40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
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【今日の写真】 花の女王「ラン」 国際らん展より | |
ランは、英語でOrchidといいます。ランの受粉を媒介する昆虫の種類は余り多くありません。それらの虫に適した形に花粉がなっています。 |
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2月19日 | |
■ 万国郵便連合加盟記念日 |
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■ 雨水(年により日付が異なる) 立春から数えて15日目、二十四節気の一つである雨水です。寒さがゆるみ、雪が雨となって降る頃で、九州や海流などの影響で暖かい地方では草木が芽吹きはじめる寺と言えます。 しかし、東京では雪が降ることが多いのがこの頃で、各地で梅まつりが開催されています。東京で、この時期に雪が降ると大雪になることがあり、雪に弱くて交通麻痺を起こします。 |
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■ プロレスの日 1954(昭和29)年2月19日に、日本初のプロレスの本格的な国際試合として、力道山・木村組対シャープ兄弟の試合が開催されました。 プロレスの正式名称は「プロフェッショナル・レスリング」といい、リング上で観客へ見せることを目的とした攻防を展開する格闘技を基本としたスポーツのことであることはよく知られています。 力道山(1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、大相撲の力士を経て、プロレスラー界に移りました。韓国出身者で、日本億石を持ち、その名を「百田光浩(ももた みつひろ)」といいます。 空手チョップで、アメリカなど海外からのレスラーを倒すのを見て、多くの日本人が快感を覚えたのではないでしょうか。 まだ、テレビの普及が全家庭に至っていない時期から、街頭でプロレスを見る人がいました。第一回目の東京オリンピックを機に、テレビの普及率が高まりますと、一層プロレス熱も高まったように記憶しています。 |
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■ その他 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ■ 外国に手紙を出したことがありますか? 1877年に、郵便の国際機関である万国郵便連合(UPU)に日本が加盟しました。 郵便の世界で日本が国際的に認められたのです。 近年は、メールやSNSを使って海外とコミュニケーションを取っている人はたくさんいると思います。 しかし、昨今では、海外に手紙を送ったことがある人は少ないのではないでしょうか。 1970年にサラリーマンの私は単身で渡米し、ニューヨークに駐在事務所を構えてアメリカでの市場開拓を任されました。 当時は日本企業で海外に進出しているところは少なく、まだまだ日本製は安かろう、悪かろうという認識の時代でした。 日本にいる家族とのやりとりは手紙でした。 薄い便せんを使い、できるだけ切手代を節約するようにしたのが懐かしいです。 |
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■ 良忍 |
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■ 徳川綱吉 とくがわ つなよし 正保3年1月8日(1646年2月23日)-宝永6年1月10日(1709年2月19日) 徳川綱吉は、犬公方と呼ばれる江戸幕府の第5代将軍です。 慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられました。同月には家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受けました。 寛文元年(1661年)8月、上野館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となりました。12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称され、徳川姓を名乗りました。(館林徳川家の創設)。 館林藩主となりましたが、綱吉は、基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めていました。 延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け、五代将軍となりました。 綱吉は、堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出しました。それまで、「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した、将軍権威の向上に努めました。 また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらい、荻原重秀もここから登用されています。外様大名からも一部幕閣への登用がみられるなど、政治手腕は、犬公方とさげすまされるのとは逆の評価も得られています。 この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになりました。 犬公方と呼ばれるようになったのは、当時の江戸では辻斬りや動物虐待の庶民の生活を見て哀れんだ上、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して、生類発布しました。それが、悪評を呼ぶ理由のひとつが、自分の考えをキチンと周囲に伝えないがために誤解されたことによるものです。どうやら綱吉は、心の優しい人だったようです。 一方で、側用人を重用しすぎて、忠臣蔵で語られるようなことも行っています。 綱吉は。宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により、享年64歳で死去し、上の寛永寺に静かに眠っています。 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/taitouku-uenokouen03.htm |
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■ 尾崎 士郎 小説家、社会主義活動をベースにした作品が多い おざき しろう 1898年(明治31年)2月5日-1964年(昭和39年)2月19日) 小説家で、新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になりました。 愛知県幡豆郡横須賀村(現西尾市)、1898年に生まれました。 中学在籍中に、雑誌『世界の日本』に論文「いかにして選挙権を拡張すべき乎」を寄稿したことが契機となり、その評者の早稲田大学教授・永井柳太郎の目にとまりました。早稲田大学政治科在学中に、社会主義運動にかかわり、中退後、国家社会主義に身を投じたりしました。 1921年(大正10年)に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てるようになりました。 1933年(昭和8年)から都新聞に『人生劇場』を連載開始、大ベストセラーとなり、文芸懇話会賞を受賞しました。戦前、雑誌『文芸日本』、戦後に『風報』を主宰したりもしています。 川端康成とは関東大震災の翌年1923年(大正12年)に出会って以来からの変わらぬ親友で、葬儀の弔辞は川端康成が読み哀悼の意を表したそうです。 『石田三成』『真田幸村』『篝火』などの歴史小説も書いたほか、相撲にも詳しく、長編小説『雷電』など相撲関係の著作もあり、横綱審議委員を務めたこともあります。 展示物に徳利などがあり、相当なる酒豪であったそうです。1964年(昭和39年)、大田区山王の自宅で、直腸癌により、66才で死去しました。 尾﨑の功績は、平成20年5月にオープンした「尾﨑士郎記念館」に表されています。 尾﨑士郎記念館 https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/814873daf9796f4929d3c829754062d2 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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昨日 明日 | |
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