban」は、海外でも立派に通用するそうです。それだけ、日本の交番制度というのは優れていることなのでしょう。 ■ 【今日は何の日】その他
◇ 伊勢神宮月次祭
◇ 相国寺円通閣懺法会
◇ 興教大師降誕会
◇ 奈良峯川百合祭
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 地球というかけがえのない星を守るのは義務 広大な宇宙の中で、生物が生きて行かれるような、太陽系に似た条件を満たす恒星は2000ほどであるということが近年の研究でわかってきたそうです。 その中でも、ハビタブルゾーン(生物が生きて行かれる範囲)に属し、生命の存在が望めるのは数百に過ぎないそうです。 さらにその中でも高等生物が生存できるかどうかということとなるとさらに限定されてしまいます。 換言しますと、地球というのは非常に特殊な条件下で誕生した星であることがわかります。 ところが、その貴重な存在の地球が砂漠化し、干ばつが多発するような環境に変化しつつあるといいます。 それほど遠くない将来に人類が消滅し、やがては生命が生存できなくなってしまうのかもしれません。 6月17日は、「砂漠化および干ばつと闘う国際デー(World Day to Combat Desertification and Drought)」でした。 この日は、おまわりさんの日でもあり、地球環境を守るおまわりさんが欲しくなりました。 ■ 【きょうの人】 ■ 興教大師降誕会 興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)上人は、嘉保2年6月17日(1095)、肥前国藤津庄(現在の佐賀県鹿島市)に生誕しました。 13歳の夏上京、仁和寺の寛助大僧正のもとで出家した後、奈良で本格的な勉強を始めました。20歳の時、東大寺戒壇院で受戒、覚鑁と改めました。 のちに高野山で約10年修行、当時衰微しつつあった高野山の復興を志します。伽藍の復興、高野山の運営の革新などをも断行しました。 勅命によって諸国の名師を訪ね、真言諸派の秘奥を探り、宗学を大成しました。 永年、京都東寺の支配下にありました高野山を独立させ、真言宗団の中興に寄与しました。 真言宗豊山派 ←クリック ■ 阿部 正弘 あべ まさひろ 文政2年10月16日(1819年12月3日)- 安政4年6月17日(1857年8月6日) 江戸時代末期の備後福山藩第7代藩主で、江戸幕府の老中首座を務め、幕末の動乱期にあって安政の改革を断行しました。 天保15年(1844年)5月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰することになりました。 しかし正弘は、一度罷免された水野が復帰することに反対し、家慶に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したといわれます。 水野が復帰しますと、天保改革時代に不正などを行っていた町奉行鳥居忠耀や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し、さらに弘化2年(1845年)9月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由にその地位から追い、代わって老中首座となりました。 また、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め大胆な人材登用を行いました。 ペリーの再来により、日米和親条約を締結させることになり、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げさせることになります。 開国派であった井伊直弼らと反りが合わず、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図りました。 ■■ ■ 考古学出発の日
6月18日は「考古学出発の日」です。 大森貝塚の発見者が、モース博士であることはよく知られています。彼が来日した日を記念して制定されました。 彼が横浜から新橋に向かう途中で見つけました。 漠然と車窓を長目ながらの旅行というのは楽しいものです。心が癒やされます。ところが出張の時というのは、同じ車窓なのに頭の中では仕事のことを考えています。そのために目に入るものはただ通り過ぎて行くだけです。 モース博士は、日本という異国の地を踏んで、すべてのことに関心を持っていたのでしょう。のんびりと走る汽車から外を食い入るように眺めている博士の姿が見えるような気がします。 興味や関心を持つと見えるものが異なってきます。経営コンサルタントたる者、それを忘れてはいけない、そのように自分に言い聞かせました。 ■ 海外移住の日
6月18日は「海外移住の日」です。 1908年(明治41年)6月18日に、笠戸丸が781人の移住民を運び、ブラジルのサントス港に到着しました。 「海外移住事業団法」に基づいて設立された海外移住事業団が海外移住事業を行っています。6月18日から10日間を「海外移住旬間」として、海外移住に関するさまざまな催しが行われます。 【百科事典マイペディア】 海外移住(移民)振興のため,移住相談や斡旋(あっせん),渡航費等の支給,移住後の指導や援助等を行う機関。同事業団法に基づく全額政府出資の法人で,従来の日本海外移住振興(株)と日本海外協会連合会を統合し,1963年発足。 今日では、余生を海外で過ごそうという人が結構いるようです。物価が低い国であれば、年金でも何とか生活ができるようです。私の知人でも、マレーシアへの以上を検討している人がいます。 安寧な人生を目指すだけではなく、何か目的をお持ちであればきっと素晴らしい生活ができるのでしょう。一方で、リスクは常に意識しなければなりませんね。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 妙心寺山門懺法 【経営コンサルタントの独り言】 ■ 小学生の時代に夢見た考古学 6月18日は「考古学出発の日」です。 歴史で学んだ大森貝塚の発見者モース博士を記念して制定されたそうです。 私が小学生の頃は、処々を走り回って遊びほうけていました。 JRの踏切の近くに石がゴロゴロしているところがありました。 小さいのは数センチ、中には50センチやそれよりも大きな石が積んであったのです。 河原の石のように角が取れている石ばかりです。 広さにしますと1000平米ほどはあったでしょうか、子供が遊ぶには格好の場でした。 あるとき、ゴロゴロした石の間に黒っぽい、扁平な石を見つけました。 私には石器に思えたのです。 翌日学校で先生にそれを見せました。 おそらく得意げだったと思います。 「どんなところで見つけたの?」 それがどの様な意味なのか、私にはわかりませんでしたが、正直に答えました。 先生は、私をがっかりさせないように、遠回しに、やんわりと「そんなところに石器はないよ」と匂わせてくれたのです。 私は、石器に違いないと考え、新聞紙に包んで、私の宝箱の中にそっとしまっておきました。 中学生になったときにメタル製の宝箱を庭の隅に埋めました。 子供の頃の想ひ出です。 【きょうの人】 ■ 石川丈山 いしかわじょうざん 天正11年(1583年)- 寛文12年5月23日(1672年6月18日) 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、儒者、漢詩人で、大坂の陣後、獄中生活をし、一時歯間もしましたが、京都郊外に隠棲して丈山と号しました。 林羅山らと交わり、儒学を学び、漢詩人となりました。作庭家としても有名で、隠棲生活を送った詩仙堂(左京区)の庭園を自ら作ったほか、渉成園や一休寺の酬恩庵庭園(京田辺市)などが丈山の作といわれています。 幕末の『煎茶綺言』には、「煎茶家系譜」の初代に丈山の名が記載されており、煎茶の祖ともいわれています。 人間の生き方は、人それぞれ。丈山は徳川家康に仕える武士でありながら、京都郊外に隠棲するなどと生き方を変えました。 現代人も、たとえば大企業に仕えていても、自分の生き方や求めるものに反するような場合には、丈山のように、生き方を変えるという道もあるでしょう。 一方で、「石の上にも三年」といいます。 現状の正確な把握と自分の気持ちのバランスとを考えながら判断すべきです。「この会社は俺には会わない」というような決めつけや即断で、せっかく与えられた機会を損失しないようにすべきではないでしょうか。 ■ 京都府開庁記念日 大阪と構想が話題になっていますが、6月19日は「京都府開庁記念日」で、京都府が1985年に制定しました。
慶応4年閏4月29日、この日は新暦でいうと1868年6月19日)に京都府が開設されたことに由来しています。
慶応4年というと、王政復古の4箇月後のことで、日本初の地方自治体だった。
慶応3年12月9日(新暦1868年1月3日)に江戸幕府が倒れ、明治維新が宣言された年ですから、京都府が開庁したのは明治になってわずか数ヶ月後のことになります。
■ ベースボール記念日
1846年6月19日に、史上初の野球の試合がニュージャージー州で行われたという公式の記録が残っています。
野球という競技の歴史は、諸説あって定かでないようです。以下Wikipedia他を参照しながらまとめてみました。
