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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

 

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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 今日の写真
 
 【今日の写真】 早春の京都 詩仙堂 

 丈山は作庭にもすぐれた手腕を持ち、桂離宮、枳穀邸(渉成園)の補修には、丈山の手が加わっているといわれる。

 この庭は、後世修理が加わり、必ずしも昔のままではない。それにしても、庭の樹木の美しさと、岩を打つ滝の音、そうして僧都の叩くのどかな響きは、よく調和してこの山荘の閑寂を更に幽ならしめている。

 丈山はこの他、燕所(安息所)をはい(草冠に過)軸軒、寝室を白室、書棚を剔蚋(紙虫をえぐる意)などと名付けている。(詩仙堂ウェブサイトより)

  私が撮影した詩仙堂の写真 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_shisendou.htm

今日は何の日    3月15日
■ 世界消費者権利デー

 国際消費者機構が消費者運動の統一行動日として3月15日を「世界消費者権利デー」として制定し、1983年から実施しています。

 世界で唯一の消費者向けの情報発信の組織で、115カ国220団体で組織化されています。強力な消費者運動の展開を支援しています。

 1983年3月15日に、アメリカの故ケネディ大統領が「消費者には権利がある」との一般教書を発表したのが契機です。

 しかし、まだまだ日本ではその取り組みが不充分と言われています。


  図  国際消費者機構 ←クリック

 

■ 涅槃会

 涅槃会とは、お釈迦様の入滅の日を記念して、各地のお寺で行う法会の一つです。涅槃図を掛けて、涅槃経や遺経を読謡します。日本では、清和帝の貞観2年に奈良の興福寺で行ったのが最初だとされています。

【Wikipedia】涅槃会(ねはんえ)
 涅槃講や涅槃忌とも称し、陰暦2月15日、釈迦の入滅(にゅうめつ)の日に、日本や中国などで勤修される、釈迦の遺徳追慕と報恩のための法要である。現在では、3月15日に行なわれているところもある[1]。
 涅槃とは、ニルヴァーナの訳語であり、迷妄のなくなった心の境地を指す言葉であったが、この場合には、釈迦が亡くなったという意味で用いられている。
 実際には、釈尊が入滅した月日は不明であり、南伝仏教ではヴァイシャーカ月の満月の日(ウェーサーカ祭)と定められている。ヴァイシャーカ月が、インドの暦では第2の月であることから、中国で2月15日と定めたものである。
 法要中は、釈迦が娑羅双樹の下で涅槃に入った際の、頭を北にして西を向き右脇を下にした姿で臥し、周囲に十大弟子を始め諸菩薩、天部や獣畜、虫類などまでが嘆き悲しむさまを描いた仏涅槃図(涅槃図)を掲げ、『仏遺教経』を読誦することとなっている。仏涅槃図の絵解きを行うところもある。平安時代には、山階寺の涅槃会がとりわけ有名であり、常楽会(じょうらくえ)とも称されており、『三宝絵』の中でも「年中主要法会」の一として記されている。


■ その他
◇ 善光寺御会式
◇ 京都嵯峨釈迦堂お松明
◇ 清涼寺炬祭
◇ 大慈寺涅槃会
◇ 知証大師降誕
◇ 高野山常楽会

【経営コンサルタントの独り言】

■ 消費者の権利をどう守る


 老舗大企業の東芝が、想定外のトラブルで苦境に陥っています。

 それどころか、東芝という企業そのものが存続できるかどうかということも懸念しなければならないのかもしれません。

 社員の心中はいかばかりかと思いますと、こちらも辛くなってしまいます。


 一方、東芝商品を愛用してきた消費者の立場に目を転じますと、こちらも暗い気持ちになってしまいます。

 白物家電は、中国に売却されましたが、今後のメインテナンスはどうなるのでしょうか?

 東芝の製品を使っている人は、トラブルが発生したときに、キチンと対応してもらえるのでしょうか?

 企業に求められる「ゴーイングコンサーン(永続性)」の重要性を改めて意識しています。

 3月15日「世界消費者権利デー」にこのような思いをした人は多いのではないでしょうか。

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【きょうの人】

■ 智証大師 円珍

 ちしょうだいし/えんちん
 弘仁5年3月15日(814年4月8日- 寛平3年10月29日(891年12月4日)

 平安時代の天台宗の僧で、天台寺門宗(寺門派)の宗祖でもあります。

 法号は「南無大師智慧金剛(なむだいしちえこんごう)」で、諡号は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)と称し、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人ですので、最澄・空海らと肩を並ぶお人なのです。

 讃岐国(香川県)金倉郷に誕生しました。その地の豪族・佐伯一門のひとりで、俗姓は「」和気」といいます。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたるといわれています。

 15歳で比叡山に登り、義真に師事、12年間の籠山行を終えました。

 役行者を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼しました。吉野での修験道の発展に寄与することになり、承和13年(846年)には、延暦寺の学頭となりました。

 仁寿3年(853年)に、新羅商人の船で唐に向かう途中で暴風に遭って台湾に漂着したいりしました。

 天安2年(858年)帰国後、比叡山の山王院に住したの地、第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜りました。三井寺には、円珍が感得したとされる「黄不動」「新羅明神像」等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上におきましても注目されることです。

