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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

 

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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 【今日の写真】花の女王「ラン」 国際らん展より  
  ランは、英語でOrchidといいます。ランは被子植物ですが、その中でも最後に出現したこともあり、予想以上に過酷な環境にも適応しています。ニッチ市場を狙う中小企業のようですね。
今日は何の日    2月20日
花粉症とアレルギーの日

 2月20日というのは「アレルギーの日」です。1995年に日本アレルギー協会が制定しました。日本の免疫学者がブタクサが原因で花粉症なるということを発見したことにちなんでいます。

 ブタクサは、外来植物で、日本全国にあっという間に広がり、道ばたでも見かける雑草です。夏に咲く、2~3mmの黄色い小花が集まって房状に細長く咲く花ですので、見たことがある人が大半ではないでしょうか。

 かくいう私も40年近く花粉症に悩まされています。杉花粉と檜花粉にかかっていますが、近年は薬でくしゃみの方は何とかなりますが、目のかゆみは時々悩まされます。ブタクサは、日本では杉と檜に次いで三番目に罹病者の多いアレルギー物質です。

 外来種というのは、恣意的にもたらされると言うより、意図せず入り込むのが一般的で、固有種を駆逐するほどいずれも繁殖力が強いですね。セイタカアワダチソウもしばしば話題に上ります。

 西湖にくにます発見がニュースに報道されましたが、湖はブルーギルをはじめたくさんの外来魚に在来種が駆逐されてきていることがよく知られています。あまり知られていないことの一つにタンポポや水仙など気がつかずに外来種を愛でているようです。


■ ワシントン誕生日(年により日付が異なる)

 アメリカの初代大統領であるジョージ・ワシントン(1732~1799)の誕生日は2月22日です。今日では、2月第3月曜日が「ワシントン誕生日(Washington’s Birthday)」となっています。第3月曜日は、2月15日から21日までの間ですから、実際の誕生日と重なることはないのです。

 2月12日生まれのリンカーンを共に記念して、公式的にではありませんが、「大統領の誕生日 (Presidents’ Day)」とも呼ばれます。

 州によっては、ワシントン誕生日とは別に2月12日をリンカーン誕生日 (Lincoln's Birthday) としています。

 州によって祝日が異なるのが“合衆国”たるゆえんです。日本でも、例えば10月1日は「都民の日」で、公立の小中学校や都立高校はお休みですが、他の道府県ではいつもと同じに職場や学校が開かれています。


■ 箸墓古墳が初めて発掘された日

 卑弥呼の墓が何処にあるかご存知ですか? 

 卑弥呼の墓どころか、邪馬台国そのものが何処のあったのかすら確定できていません。

 ご存知のように畿内説と九州説があります。

 この論争に、終止符を打てるのが邪馬台国の女王である「卑弥呼の墓」が見つかることです。そうではないかという説があるのが奈良県の箸墓古墳です。ところがこれまでは、箸墓古墳の調査は行われてきませんでした。

 私もその一人ですが、意外と感ずる人も多いと思います。

 実は、宮内庁がを第7代の孝霊天皇の娘の墓として、皇室管理下にあることを理由に、一般の人の立ち入りを認めていなかったのです。

 ようやくのことですが、2013年2月20日に、奈良県桜井市にある全長およそ280メートルの前方後円墳である箸墓古墳に、研究者が立ち入ることが初めて許可されました。

 古墳が日本で作られ始めたのは、3世紀半ばかから後半といわれています。これがちょうど卑弥呼が亡くなった時期とほぼ一致することから、この陵墓が卑弥呼の墓ではないかという説が持ち上がりました。

 近畿地方にあった古墳の中で、規模が最も大きく、強大な力を誇った卑弥呼にふさわしいという考えからです。

 はじめて調査を行ったということでは画期的なことですが、日本史の重要な史実を明らかにできる可能性があるこのような調査は、宮内庁も協力をすべきではないでしょうか


【経営コンサルタントの独り言】

◆ 春になると、すがこが溶けて、嬉しい人、困る人


 春になると、すがこが溶けて、川となって、山を降り・・・

 2月20日は」花粉症とアレルギーの日」でした。

 花粉症というのは、日本の免疫学者が、ブタクサによるアレルギー症を発見してから知られるようになりました。

 昨今では、スギ花粉に悩まされる人が多くなっています。

 かくいう私も30代から花粉症に悩まされていました。

 ここ十年以上喘息にも悩まされています。

 ところが、皮肉なことに喘息の薬が花粉症にも効くのです。

 そのために花粉症の症状は大変軽減され、ほとんど出ないで済んでいます。

■ その他
◇ 水戸梅まつり

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■ 石川啄木誕生日

 いしかわ たくぼく
 1886年(明治19年)2月20日-1912年(明治45年)4月13日)

 日本の歌人、詩人で、本名は「石川 一」は、結核によりわずか27歳でなくなりました。

 岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれました。

 1898年(明治31年)12歳、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学校と改名、現盛岡一高)で学びました。同校の三年先輩には金田一京助が、また、10年後には宮沢賢治が入学します。

 中学生時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合うことになります。

『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱きました。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃です。

 1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載されました。これが初めて活字となった啄木の短歌だったのです。

 1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて堀合節子と将来の話をし、後に結婚します。

 啄木は盛岡において落ち着いた生活が続きましたが、1907年(明治40年)1月、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)より原稿の依頼があり松岡蕗堂らと知遇を得ました。

 1907年5月5日、函館に移り、5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てます。函館区立弥生尋常小学校の代用教員となりました。代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者も兼ねましたが、函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失してしまいました。

 近く創刊される野口雨情がいた小樽日報社の『小樽日報』記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社しました。雨情の起こした主筆排斥運動に荷担しましたが、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になりました。

 1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光二郎の講演を聴き、西川と面識を得て、釧路新聞 (2代目)(現在の北海道新聞社)に編集長として勤務しますが、上司への不満と東京での創作活動へのあこがれから、釧路を離れる決意をしました。

 1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記します。『スバル』創刊、発行名義人になります。3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となります。

 1910年5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆します。6月3日には明治天皇の暗殺を計画したとされる幸徳秋水・管野スガら社会主義者・無政府主義者が多数検挙された大逆事件が発生しました。

 1930年(昭和5年)京子が妊娠中に急性肺炎を起こし、二児を残して24歳で死去、その2週間後には房江も肺結核により19歳で急逝しています。

 啄木の詩などからは、想像のできない波乱の人生だったように思えます。


 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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