先史時代に野球のボールと同じくらいの大きさの石が狩りや戦いに使われていたと言いますが、まさかそれが野球の起源ではないでしょう。
12世紀に、2チームに分かれて競う「ラ・シュール」というスポーツがあったようです。手足や棒などを使うというところは野球に近いですが、それを使ってサッカーのようにゴールに玉を運ぶという点では異なります。
それがイギリスに渡ると「ラウンダース」というゲームに変質しました。投手が小石を詰めたボールを投げ、ストライカーと呼ばれる打者が、船の艪を今日のバットとして打ち返し、しかも4つのベースを回るというゲームで、わたしはこれが起源のように思えます。
ラウンダースはアメリカに入り、それがベースボールという言葉になったかどうかは確認できていませが、ベースボールという言葉がが記録としてある最も古い文書は、1791年のマサチューセッツ州のものです。
その後、各地に普及し始めましたが、地域によりルールが異なるゲームでした。その不便を解消するためにカートライトがルール統一化に乗り出しました。それが今日の野球ルールの原型と言えます。
2月5日は「プロ野球の日」です。1936年2月5日に、日本で最初のプロ野球の組織である全日本職業野球連盟が結成されました。
その時のチームには、東京巨人軍(現 読売ジャイアンツ)や大阪タイガース(現 阪神タイガース)等、7チームがあったそうです。
8月9日は「野球の日」で、これは、「や(8)きゅう(9)」の語呂合わせから、スポーツ用品メーカーのミズノにより制定されました。また、真夏のこの時期は、高校野球の熱戦が繰り広げられる時期でもあります。
8月17日は「プロ野球ナイター記念日」です。1948年8月17日の巨人対中部(現在の中日)のゲームが夜間、横浜ゲーリッグ球場で初めて開催されました。「ナイター」という和製英語がこの時初めて使われました。
9月3日は、「く(9)さ(3)」の語呂合わせから「草野球の日」です。またこの日は「ホームラン記念日」でもあります。
1977年9月3日、後楽園球場で巨人の王貞治選手が通算756号ホームランを打った日を記念して制定されました。それまでアメリカ大リーグのハンク・アーロンが持つ記録で、王選手が世界最高記録を更新した日なのです。
その年の9月5日には、初の国民栄誉賞が贈られました。因みに王選手は引退するまでに868本のホームランを打ちました。
1934(昭和9)年12月26日に、大日本東京野球倶楽部(読売巨人軍の前身)が日本で最初のプロ野球チームとして誕生しました。これを記念して12月26日が「プロ野球誕生の日、ジャイアンツの日」として制定されました。
アメリカのプロ野球チームが、日本を訪れており、その対戦のため急遽創立されたそうです。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 桜桃忌 【経営コンサルタントの独り言】 ■ 三角ベース、ゴロベース 1846年6月19日に、史上初の野球の試合がニュージャージー州で行われたという公式の記録が残っています。 これを記念して、6月19日を「ベースボールの日」と定めたそうです。 私が子供の頃は、近所のお兄さん達が集まって、私達ちびを束ねていました。 野球をするには、人数がたりませんので、「三角ベース」といって、三塁ベースのない、三角形のダイヤモンドで、軟式テニスボールのようなボールを使って野球に興じました。 「ゴロベース」という野球もありました。 三角ベースでは、バットを使うのですが、ゴロベースでは、ピッチャーはボールを転がします。 それをバッターは、手で打ちます。 ものの乏しい時代でしたので、軟式野球をしたい子供は、小学四年生が待ち遠しかったのです。 四年生になると、クラブ活動として野球クラブに参加できるからです。 私は、「ぎっちょ」でしたから、普通のグローブを右手にはめて捕球をします。 ぎっちょとは、左利きのことです。 ところが、どういうわけか、バッターとして右打者だったのです。 もともと左利きなのでしょうか、後に、スィッチヒッターとして、ピッチャーに応じて使い分けたりしました。 【きょうの人】 ■ 覚鑁 (興教大師) かくばん/こうぎょうだいし 嘉保2年6月17日(1095年7月21日)- 康治2年12月12日(1144年1月18日) 平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖でもあります。 諡号を興教大師(こうぎょうだいし)といいます。 肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分 新義真言宗大本山誕生院)に生まれました。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で、幼名は、弥千歳といいました。 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学において、いかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。 即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしています。 空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として知られています。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈』の著者でもあります。 ■■ ■ 竹伐り会式 京都鞍馬寺で、毎年6月20日に、梅雨の晴れ間にホトトギスの鳴く頃として、「竹伐り会式」が開催されます。 平安の昔、峯延上人が大蛇を法力で斃し、朝廷から使わされた人夫が龍ヶ獄に捨てたという故事に因む行事です。 僧兵のいでたちの鞍馬法師が、近江・丹波の両座に分かれ、大蛇に見立て た青竹を裂帛の気合とともに伐り、その速さを競い、豊作を占い、水への感謝を捧げ、破邪顕正を祈る千年にわたる古儀が営まれます。 ■ ペパーミントの日
6月20日は「ペパーミントの日」です。北海道北見市まちづくり研究会がハッカが特産品であることにちなんで1987(昭和62)年に制定しました。
6月は北海道では爽やかな良い季節で、その爽やかさが「はっか」に繋がることから6月が決まりました。「20日」が「はつか」と通常言うことに「はっか(20日)」をかけたのです。
市のウェブサイトによると、平成18年3月5日、北見市、端野町、常呂町、留辺蘂町が合併し、新「北見市」が誕生しました。
失礼な言い方になってしまうかも知れませんが、北海道の東部に位置している北国にしては結構大きな街なのですね。人口12万5千人もいらっしゃり、オホーツク圏最大の都市です。面積は1427.56平方キロメートルで北海道では第1位の広さと言いますので、広大で、人口密度は低く、良さそうなところですね。
私は、仕事で30年以上前に一度行ったことがあるだけですので、記憶は定かではありません。
通称「北海岸」から樺太が「見える」ということから、松浦武四郎氏が命名したと言われています。その樺太はいまやサハリンとロシア語読みされていますが、私が小学校の時に教室に貼られていた日本地図には、北緯50度線を境界とする南樺太は日本国領土となっていました。
今日でも南樺太は国際法上「未帰還地」と日本政府はしています。北方4島だけではないのですね。
■ 【今日は何の日】その他 ◇ 鞍馬寺竹切縁日 【経営コンサルタントの独り言】 ■ ペパーミントの想ひ出 6月20日は「ペパーミントの日」でした。 子供の頃、リグリースのチューインガムを戴いたときに、その爽やかさは子供心に強く感じました。 リグリースは、ペパーミントではなくスペアミントだったかもしれません。 「ペパー」はpepperのことでしょうか? そうであるとしますと、胡椒ですね。 ペパーミントの香りは、胡椒とは結びつきませんが、胡椒と何か共通点が他にあるのでしょうね。 【Wikipedia】によりますとミントは2種類に大別されるそうです。<以下【Wikipedia】より> ペパーミント系は香りが強く、メントールの含有量も多い。東アジア原産のニホンハッカ(和種薄荷(わしゅはっか))もここに含まれる。チューインガムやキャンディに多く用いられる。 スペアミント系の香りは比較的弱く、甘い香りがある。チューインガム、歯磨き粉などに用いられる。スペアミントの香りの主体はl-カルボンである。 【きょうの人】 ■ 鎮西上人 生誕 ちんぜいしょうにん 別名 弁長聖光(べんちょうせいこう) 応保2年5月6日(1162年6月20日) - 嘉禎4年2月29日(1238年3月16日) 平安時代後期から鎌倉時代にかけての浄土宗の僧。鎮西義の祖。父は古川則茂。字は弁阿(べんな)。房号は聖光房(【Wikipedia】) 14歳で出家し、比叡山に登り、短大集を学び、秘奥を究めたと言われています。 後に、故郷の筑前に帰り、油山の学頭職に補せられますが、弟の死に遭遇し、無常を感じて建久8年に上洛しました。 そこで法然に謁(まみ)え、浄土念仏の要道を聴き、専心法然に支持して浄土門に期すことになりました。 元久元年、浄土宗の正統を伝道し、鎮西に帰り、善導寺を建立しました。 人の「死」というのは、人間の生き方を変える契機となるほどのことなのですね。 私事ですが、中学二年の時に祖母を亡くしました。