■ 北大路魯山人 いろいろな芸術面の顔を持つ芸術家

 きたおおじ ろさんじん
 1883年〈明治16年〉3月23日-1959年〈昭和34年〉12月21日
 本名:北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)

 篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家・美食家などの様々な顔を持つ芸術家

 1883年(明治16年)、京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂に、父親の不貞の子として生まれました。
 ある日、京都の奉公先の使い走りの最中、ある仕出し料理屋の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われました。その絵を描いたのは竹内栖鳳でした。
 養父の木版の手伝い始め、扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身につけていきます。展覧会で受賞し、それを契機に、町書家・岡本可亭(漫画家岡本一平の父、洋画家岡本太郎の祖父)の内弟子となりました。
 その後、ソウルなど当時の朝鮮内を旅し、そこで働いたり、上海に渡ったりしました。その時に、書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会う機会がありました。
 半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境ができ、敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶いました。この頃、北大路魯山人の号を使い始めます。
 その後、京都・金沢などを転々とし、食器と美食に対する見識を深めていきました。
 1925年(大正14年)に、東京・永田町の「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」の会員制高級料亭の顧問となりました。しかし、出費の多さなどから追放されてしまいます。
 戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすしますが、1946年(昭和21年)に、銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博し、知名度を上げたのです。
 1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問しています。1955年(昭和30年)には、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されたのですが辞退しています。(【Wikipedia】を基に作成)
■ 北大路魯山人 いろいろな芸術面の顔を持つ芸術家

 きたおおじ ろさんじん
 1883年〈明治16年〉3月23日-1959年〈昭和34年〉12月21日
 本名:北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)

 篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家・美食家などの様々な顔を持つ芸術家

 1883年(明治16年)、京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂に、父親の不貞の子として生まれました。
 ある日、京都の奉公先の使い走りの最中、ある仕出し料理屋の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われました。その絵を描いたのは竹内栖鳳でした。
 養父の木版の手伝い始め、扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身につけていきます。展覧会で受賞し、それを契機に、町書家・岡本可亭(漫画家岡本一平の父、洋画家岡本太郎の祖父)の内弟子となりました。
 その後、ソウルなど当時の朝鮮内を旅し、そこで働いたり、上海に渡ったりしました。その時に、書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会う機会がありました。
 半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境ができ、敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶いました。この頃、北大路魯山人の号を使い始めます。
 その後、京都・金沢などを転々とし、食器と美食に対する見識を深めていきました。
 1925年(大正14年)に、東京・永田町の「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」の会員制高級料亭の顧問となりました。しかし、出費の多さなどから追放されてしまいます。
 戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすしますが、1946年(昭和21年)に、銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博し、知名度を上げたのです。
 1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問しています。1955年(昭和30年)には、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されたのですが辞退しています。(【Wikipedia】を基に作成)

■ カエサル,ガイウス・ユリウス

 Gaius Iulius Caesar
 紀元前100年7月13日? - 紀元前44年3月15日

 シーザーとも呼ばれることは周知の通りです。

 父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar) 、母はルキウス・アウレリウス・コッタの娘アウレリア・コッタで、祖先に幾人もの執政官を輩出した名家の出身でした。

 紀元前83年、カエサルは神祇官を務めますが、この職務はパトリキという特定の人達にのみに開放されていて、婚約者がいたにもかかわらず、パトリキのキンナの娘コルネリアと結婚しました。若い頃から、野心家だったのですね。

 属州の軍に籍を置き、そこでの業績で、属州の「市民冠」を授与されました。弁舌力を活かして、属州総督を次々と告発しました。ここのころから表舞台に出始め、カエサルは弁舌で一躍有名となりました。

 あるとき、アレクサンドロス大王の像を目にして「アレクサンドロスの年齢に達したのにも拘らず何もなしえていない」と自らの心境を吐露し、偉業達成への意気込みを見せたそうです。

 紀元前60年になりますと、コンスルをめざしているカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと手を結び執政官に当選します。

 執政官になりますと、グラックス兄弟以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させます。

 ガリア戦争では武功を上げ、それをもとにカエサルはガリア戦争の一連の経緯を『ガリア戦記』として著しました。そのプレゼンスにより、ますますカエサルは、名を上げます。

 三頭政治を始めますが、その一人の死により三頭政治が崩壊しました。

 紀元前49年、カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入します。この時に、ルビコン川を渡る際、あの有名な「賽は投げられた」と檄を飛ばしたといわれています。その結果、カエサルはイタリア半島の実質的な支配権を手にしたのです。

 エジプトでは、クレオパトラが弟プトレマイオス13世と争っており、両者の仲介を模索しましたが弟から攻撃を受けましたので、クレオパトラの側に立って政争に介入しました。

 エジプトが平定されますと、カエサルは親密になったクレオパトラとエジプトで過ごしましたが、その時に、政敵ポンペイウスの勢力下だった軍を破ります。この時に、ローマに送った戦勝報告に「来た、見た、勝った (Veni, vidi, vici.)」という名言が残されています。

 紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは、市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式の挙行にあたって、クレオパトラを息子カエサリオンとともに招きました。

 元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手します。

 終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスやガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱き、新たな生成ができました。

 元老院の開会前に起こったとされ、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊で、マルクス・ブルトゥス等により暗殺され、その時の言葉が「ブルータス、お前もか」という言葉を発したと言われています。

 奢るもの、久しからず

 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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