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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

 

35年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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 今日の写真  3月20日
 
 【今日の写真】早春の京都 詩仙堂

 史跡「詩仙堂 丈山寺」 ご本尊は「馬郎婦観音(めろうふかんのん)」です。冠を戴き、両手を前にやわらかく組んだ婦女身の観音である。

 中国、唐の時代、憲宗元和四年(809年)、長安の西に位置する鳳翔地方では、教養として古から伝えられてきた、六芸の中の馬術と弓術の修練に、若者達は日々余念がなかった。その頃、外来思想の仏教がこの地にも浸透しつつあったが、若者達は仏教が説く三宝(仏・法・僧)に耳を傾けようとせず、むしろ蔑視さえしていた。(詩仙堂ウェブサイトより)

今日は何の日    3月20日

■ 春分の日、彼岸中日 (年により日にちが変更)

 春の彼岸の中日を「春分の日」と言います。今日は、太陽が真西に没するので、西方浄土の仏教の教えにむすびつき、多くの人が先祖供養をします。おはぎなどを仏壇にお供えしたり、墓参りをしたりする方が多いでしょう。

 春分の日は「昼と夜の長さが同じになる」といわれますが、実際は昼の方が長いことはよく知られています。

Wikipedia

 春分(しゅんぶん)は、二十四節気の第4二月中(旧暦2月内)。

 現在広まっている定気法では、太陽春分点を通過した瞬間、すなわち太陽黄経0度となったときで、3月21ごろ。ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とし、日のほうは春分日(しゅんぶんび)と呼ぶ。恒気法では冬至から1/4年(約91.31日)後で3月23ごろ。

 期間としての意味もあり、この日から、次の節気の清明前日までである。

西洋占星術では春分を白羊宮おひつじ座)の始まりとする。

■ 電卓の日

 3月20日は「電卓の日」です。

 日本事務機械工業会(現 ビジネス機械・情報システム産業協会)が1974(昭和49)年に、日本の電卓生産数が世界一になったことを記念して制定しました。

 国産初の電卓は、1964(昭和39)年にシャープから発売されました。

 それ以後、多くのメーカーがこの市場に参入し、軽薄短小の競争を繰り返し、遂にシャープとカシオの2社だけが残ることになりました。

 因みに、日本で最初にオールトランジスタで動いた電卓を作ったのはどのメーカーかご存知ですか?ドクター中松とそのお仲間はキャノンといっています。カシオという人もいますし、シャープであるという人もいます。

 多分、「内田洋行である」と言ったら誰もが信じないでしょう。「だって、内田洋行と言えば商社でしょ」という声がかえってくるでしょう。ただし、商品化したのは上記の3社のいずれかでした。

  図  ビジネス機械・情報システム産業協会 ←クリック


■ その他
◇ 上野動物園開園記念日
◇ 動物愛護デー

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■ 上杉景勝 1623年3月20日)は、NHK大河ドラマでも採り上げられた、安土桃山時代から江戸時代の大名である上杉景勝(1556年1月8日誕生)の没日です。

Wikipedia

 上杉 景勝(うえすぎ かげかつ) / 長尾 顕景(ながお あきかげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目で、上杉宗家(重房を初代として)17代目。
 本姓は平氏、後に藤原氏、豊臣氏を経て藤原氏となる。家系は桓武平氏の血を引く長尾氏の生まれで、叔父・上杉謙信の養子となり上杉氏となる。

■ 斎藤道三 油商人から戦国武将に

 さいとう どうさん
 明応3年〈1494年?〉-弘治2年4月20日〈1556年5月28日〉
 斎藤 利政( さいとう としまさ)
 戦国時代の武将、美濃の戦国大名、道三流斎藤氏初代当主。

 名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるほど、いろいろな顔を持つ人だったようです。山岡荘八「織田信長」などの小説の影響で、「美濃の蝮」「マムシの道三」などという綽名でも知られています。ただし、この異名は同時代の資料には一切記録されていないそうですから、小説による創作といえます。
 生誕年月日・地についても諸説あります。『美濃国諸旧記』によりますと先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたと伝わっています。
 油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとり、油商人となりました。「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種の人目を引く行為などで頭角を現します。
 1538年に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継ぎ、斎藤新九郎秀龍(ひでたつ)と名乗り、のち斎藤新九郎利政と改名しました。1541年に主君とその子を尾張へ追放して美濃国主となりました。
 信長の父・織田信秀の稲葉城攻めを受け、和議を結び、その証しとして1548年、娘の帰蝶を信長に嫁がせたことはよく知られています。
 1554年、道三は家督を嫡男・斎藤義龍に譲り、自分は出家して「道三」と名乗るようになります。道三は、義龍よりも、2人の弟らを偏愛したりし、義龍との間がこじれました。義龍は、弟たちを殺害し、道三に対し挙兵し、道三は討ち取られました。

◆斎藤道三の失敗から学ぶ
 かつてある若い経営者から質問を受けたことがあります。彼の会社に近い業態の企業が倒産してしまいました。なぜ倒産してしまったのか、その原因を教えて欲しいと言う質問でした。
 あまりにも安易に答えを求める、その姿勢が気に入りませんでしたが、成功事例を聞こうとするのではなく、失敗事例から学ぼうという、彼のその姿勢には共感を覚えました。後に、その経営者はわたくしのクライアントとなりました。クライアントとなってからもいろいろと質問をして来る事が多かったのですが、私はあまり直接的な答をすることをしませんでした。
 彼は、私とのやりとりのやり方を次第に学び、彼は部下にもあまり答えを言わず、部下に考えさせるようになりました。しかも、成功事例よりはむしろ自分の失敗談などを社員に話すようになりました。成功事例から学ぶことも多いですが、私たちは、むしろ失敗事例から学ぶことが多いような気がします。
 歴史から学ぶという言葉を聞きますが、歴史から学ぶ時に、成功事例よりもむしろ失敗事例から学ぶことの方が多いように思えます。歴史上、名将と呼ばれるような人たちも、いろいろな失敗をしてきました。そこから学ぶことは現代の私たちの経営にも繋がることが多いのです。
 例えば「まむしの道三」と言われた戦国時代の名将がいます。道三は息子の義龍に家督を譲ります。しかし、家督を譲ったにもかかわらずいろいろと道三が口出しをしたり、義龍をバカにするような発言があったりしたため、義龍は道三と仲違いをすることになりました。
 その結果、道三は、息子義龍と戦をすることになりました。家来達は、当主となっている義龍に味方するものが多く、最後には道三が破れてしまいます。
 道三の失敗の原因として考えられることは、道三が、義龍を息子として見て、頼りなく思い、過小評価しすぎていたからではないでしょうか。
 経営者は、自分の社員の評価を適切に行えなければなりません。社員の良いところを正しく評価して、働いていただかないと、社員は能力を充分に発揮することはできません。

 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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