祖母からは、「偉くなっても稲穂を忘れてはいけないよ」という言葉を始め、いろいろと教えられました。 祖母の死に遭遇したときに、いろいろな教えをもとに生きていくということを墓前で誓ったことを鮮明に記憶しています。 ■ 夏至(年により日付が異なる) 二十四節気のひとつである夏至です。一年の中で最も昼間が長く夜の短い日であることは子供でも知っています。 定期法では太陽黄経が90度の時と決められています。冬至から半年(約182.62日)経った日に当たり、昼間の時間は約4時間50分の差があります。 日の出の時間は、夏至より数日前が最も早いのですが、日の入りの時間との関係で最も昼間の時間が長いのが夏至になります。 北欧では白夜になり、冬のクリスマスとともに夏の夏至祭は盛大です。盛大と言っても、どんちゃん騒ぎをするわけではなく夕方火をたき、皆でゆっくりと夏の余を楽しみます。 ■ 父の日 (6月第3日曜日) 今日は「6月の第三日曜日」です。といって、ピンと来ない人が多いのではないでしょうか。母の日に比べると「父の日」は影が薄いですね。 【Wikipedia】 父の日 1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドッド(Sonora Smart Dodd)が、彼女を男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらった。 おちとよこ女史の話に聴き入りました。女史は,ジャーナリストとして、作家として活躍されています。
「一人でもだいじょうぶ 晴ればれ冬じたく」
人生の最後の締めくくりをどのように迎えるのか、暗くなるような話を淡々と、それでいながら女史の気持ちが伝わってきました。
内容もさることながら、Power Point画面を音楽として、踊るような講演スタイルは、私など聴衆を魅了する点では足下にも及びません。
■ がん支え合いの日 がん患者や家族を支援するNPO法人キャンサーリボンズが、夏至になることの多いこの日を記念日として制定しました。 二人に一人が、癌にかかるといわれている昨今です。しかし、近年は、早期発見により、なくなる方も少なくなっていると報道されています。 キャンサーリボンズのサイトによりますと、同法人の目的は、以下のようにシルされています。 (目 的) 第3条 この法人は、乳がん・婦人科がん・消化器がん・肺がんなど、がんを患いが んと共に生きる方々とその家族や友人等、およびがんの治療に携わる医療従事 者ならびにがん予防や健康に関心を持つ方々や地域の方々に対し、予防・早期 発見・治療などに関する情報の収集提供を行い、また心身のケアに関する提案 や指導・相談を行うため、各地に「リボンズハウス」を開設および運営する事 業を行い、がん患者さんを始め多くの方々のQOL維持・向上並びに精神的・ 社会的支援を図り、同時に地域のヘルスエデュケーションに務め、もって社会 全体の利益の増進に寄与することを目的とする。 ■ スナックの日 6月21日は全日本菓子協会が制定した「スナックの日」です。かつて夏至に「歯固め」と言って、お正月についた餅を固くして食べる習慣があったことから決まったそうです。 1970年12月に、アメリカ事務所の責任者として赴任しましたが、その隣が明治製菓の事務所でした。西も東もわからない私に、明治製菓の社員さんは大変親切にしてくれました。 その時に「これからの菓子業界ではスナック菓子が成長商品の一つだ」と言っていました。それまで「スナック菓子」という言葉すら知りませんでした。ポップコーンがその代表であることからようやく理解できるようになりましたが、今日スナック菓子の種類は非常に多くなりましたね。 スナック菓子は、「チップ」「フライ」「パフ」に3分類されます。 チップの代表は、ポテトチップですがサツマイモやトウモロコシなども原料とし、スライスして揚げたものです。厚みがあると「フライ」に分類されます。「パフ」カールなどにみられるように空気を入れて焼成したものです。 カロリーと塩分が高いので注意が必要ですね。
新宿歌舞伎町の方に行く機会があったので、昼食の場所を物色しました。カロリーと塩分が念頭にありながら、結局選んだのが牛タン屋でした。頭が考えることと、目が食べたいものとでは違うのですね。
【経営コンサルタントの独り言】 ■「夏至」日本の季節感を表す二十四節気 四季が明確な国は少ないと言われています。 農業に関連付いていることが多いですが、日本には二十四節気があります。 その一つが、「夏至」です。 近年は、地球温暖化の影響を受けているのか、季節感が以前と異なります。 春が来たと思っていると、夏日が頻繁に起こり、一気に夏が来てしまったかのような思いをしばしばします。 春と秋の季節感が短くなってしまっているのは、夏が長くなっているからでしょうか。 ■ 貞慶 じょうけい 久寿2年5月21日(1155年6月22日)- 建暦3年2月3日(1213年2月24日)) 号は解脱房 勅謚号は解脱上人 一般に笠置の解脱上人と呼ばれます。 11歳で出家し、「貞慶」と名乗りました。 鎌倉時代前期の法相宗の僧であり、祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は左少弁藤原貞憲です。 法相宗を興福寺に学び、20年余そこで過ごしました。 釈迦如来、弥勒菩薩、観音菩薩、春日明神を深く信仰し、戒律の復興に努め、法相教学の確立に大きな役割を果たしました。 その一方で朝廷の信任も厚く、勧進僧と力を合わせ、由緒ある寺社の復興にも大きく貢献してきました。また、興福寺奏状の起草者として、興福寺の衆徒が法然らの提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に奏上しました。(【Wikipedia】を基に作成)
■■ 【今日は何の日】 6月22日
■ 日韓条約調印記念日 日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約は、昭和40年(1965年)6月22日に日本と大韓民国との間で結ばれた条約です。通称「日韓基本条約」と呼びますので、この日を日韓条約調印記念日として制定されました。 【Wikipedia】 日韓国交正常化交渉では、日本が朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄・当時の韓国国家予算の2年分以上の資金提供すること、具体的には日本の生産物及び役務により、使用先は韓国経済発展に繋がるものとされ、無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款3億ドルで、10年分割年最高5000万ドルの現物供与で、日本企業が受注し、資金は日本企業に入った。 日韓国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく日韓関係正常化などが取り決められた。韓国は日本からの受けた現物供与により浦項総合製鉄、昭陽江ダム、京釜高速道路、漢江鉄橋、嶺東火力発電所などが建設されて最貧国から一転して経済発展した 。 韓国政府は日韓基本条約によって日本から受けた資金5億ドル(当時)(日本政府は独立の祝い金、経済協力資金であり補償、賠償ではないと国会で答弁)に含まれた個人への補償金であった無償援助3億ドル分含めて経済発展資金に回したことが発覚して2014年に裁判になったが、日韓請求権協定で受け取った資金を産業育成やインフラ整備など他の目的に使用したことについて「法律に沿うもので違法行為とは見ることはできない」などの理由で原告は棄却や敗訴している。 逆に韓国政府や裁判所の日韓請求権協定で解決との立場を変えた判決が、2012年や2018年に韓国の最高裁から出されている。請求権協定の第1条において、無償3億ドルに等しい価値を有する「日本国の生産物及び日本人の役務」によって供与すると定められている。 ■ 姫路ゆかたまつり 6月22日~24日まで、兵庫県姫路市の長壁神社で姫路ゆかたまつりが開催されます。 ゆかたを着た稚児行列が、姫路城から長壁神社までの1kmの道のりを繰り歩来ます。そのほかにも、ゆかたショーを始め、郷土芸能が披露されたり、歌や踊りのイベントなどが催されたりします。
夜には走馬灯を手にしたゆかた姿の人たちで賑わいます。
姫路には、日本経営士協会の親しい会員(故人)がいたので何度も行っていますが、残念ながらゆかた祭にはお目にかかっていません。
