40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
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4月8日 | |
■【今日の写真】 春の京都 曼殊院 霧島ツツジの庭園 |
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曼殊院 カシャリ!ひとり旅 京都府 | |
【Wikipedia】 曼殊院を東山山麓の現在地に移し、寺観を整えたのは29世門主の良尚法親王であった(法親王とは皇族男子で出家後に親王宣下を受けた者の称である)。 曼殊院の現在地への移転は明暦2年(1656年)のことで、現存する大書院(本堂)、小書院などはこの時のものである。この地は曼殊院と同じく比叡山の小坊の1つで慶滋保胤らによって勧学会が開かれたものの後に廃絶した月林寺の跡地であったと言われている。 |
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4月8日 | |
■ 花祭り、灌仏会 潅仏会が開催される諸寺院では、本堂の入□や、山門に、種々な花で屋根を飾った「花御堂」に右手を高く挙げた半裸の釈迦像を置いて甘茶をかけます。子供の頃には、うすい甘茶をもらったものです。近所の伝通院の甘茶は、結構おいしいので評判です。 |
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■ 日本版ライドシェア解禁 国土交通省は、2024年4月4日より一般ドライバーが自家用車を使い、有料で乗客を運ぶことができる、いわゆる「日本版ライドシェア」のサービスを解禁しました。 まず東京都から始まり、タクシーが足りない地域、時間帯に限って、全国各地に展開。国交大臣などを招いて、東京ハイヤー・タクシー協会が出発式を開催。 だれもが実施できるわけではなく、タクシー会社が実施主体となり、国が許可された者に限定。東京23区や武蔵野市、三鷹市からなる営業区域「特別区・武三」は月〜金曜の午前7〜10時台で上限各1780台、土曜の午前0〜4時台で上限2540台などと設定されました。 ■ 日立風流物(ひたちふうりゅうもの/ひたちふりゅうもの) 茨城県日立市に伝わる民俗文化財で、神峰神社に伝わる可動・変形する大きな山車と、その上で行われる操り人形(からくり人形)芝居のことです。毎年4月の第2土曜・日曜に開催される「日立さくらまつり」で公開されます。 祭礼としての日立風流物は、国の重要無形民俗文化財に登録されていますし、ユネスコ無形文化遺産の代表リストにも載っています。この時に使われる山車の1基は、国の重要有形民俗文化財に指定されています。 同一の行事で、国の重要有形民俗文化財と重要無形民俗文化財の両方に指定されているものは全国でも組のみで、その内の1つとなっています。 古くは宮田風流物とよばれ、1695年(元禄8年)徳川光圀の命により行われた神峰神社の大祭礼に山車が繰り出されたことに始まります。 享保年間(1716〜1736年) に人形芝居が加えられ、今日のからくり仕掛けの山車に発展しました。 登録されている山車は、高さ15m、幅3-8m、奥行7m、重量5tの巨大なからくり式のものです。操作は全て山車内部の綱によって行われ、同じく山車内部で演奏されるお囃子にあわせて演じられます。 日本の伝統文化を代表するひとつといえます。 |
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■ その他 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ■ 花祭りに思うスパーシタの一文 4月8日は花祭りですが、子供の頃、お寺さんへ行って、あまりおいしくもない、薄められた甘茶を振る舞ってもらいました。 われわれの生活というのは、直接間接を問わず、仏教徒の関連はいろいろあります。 反省の契機となることもあり、多くの学びがあると考えています。 仏教の名言集とも言えます「スパーシタ」の一文に次のようなことがあります。 本の中にある知識は 他人の手中にある財産と同じように いざというときに 役に立たない 近年、ネットで検索するとすぐにいろいろな情報を検索することができます。 そのために、何か自分が物知りになったような錯覚をしているのは私だけでしょうか? 上述の「スパーシタ」をキーワードにネットで検索したら、一件だけ引っかかってきました。 ネット検索で一件だけというのは、異例中の異例ですね。 「開眼供養」は、「軽減法要」とか「入魂式」、「魂入れ」とも呼ばれます。 仏像や仏画、われわれの身近なところでは仏壇とかお墓などができたときに、魂を入れる儀式です。 有名なのは、聖武上皇による東大寺大仏殿の開眼供養です。 天竺から唐を経て日本に来た僧侶「菩提僊那(ぼだいせんな)」が大仏の眼を入れたと伝わっています。 五色の紐で集まった人々を繋げて、「ご利益(りやく)」が行き渡るようにする儀式は、今日でも行われます。 |
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■ 釈迦 |
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■ 祐天上人(明蓮社顕誉) 生誕 ゆうてん 寛永14年4月8日(1637年5月31日)- 享保3年7月15日(1718年8月11日) 浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師、字は愚心、号は明蓮社顕誉です。 徳川五代将軍綱吉の命により正実大厳寺に住み、飯沼広経寺や、東京小石川の伝通院を経て、増上寺に住し、三六世の法席を継ぎます。 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説があるほどです。 祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まりました。 その後、当時盛んだった説教節や、18世紀半ばになって書かれた『祐天大僧正御伝記』などの伝記の中で祐天の除霊譚は地蔵菩薩の化身として語られ、後々まで庶民の間で信じられてきました。 八十二才で歿しています。 |
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■ 日朗 にちろう 寛元3年4月8日(1245年5月5日)- 元応2年1月21日(1320年3月1日) 鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧で、日蓮六老僧の一人です。号は筑後房、大国阿闍梨とも称します。日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖です。下総国の出身、父は平賀有国です。 1261年(文応2年)日蓮を師として法を学び、1271年(文永8年)日蓮の流罪の際に、土牢に押込となりました。 1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回も訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡っています。但し、これは伝承で幕府の公文書である赦免状を流罪者の弟子に託すことはあり得ず、誤伝である可能性が高いといわれています。 日蓮滅後に、久遠寺の墓所にあった日蓮所持の釈迦立像を、日蓮の遺言に背き勝手に持ち去っています。 1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築きました。1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立しました。鎌倉光則寺は、1274年に、日朗を開祖として創建されました。 光則寺 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kanagawa/kanagawa-kamakura-kousokuji.htm 1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。 |
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■ 聖徳太子 |
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■ 智証大師 円珍 ちしょうだいし/えんちん 弘仁5年3月15日(814年4月8日- 寛平3年10月29日(891年12月4日) 平安時代の天台宗の僧で、天台寺門宗(寺門派)の宗祖でもあります。 法号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」で、諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)と称し、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人ですので、最澄・空海らと肩を並ぶお人なのです。 讃岐国(香川県)金倉郷に誕生しました。その地の豪族・佐伯一門のひとりで、俗姓は「」和気」といいます。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたるといわれています。 15歳で比叡山に登り、義真に師事、12年間の籠山行を終えました。 役行者を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼しました。吉野での修験道の発展に寄与することになり、承和13年(846年)には、延暦寺の学頭となりました。 仁寿3年(853年)に、新羅商人の船で唐に向かう途中で暴風に遭って台湾に漂着したいりしました。 天安2年(858年)帰国後、比叡山の山王院に住したの地、第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜りました。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上におきましても注目されることです。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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昨日 明日 | |
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