長壁神社 http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6316072.html 当神社の御祭神二柱は、刑部親王とその王女の富姫である。今より遠く一千余年の昔、姫路域の位置する姫山に、地の神として祀られた。刑部親王は皇位継承問題に関して、藤原百川の諷言により、皇太子の地位を廃せられた方で、富姫はその皇女である。幼き頃より、永く姫山の地に住まれ、ここで逝去された。以後二人は、姫山の地の守護神として、この処に祀られた。代々の守護職、国司から厚い保護を受け、一般の人々からも厚い尊敬を受けた。 豊臣秀吉、池田輝政が姫路城を築き、地神様の長壁袖社は、鎮座地が城内となり、一般庶民の参拝は不可能になった。江戸時代の姫路城主、榊原政岑公は、越後の高田への転封に際し、立町の地に長壁禅社の御分霊を祀り、庶民も気楽に、ゆかた姿で祭祀に参加してよいとのお達しをした。以後、姫路の地は6月22、23、24日の夏至の日の長壁神社の祭礼の日から、ゆかたを着る慣わしとなった。姫路の町の夏の空高く神前に名物のまわりとうろうを奉献し、千軒の露店が町中をうめ、ゆかた姿の母親と幼稚園児が城内の本宮から立町長壁神社まで幼児行列を行う。 ■ 【今日は何の日】その他 ◇ 徳本上人誕生 【経営コンサルタントの独り言】 ■ 姫路は姫路城だけではありません 姫路と言いますと姫路城を連想するのは当然と言えるほどです。世界遺産でもあるし、日本を代表する建築物の一つです。 6月22日~24日は、長壁(おさかべ)神社で毎年ゆかたまつりが開催されます。 近年、着物姿の女性というと海外からの旅行者が多いですが、盆踊りの季節には多くの人がゆかたを着ますね。 日本の伝統が引き継がれているようで、嬉しいですが、マナーの悪い人もいます。 私が残念に思うのは、歩き方です。 歩きにくいのは確かですが、裾がひらひらするのはいただけません。 【今日の人】 ■ 相馬 哲平(そうま てっぺい) 初代相馬哲平は、1833年6月22日(天保4年5月5日に生まれ、1921年(大正10年)6月6日)に歿しています。 日本の実業家、政治家、貴族院多額納税者議員で、北海道の多額納税者のひとりです。 函館貯蓄銀行頭取、相馬合名代表社員等、北海道屈指の豪商で、箱館の発展に寄与しました。 ■ 桂昌院 けいしょういん 永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日) 江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母で、通称は玉といいます。 父は、北小路(本庄)太郎兵衛宗正、母は鍋田氏で、兄に、北小路道芳(後に本庄姓を賜り本庄道芳)、弟に本庄宗資がいます。 寛永16年(1639年)に、部屋子として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになりました。 長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、正保3年(1646年)1月に綱吉を産みました。 慶安4年(1651年)に家光が死ぬと大奥を離れ、筑波山知足院に入ります。 4代将軍・家綱の死後、綱吉が将軍職に就き、江戸城三の丸へ入りました。 従三位を経て、元禄15年(1702年)2月には、女性最高位の従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜わりました。 宝永2年(1705年)6月に79歳で没し、墓所は、東京都港区の増上寺にあります。 遺髪塚が寺の復興に貢献した京都府京都市西京区の善峯寺に「桂昌院廟」として存在します。 また、東京都文京区にあります護国寺は、桂昌院の発願によって天和元年(1681年)に創建されました。開山は亮賢です。 本尊は如意輪観音で、江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所です。 近代以降は宮家の墓所(豊島岡墓地)が造られ、1873年(明治6年)、明治天皇の皇子(稚瑞照彦尊)の薨去を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされ、また、桂昌院という建物も建てられました。 ■ 畠山重忠 鎌倉幕府の有力御家人 はたけやま しげただ 長寛2年(1164年)-元久2年6月22日(1205年7月10日) 享年42 畠山重忠は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の有力御家人の一人でした。 父親が平氏方の武将であったために、源頼朝の挙兵に際して当初は敵対していました。しかし、のちに白旗を持って頼朝に会い、臣従しました。 『源平盛衰記』によりますと、その白旗は、重忠の先祖の平武綱が八幡太郎義家(源氏本流)より賜ったものとのことで、頼朝を大変に喜ばせたと記述されています。重忠は、治承・寿永の乱で活躍し、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入れました。その功績と人柄が買われて、幕府創業の功臣として重きをなしました。 しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれました(畠山重忠の乱)。重忠は、武蔵国(埼玉県深谷市付近)を拠点としていましたが、当時、「武蔵を制する者は、板東(関東)を制す」といわれるほど、重要な地でした。 時政は、北条氏が板東で存在や功績を認められたいという思いから、息子・義時や部下達の反対を押し切って、重忠に策略を仕掛け、強引に滅ぼしたといいます。 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称されるほど人望があつかったのです。事後、時政に反感を持つ、息子の義時等により時政は追放されることになりました。そのことからも重忠の無実は明らかだったようです。 戦前の教科書には、必ずといって良いほど、畠山重忠の忠君物語は掲載されていました。 ■■ 【今日は何の日】 6月23日 ■ 沖縄慰霊の日
1945年(昭和20年)6月23日に、太平洋戦争激戦地である沖縄戦が終わった日です。沖縄県では、この日を「慰霊の日」と決めて、戦没者の霊を慰め、平和を祈ります。諸官庁、学校、金融機関や会社など全てが休みとなり、皆さんが心を一にしてこの行事に取り組みます。 戦没者の皆様やそのご家族・関係者の皆様ととも追悼いたします。
■ 国連パブリック・サービス・デー
6月23日は「国連パブリック・サービス・デー(United Nations Public Service Day)」です。国連加盟国が、この日に「公共サービスが開発に果たす役割」を周知させる日です。2002年の国連総会で制定されました。 若かりし頃、国際紛争の解決になぜ国連が治安維持の機関として活動しないのか、大変不満に思っていました。例えば領海の定義についても200海里主義もあれば大陸棚主義もあり、統一性のないことが紛争の原因とわかっていながら何もなされない。 フォークランド紛争という局地的な争いですが、大国と小国のぶつかり合い。北方四島の帰属問題もしかり。 宇宙戦争時代が来るのかどうかはわかりませんが、国際裁判、国連軍や国連警察のような組織が機能すれば、各国が軍拡競争をしたり、核保有をしたりという、非生産的な部分に国民の血税を浪費しなくてもするのではと言うような青臭い考えをいまだに持っています。 ■ 【今日は何の日】その他
◇ オリンピックデー 【経営コンサルタントの独り言】 ■ 沖縄慰霊の日に憲法改正を考える4 6月23日は「沖縄慰霊の日」です。 太平洋戦争という無謀な戦いをし、70余年が経ちましたが、沖縄ではいまだに苦しまれている人がたくさんいらっしゃいます。 私も父や伯父を戦争で亡くしています。 憲法改正論議が盛んで、今年中には、安倍政権の下、改正されるのでしょう。 周辺諸国とトラブルがなければ憲法改正論議が強くなることはなく、平和憲法を誇りを持って維持するのでしょう。 しかし、正常とは思えない、やりたい放題の言動をとる国があり、改憲か平和憲法を守り抜くのか判断は分かれるのは当然です。 国連がキチンと機能していないことも国際紛争に終止符を打てないでいます。 奇しくも、23日は「国連パブリック・サービス・デー」です。 平和はこの記念日とは直接関係ないのかもしれませんが、機会ある毎に、安保理のあり方を再考すべきと考え、その時期が来ていると考えてよいのではないでしょうか。 【きょうの人】 ■ 国木田 独歩 小説家、詩人、ジャーナリスト くにきだ どっぽ 1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日) 日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者で、千葉県銚子に生まれ、広島県や山口県で幼少期を過ごしました。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名し、筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがあります。 田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表しました。詩や小説を書いている中で、次第に小説に専心するようになります。 「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる作家です。 現在も発刊されています雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されています。 夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していました。 私は、東京の郊外で育ちましたが、独歩の代表作「武蔵野」には、そのころの風景が、この小説の中で描かれているのを実感します。 ■ 初愛宕(はつあたご)
毎月24日には、各地の愛宕神社で縁日が開かれます。新年最初の縁日である1月24日は「初愛宕」と呼ばれ、旧暦の6月24日とともに重んじられます。 旧暦6月は千日詣といい、この日にお参りすると、千日分に相当するとして多くの参拝者が詰めかけます。 東京都港区にある愛宕神社では、23日から24日にかけて「愛宕千日詣り(あたごせんにちまいり)」の行事が行われます。 23日は前夜祭、24日が大祭です。この日に参詣すると千日詣でたのと同じご利益があるとされています。境内に作られた茅(ち)の輪をくぐると邪気を追い払うことができると信じられ、災難よけのお札や千成鬼燈を受けるために全国から参拝者が集まります。 ■ UFO記念日 1947年6月24日に、アメリカで初めてUFOが目撃されたと報道されました。それを記念して今日は「UFO記念日」です。 UFOといっても、インスタント焼きそばではありません。「未確認飛行物体」のことです。UFOというのは Unidentified Flying Object の省略形です。 【Wikipedia】 UFO 「未確認飛行物体」という用語は、本来航空・軍事用語であり、当局で把握できていない航空機や観測気球、他国からのミサイル 等々さまざまなものを指す[2]。進路を見失った飛行機、他国のスパイ機、仮想敵国の先制攻撃、さらにはミサイルの可能性があり、事故のみならず国家の安全を脅かす可能性すらあるためにスクランブル(緊急発進)の対象となる。 「UFOを信じますか?」というOCNのアンケートによると、35%のひとが「もしかしたらいるかも」と思っていますし、「絶対にいる」と確信している人が4人に1人くらいいます。 広大な宇宙ですので、地球人より高度な文明を持った星がどこかにあると考えます。そこからUFOが飛んできていて、SF映画のように隣人が宇宙人かもしれませんネ。 ■ 【今日は何の日】その他 ◇ 芝愛宕千日詣 ◇ 白馬山開
◇ 旧端午(年により日付が異なる)
◇ 清正公忌
【きょうの人】 ■ 清正公忌 加藤清正(かとう きよまさ) 永禄5年6月24日(1562年7月25日) - 慶長16年6月24日(1611年8月2日) 安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将で、肥後熊本藩初代藩主を務めた大名です。通称は虎之助(とらのすけ)で、熊本などでは今でも「清正公さん(せいしょうこうさん、せいしょこさん)」と呼ばれて親しまれています。清正公信仰といえる程です。 豊臣秀吉の子飼いの家臣で、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、朝鮮出兵の折の「虎退治」の話は有名です。 秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、秀吉没後は、秀吉の妻、おね(ねねともいう)の影響もあり、徳川家康に近づきました。関ヶ原の戦いでは、東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になったのです。 明治43年(1910年)に従三位を追贈されています。 築城の名手としても知られ、「清正積み」という独特の城の石垣建設の考案者でもあります。 【経営コンサルタントの独り言】 ■ あなたはUFOの飛来を信じていますか? 太陽界の外にある系外惑星が2000余も見つかっているそうです。 最も近いところにある惑星で、ハビタブルゾーン(生物生存可能圏)の星も存在しています。 生物が生存している可能性が高いわけです。 ただし、原始地球のような状態かもしれません。 人間のような高等生物が生存している可能性となりますと、かなり限定的となるようです。 それでもゼロでなければ生存している可能性があります。 そうなりますとUFOがすでに飛来してきているのかもしれません。 OCNがかつて行った「UFOを信じますか?」というアンケート調査では約35%の人が存在を肯定していました。 これまで、確たる証拠がないですので、存在も、飛来も確定的ではありません。 (ドアノブ) ■■ ■ 住宅デー 全国建設労働組合総連合が、住宅建設ブームで悪質業者が多く、信用回復のために1978年に制定しました。 この日は、スペインの偉大なる建築家である、アントニオ・ガウディが1852年に誕生しました。 ガウディ(1852年6月25日 - 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家で、19世紀から20世紀にかけて盛んになった「モデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期」のバルセロナを中心に活動しました。 サグラダ・ファミリアの建設で有名です。グエル公園(1900-14)、カサ・ミラ(1906-10)をはじめ、一覧のガウディ作品群として、1984年にユネスコの世界遺産に登録されました。 「サグラダ・ファミリア」は、日本語では「聖家族教会」ですが「聖家族贖罪教会」という意味の正式名称を持っています。 1882年3月19日に着工しましたが、途中財政難などもありましたが、1926年に亡くなるまでライフワークとしその設計・建築に取り組みました ■ 天覧試合
1959(昭和34)年6月25日、昭和天皇が皇后陛下とともに巨人対阪神戦をご覧になりました。いわゆる「天覧試合」です。
後楽園球場の熱気は今でも記憶に鮮やかです。4対4の同点で迎えた9回裏のことです。ジャイアンツの背番号3を背に掲げた長嶋選手が、タイガースの村山投手から放ったのはサヨナラホームランでした。 はじめてプロ野球をご覧になった天皇皇后両陛下の眼前で、このようなパフォーマンスができる長島選手のスター性にはシャッポを脱ぎます。 今日、インターネットやテレビなどのマスコミを巧みに利用して知名度を上げている人が多数います。その力は高く評価をしなければなりませんが、パフォーマンスだけで評価される世の中のあり方には疑問を持ちます。 年末恒例の紅白歌合戦を見ていて、「これがプロの歌手なのだろうか?」と首を傾げたくなることがしばしばです。プロがプロではなく、ルックスやパフォーマンス、何らかの好機だけで脚光を浴びることが多いようです。
それを嫉むわけではないですが、経営コンサルタントの世界には実力もあり、仕事も熱心で、成果を上げている先生がたくさんいます。残念ながら彼らには脚光を浴びる機会がないというだけで知名度が低いままです。
住む世界が違うのですからやむを得ないのかも知れませんが、彼らが評価される機会を作りたいと私も影ながら協力しています。力不足で、なかなか成果に結びついていませんが、「真の力」を見抜ける人とともにやって行きたいと思っています。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 満誉寂 【経営コンサルタントの独り言】 ■ 野球とイメージ力のトレーニング 2020年の東京オリンピック・パラリンピックの種目に野球・ソフトボールが加わりました。 近年は、サッカーに押され気味の少年野球ですが、このままでは野球は先細りのような懸念もあります。 アメリカのメジャーリーグは盛んなようですので、日本の優秀な選手は皆海外に行ってしまうのでしょうか? 私達が子供の頃は、ちょと広めの道に、数人が集まって野球のまねごとをしていました。 当時は、自宅にTVがある家はほとんどありませんでしたので、ラジオにしがみついて放送を聴いたりしました。 子供では、なかなかシチュエーションをイメージすることは難しかったのですが、一所懸命に状況を想像しながら見ました。 それが、理解力やイメージ力のトレーニングになっていたのかもしれません。 【きょうの人】 ■ 鑑真 がんじん、旧字体: 鑑眞 688年〈持統天皇2年〉- 763年6月25日〈天平宝字7年5月6日〉 奈良時代の帰化僧で、日本における律宗の開祖。俗姓は淳于です。 唐の揚州江陽県の生まれ、14歳で智満について得度し、大雲寺に住むことになりました。 18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年、弘景について登壇受具し律宗・天台宗を学びました。 鑑真が学んだ律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派です。 鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされています。 揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請されました。 鑑真は、荒天などで六回の渡海を試み、ようやく日本にたどり着きました。 最初の渡海は、743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放されました。その後は、荒天などに阻まれました。 天平勝宝5年12月26日(754年1月23日)、ようやく大宰府に到着しました。 鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、天平勝宝6年2月4日に、平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受けました。 孝謙天皇の勅により、戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなりました。 聖武天皇より伝法大法師位を賜り、常設の東大寺戒壇院が、大仏殿のそばに建立されました。 その後、天平宝字5年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていくことになりました。 その後、伽藍を建立し、唐律招提案を賜い、日本の戒律宗の祖師となりました。76歳でこの世を去りました。 ■■ 【今日は何の日】 6月26日 ■ 国連憲章調印記念日 国際連合憲章(こくさいれんごうけんしょう、Charter of the United Nations)は、国際連合の設立根拠となる条約で、略称はUN Charterと呼ばれます。 1944年、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国の政府代表が、ワシントンD.C.郊外の、ダンバートン・オークスで会議を開き(ダンバートン・オークス会議)、憲章の原案となる「一般的国際機構設立に関する提案」を作成しました。 1945年6月26日にサンフランシスコ会議において、51ヶ国により署名されました。この日を記念して「国連憲章調印記念日」が制定されました。 1945年10月24日には、ソ連の批准により、安保理常任理事国5ヶ国とその他の署名国の過半数の批准書が揃い、第110条により効力が発生しました。 1973年9月までに3回の改正を経ていますが、以降は改正されていません。 ■ 露天風呂の日
6月26日は「露天風呂の日」です。「露天」の「ろ」から「6」をとり、「風呂」から「ふ=2」「ろ=6」をとり、「6・26」「6・てん・ふろ」となったそうです。はじめは少々無理があると思っていたら、ブログ読者が、この表記を教えてくれました。ブログ読者というのはありがたいものですね。
岡山県の湯原温泉が1987(昭和62)年に制定したものです。 毎月26日は、上記の語呂合わせで「風呂の日」です。
日本人は、風呂好きと言われますが、裸で入るのは日本くらいではないでしょうか。裸の付き合いという表現もあり、一緒に温泉に入った人とは親近感を持続できますね。酒飲み同士がつるむような感覚でしょうか?(下戸ですのでよく解りません)
アメリカでお金持ちの家に招待されたことがあります。小さいながらもプールがあり、その隣にジャグジーがありました。温泉気分とは言えませんが、アメリカ風の露天風呂と思えば気分も良いものです。
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■ 【今日は何の日】その他
◇ 国連憲章調印記念日
【経営コンサルタントの独り言】 ■ いい湯だな~~ 露天風呂に浸かってのんびりと 日本人は温泉好きで知られていますが、ヨーロッパでも温泉があり、日本の湯治に似ているようです。 病気治癒のための施設があり、そこにはお医者さんもいます。 ローマ風呂は、日本の温泉地にも時々見かけますように、ローマ人は風呂好きだったようですね。 最近は、海外からもお客さんが来るようになってきました。 長い髪を温泉の湯につけたり、洗い水を飛ばしたり、タオルを湯船につけたりとマナー違反も多いようです。 【きょうの人】 ■ 山川健次郎 没 やまかわ けんじろう 1854年9月9日(嘉永7年閏7月17日)- 1931年(昭和6年)6月26日 明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者であり、教育者でもあります。男爵の爵位を持っていました。 会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。 会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。 少年期に、白虎隊に入隊していたの時の経験を元に著した、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た『会津戊辰戦史』はM死後の昭和7年(1932年)に出版されました。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本です。 会津藩に対する忠誠心は、壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛けたという逸話もあります。 「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていますが、定かではありません。しかし、明治4年(1871年)に、国費留学生としてアメリカに向かう船中で、カレーライスを食べたという記述が回想録に書き残されています。しかし、カレーライスを選んだのは、それが唯一米を使った料理でしたからで、カレーはすべて残したといわれています。 ■ 木戸 孝允 生誕 きど たかよし/きどこういん 天保4年6月26日(1833年8月11日)- 明治10年(1877年)5月26日) 長州藩の武士、明治政府の政治家等で、桂小五郎(かつら こごろう)ともいいます。明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人です。 長州藩内の尊王攘夷派(長州正義派)の指導者で、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、藩庁政務座の最高責任者として活動しました。 特に志士時代には、幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けました。鞍馬天狗の話の中にも、桂小五郎として登場します。 維新後、総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けました。 文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に努め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えました。 海外視察も行い、帰朝後は、かねて建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に努め、一層の士族授産を推進しました。 長州藩主・毛利敬親や明治天皇から厚い信頼をうけました。 一方で、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治政府の中にあって、心身を害するほど精神的苦悩が絶えませんでした。 西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となり、夢の中でも西郷隆盛を叱責するほどに政府と西郷双方の行く末を案じながら息を引き取ったといわれています。 ■ 松平 乗保 江戸時代中期から後期にかけての大名・老中 まつだいら のりやす 寛延元年(1748年)-文政9年6月26日(1826年7月30日) 江戸時代中期から後期にかけての大名・老中で、美濃国岩村藩主で従四位下・侍従の官位を賜っています。 丹波国福知山藩5代藩主・朽木玄綱の八男として誕生しましたが、先代藩主・松平乗薀の長男の乗国、次男の乗遠がいずれも早世し、玄綱が初代藩主・乗紀の息子であったことから養子に迎えられ、養父の隠居により家督を相続しました。奏者番、若年寄、大坂城代、西丸老中などを歴任しました。 1826年(文政9年) 6月26日に、老中在職のまま死去しました。享年78歳でした。 ■ 最澄(伝教大師) さいちょう、でんぎょうだいし 神護景雲元年(767年)8月18日-弘仁13年6月4日(822年6月26日) 平安時代の僧で、天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られています。 生地は、近江国滋賀郡古市郷(現:滋賀県大津市・坂本)で、生源寺で、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)です。 生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在します。 十二歳で比叡山に登り、研究修行を積みました。 延暦23年に空海と共に、中国に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて天台宗の開祖となりました。 なお、最澄に唱える言葉は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」です。 ■ ちらし寿司の日 卵焼きなどの調理用食材を製造販売する広島県の株式会社あじかんが制定しました。 岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれるきっかけとなった備前岡山藩主・池田光政の命日を選んで、設定されています。 ちらし寿司は、酢飯に多種類の具材を合わせて作る寿司の一種であることは一般的です。 語源は文字通り寿司飯の中、あるいは上に様々な具を「散らす」という意味で、単に「ちらし」と呼ばれる事もあります。 江戸前寿司においては、白い酢飯の上に、にぎり寿司に用いる寿司種を並べたものを指します。 関東周辺以外の地域では一般に、酢飯に調味した具材を混ぜ込み、錦糸卵や海苔などで飾り付けを施したものをちらし寿司というそうです。 酢飯の中に何も混ざっていないのが「ちらし寿司」、酢飯に様々な具材を混ぜたものが「五目寿司」と、私達は区別しています。 発祥は、鎌倉時代に起源を持つとされる「五目ちらし寿司」のほうが古く、「江戸前のちらし寿司」は江戸時代後期に寿司職人の賄い飯として誕生したと言われています。(【Wikipedia】を基に作成) ■ 演説の日
1874(明治7)年6月27日に、慶応義塾大学の三田演説館で日本初の演説会が行われたのを記念して、この日が「演説の日」と制定されました。三田の慶応大学をはじめて訪問したときに、南校舎と煉瓦校舎の間に古びた建物があるなと思って見たらそれが演説館でした
学問のすすめで知られる福沢諭吉翁が、慶應義塾を創設したことはよく知られています。海外の状況を説明するために、今日使われているいろいろな言葉を翁が作りました。 その一つが「演説」という言葉と言われています。上述の日の演説で翁は「日本が欧米と対等の立場に立つ為には演説の力を附けることが必要」と説いたそうです。
アメリカでは子供の頃からディベート訓練で、他の人と対等にやり合える力を身につけます。日本が外交に弱いのは、このような訓練を受けず、「あうんの呼吸」とか「ツーと言えばカー」というように以心伝心をモットーとしているからでしょうか。
グローバルな時代、演説力をはじめ、ロジカル・シンキングなどなどいろいろなことを子供の頃から身につけておくことは必要な気がします。
手前味噌で嫌われそうですが、「ロジカル・シンキングがよ~くわかる本」(秀和システム)は、弊著のひとつです。
■ 【今日は何の日】その他
◇ 宗頤(そうい)寂
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 話力はコミュニケーションを助ける 経営コンサルタントを永年やってきていますが、人前で話すというのは難しいことであるといまだに感じています。 誰かを誉めるとします。 ところが、それが別の人を否定したり、低く見たりしてしまう現象が起こります。 ある講演会で、成功事例として、ある村が産直で成功していることをお話しました。 ところが、その会場にJAの人が来ていたことを後になって知ったのです。 産直というのはJAを介さないでビジネスをすることになり、JA不要ということを暗に言っていることになるのです。 講演テーマと内容のミスマッチというのは、他のコンサルタントの話を聞いていますとしばしば感じます。 具体性ある事例と、その裏付けとをお話しますと、結構良い反応が返ってきます。 具体的な事例は、プロコンサルタントであればいろいろと持っているでしょうが、それに対して、どうするとベターで、どの様にすると、どの様な懸念があるかなど、事例を参考にしようという聴講者の気持ちを無視すると失敗してしまいます。 「教えてあげよう」という姿勢も嫌われます。「上から目線」で話しているつもりはなくても、その様な気持ちがあると聴講者は敏感に感じ取るものです。 配慮に配慮を重ね、誠意を持ってお話するように努力をしています。 【きょうの人】 ■ 伊達 政宗 だて まさむね 永禄10年8月3日(1567年9月5日、グレゴリオ暦1567年9月15日)-寛永13年5月24日(1636年6月27日) 出羽国と陸奥国の戦国大名で、伊達氏の第17代当主です。近世大名としては仙台藩の初代藩主です。 幼名が梵天丸であることはよく知られています。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、「独眼竜」の異名があります。没後は、法名から貞山公と尊称されています。 天正17年11月、後北条氏が真田領へ侵攻したことにより、豊臣氏により征伐が行われることになりました。政宗は父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にありましたので、再三の、秀吉からの督促にもかかわらず、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべきか、直前まで迷っていたといいます。 最終的には、秀吉に恭順の意を示すのですが、その際に、白装束(死人の装束)で臨んだことは有名です。 秀吉・文禄の役では、派手な装いで軍を引き連れ、そのことから派手好みに着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになりました。今日の「伊達男」に通じます。 ■ パフェの日 パテシエが作るケーキのことかと思いましたら、違いました。 1950年6月28日に、巨人の藤本英雄投手が、日本プロ野球史上初のパーフェクトゲーム(完全試合)を達成したことに因んで、「パフェ(parfait)」がフランス語で「完全な(パーフェクト)」という意味であることから命名、制定されました。 完全試合とは、野球やソフトボールの試合における記録のひとつで、相手チームの打者を一度も出塁させずに勝利することです。 全ての打者を凡退させる必要があるのですから、ヒットだけではなく、四死球や失策なども許されないのですから厳しいですね。 よく似た言葉に、ノーヒットノーランがあります。四死球や失策などで出塁を許しながらも無安打無失点に抑えた場合はノーヒットノーランと呼ばれます。ヒットで出塁を許しても一人も生還させなかった場合を「完封試合」といいます。 金田とか槙原など著名な投手が達成していますが、あまり馴染みのない人もいます。日本では、20人に達していないのですね。 ■ 貿易記念日
6月28日は「貿易記念日」です。1963(昭和38)年に通商産業省(現在の経済産業省)が制定しました。
江戸幕府が英仏露蘭米の五か国に、横浜・長崎・箱館(函館)での自由貿易を許可する布告を出したのが、1859(安政6)年のこの日だったのです。
江戸時代の輸出品というと銀がその代表的なものです。それ以外に硫黄や銅などがありますが、マッチや醤油という変わりダネもあります。
因みに輸入品としては生糸や絹織物があります。明治新政府が殖産振興策として織物に力を入れたのは、その影響からではないでしょうか。
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 貿易立国として成長してきた日本 小学生の頃の社会科の授業で「加工貿易」という言葉を学びました。 資源に乏しい日本は、資源を輸入し、豊富な労働力で加工して製品を輸出することで外貨を稼ぎ、資源や必要な物資を輸入するのだと教えられました。 要は、付加価値を付けて輸出をするということに換言できます。 当時は「時計のように少ない材料で値段が取れる商品」がその代表例でした。 「安かろう、悪かろう」と悪口をいわれながらも貿易という業務に私も従事して、我武者羅に働いてきました。 2017年は、安倍首相が働き方改革を叫んだ年です。 「働き方改革」という言葉に違和感を覚えながら、労働環境の改善の必要性を思います。 一方、仕事の質やそれに対する対価は、必ずしも正当に評価をされているとは言えないと考えます。 【きょうの人】 ■ 林 芙美子 (はやし ふみこ) 1903年12月31日 - 1951年6月28日(47歳没) 山口県下関市、福岡県門司市に生まれた小説家・随筆家で、代表作に『放浪記』(1930年)や『清貧の書』(1933年)があり、1948年には「女流文学者賞」を受賞しています。 物心ついた小学生時代に、貧しかい生い立ちを経験しています。そこから感じ取った、底辺の庶民を慈しむように描いた作品は、読者の心を捉えるところが多々あります。 文壇に登場したころは「貧乏を売り物にする素人小説家」と揶揄されました。日中戦争から太平洋戦争にかけては「軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家」など、批判の的となりました。 しかし、戦後、「戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」といわれる、それまでとは異なる見方をされるようになりました。 NHKの朝の連続TV小説「うず潮」で、多くの人に一層親しまれるようになりました。 ■ 佃煮の日 全国調理食品工業協同組合が2004年に制定しました。 佃煮の発祥の地である東京・佃島の氏神・住吉神社が創建されたのが正保3(1646)年6月29日であることから、この日が選ばれました。 佃煮(つくだに)とは、醤油と砂糖で甘辛く煮付けた日本人が好む伝統的な食べ物です。 小魚、アサリなどの貝類、昆布等の海藻類、山地ではイナゴ等の昆虫類などを煮染めたものです。 味のアクセントとして、山椒、シソやゴマ、柑橘類などが加わりますと、また別の味になります。 佃煮は東京だけではなく、全国的にもいろいろと地方色豊かな佃煮があります。 大阪の釘煮は、毎年のように娘婿の実家から送ってくれます。家庭毎に、味が異なると聞いています。 小豆島は、醤油の産地でもあることから、佃煮でも有名です。特に昆布の佃煮が全国一というほど佃煮産業が地場産業として定着しています。 日露戦争で広島が陸軍の橋頭堡となった事から軍需に支えられていたという佃煮も知られています。 【カシャリ! ひとり旅】の楽しみは、訪れる地だけではなく、そこの漬物や佃煮など、その地方の味を、その地で食べるのが醍醐味の一つです。 ■ 聖ペテロの祝日 6月29日は、「聖ペテロの祝日」です。聖ペテロ(サン・ピエトロ)は、イエス・キリストの弟子で、イエスの死後は使徒たちのリーダーとなったひとです。 サン・ピエトロ大聖堂は、バチカン市国にあるカトリック教会総本山です。ローマの地下鉄で私が行った日は、非常に暑い日でした。大聖堂には、聖ペテロの像があります。この像は13世紀のアルノルフォ・ディ・カンビオの作とされてきましたが、近年はさらに遡り、4世紀にシリアの無名の作家が作ったものという説が有力だそうです。 この像を礼拝する人は、像の足に口づけをするのですが、わたくしにはとてもできそうもありませんでした。信仰の力というのは偉大だとその時に思ったことを思い出します。 聖ペテロ像 ←クリック ■ 【今日は何の日】その他
◇ 貞厳忌 【きょうの人】 ■ 瀧 廉太郎忌
たき れんたろう 1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日 日本の音楽家、作曲家で、明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人です。一般的には「瀧」は「滝」と表記されることも多く、「荒城の月」という名曲と共に、日本人には親しまれています。 父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ、大久保利通や伊藤博文らのもとで内務官僚として勤めた後、地方官として神奈川県や大分県竹田市などを移り住んだため、廉太郎も生後間もなくから各地を回ることになりました。竹田は、荒城の月を生んだ地と言われています。 作曲とピアノ演奏でめきめきと才能を伸ばし、「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」など、私達に馴染み深い童謡作品を多数作っています。 ■ 国木田 独歩 くにきだ どっぽ 1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日) 日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者で、千葉県銚子に生まれ、広島県や山口県で幼少期を過ごしました。 幼名を亀吉、後に哲夫と改名し、筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがあります。 田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表しました。詩や小説を書いている中で、次第に小説に専心するようになります。 「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる作家です。 現在も発刊されています雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されています。 夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していました。 私は、東京の郊外で育ちましたが、独歩の代表作「武蔵野」には、そのころの風景が、この小説の中で描かれているのを実感します。 【経営コンサルタントの独り言】 ■ 聖ペテロの祝日にキリスト教をかじる 『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』によればペトロはガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。 『ルカによる福音書』ではイエスとの出会いはゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうイエスが彼の船を使った時とされる。(【Wikipedia】) 私達日本人の多くはキリスト教についてあまり知識を持っていないと言えます。 ペテロは、キリスト教徒にとっては重要な人物のようです。 イエスの最初の弟子と言われるので、当然のことでしょう。 ペテロは、いろいろな宗教画家によっても題材として選ばれていますね。 ルーベンスのペテロは、とりわけ印象が深いです。 ■ トランジスタの日
1948(昭和23)年6月30日に、アメリカのAT&Tベル研究所のウィリアム・ショックレーほかが発明したトランジスタを公開しました。これを記念して、この日を「トランジスタの日」と呼びます。
トランジスタは、IT時代の到来を導く、第一歩です。それまで狩猟であった真空管に代わり、半導体を用いて電気信号を増幅・発振させるために使われるようになりました。当時、ソニーの小型トランジスタラジオが、それまでになかった「もちあるき」という今日の音楽プレーヤーの先駆けのような商品を作りました。
フランスのドゴール首相が、池田勇人総理大臣を「トランジスタの商人」と揶揄するほど、池田は日本技術の先進性を強調しました。小型・軽量・長寿命で消費電力が小さい等の利点を活かした商品だったのです。後に「軽薄短小」という日本技術の象徴的な言葉にも繋がりました。
因みに、日本で最初にオールトランジスタで動いた電卓を作ったのはどのメーカーかご存知ですか?ドクター中松とそのお仲間はキャノンといっています。カシオという人もいますし、シャープであるという人もいます。
多分、「内田洋行である」と言ったら誰もが信じないでしょう。「だって、内田洋行と言えば商社でしょ」という声がかえってくるでしょう。ただし、商品化して大々的に発売をしたのは上記の3社のいずれかでした。
■ 大祓、夏越(なごし) 一年が半年経過した、前半の最終日にあたる6月30日、月の晦日(みそか)に行う大祓(おおはらい、おおはらえ)のことです。
大祓(おおはらえ)は、6月と12月の晦日に行われる行事で、半年間に犯した罪や穢れを除き去るための祓えの除災行事です。
6月は「夏越の祓(なごしのはらえ)」、12月は「年越の祓(としこしのはらえ)」と言います。
「夏越」は「名越」とも標記されますが、各地で「茅の輪(ちのわ)くぐり」が行われます。
なぜ正月なのかわかりませんが、神社をお詣りすると「茅の輪」を見かけると思います。
【Yahoo!百科事典】
大祓の初見は『古事記』に仲哀(ちゅうあい)天皇が崩御のとき国の大祓をしたことがみえ、制度としては大宝令(たいほうりょう)(現存のものは養老令)に始まり、令の施行細則である『延喜式(えんぎしき)』、それに『儀式』『北山抄(ほくざんしょう)』『江家次第(ごうけしだい)』その他の文献によって、上代の大祓式をうかがうことができる。神祇令(じんぎりょう)によると、宮廷の大祓は、6月と12月の晦日に、中臣(なかとみ)が祓の麻(ぬさ)を、東西(やまとかわち)の文部(ふびとべ)が祓の刀(たち)(罪穢を断つ義)を奉り、祓所(多くは朱雀(すざく)門)にて、中臣が百官の男女に大祓詞を宣り下し、卜部(うらべ)が解除(はらえ)をした。その宣読文(せんどくぶん)は『延喜式』巻8にみえる。中臣が宣読したものは中臣祭文(さいもん)ともいわれ、現在の大祓詞はこれを一部改訂したものである。 ■ 【今日は何の日】その他
◇ 善光寺大念佛会 ◇ 賀茂神社名越神事
【経営コンサルタントの独り言】 ■ 真空管ラジオの想ひ出 子供の頃、同級生が三球スーパーのラジオを作ったということを聞き、なぜが自分も作って見たくなりました。 まずは、鉱石ラジオを作ることから始めましたが、あまりにも簡単すぎて一挙に四球スーパーに挑戦しようと秋葉原に行ってキットを買ってきました。 図面を引く知識も計算力もなかったので、最短コースと考えたのです。 しかし、キットに付いていた図面と、キット内容が異なっていました。 付け焼き刃の知識で組立、ようやく完成。 後は電源を入れるだけ。 電源投入!! ・ ・ ボッ 一瞬光って、一巻の終わり 叔父が手伝ってくれてというより、叔父が自分で作ってくれたようなものですが、完成。 当時、ラジオのステレオ放送が始まった頃でしたので、二台のラジオを並べて音楽をステレオで聴くことができるようになりました。 【きょうの人】 ■ 黒田 清輝 くろだ せいき 1866年8月9日(慶応2年6月29日)- 1924年(大正13年)7月15日 日本を代表する洋画家で、晩年は貴族院議員として活躍した政治家でもあります。従三位、勲二等を授与されている子爵です。 通称は、新太郎(しんたろう)で、名の清輝は、本名は「きよてる」ですが、画名は「せいき」と読みます。 東京美術学校教授や帝国美術院院長も務めています。 日本に、洋画を普及させた功績は大きく、『湖畔』(1897年)は、黒田の代表作中の代表作品です。『裸体婦人像』(1901年)では、「腰巻事件」を起こす契機となった作品です。その延長線上の作品として『智・感・情(1899年)』という連作があります。これは東京国立博物館黒田記念館の所蔵で、重要文化財として認定されています。 日本画主流の世界に、洋画を紹介するということは、流れとは異なる状況に、さおを差すことになります。その反動は大きかったのではないでしょうか。 先駆者として、ビジネスの世界で何かことを始めることはむつかしいことです。それができる人が、いてこそ、生活が便利になったり、大きな会社に成長したりという変化も得られるのですね。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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