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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

今日は何の日 話材からヒントと気づきを

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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■【今日の写真】 花の女王「ラン」 国際ラン展より

 ランは、英語でOrchidといいます。ランの英語による語源はギリシャ語にあります。瘤状の茎を持つ種類が多く、その形状からギリシャ語の男性性器を表す言葉が語源となっています。

今日は何の日      2月11日
■ 建国記念の日

 今日は、建国記念の日、親の代の人には紀元節といったほうがわかりやすいようです。しかし、この両者は明確に区別されています。

 1966年に建国をしのび、国を愛する心を養う日として「政令で定める日」として制定されましたが、当時の文部省(現文部科学省)は、「建国の日ではなく建国を記念する日である」ことを強調し「建国記念日」とせず、「建国記念の日」と表現しました。

 紀元節は、日本の建国を祝うお祭りですので、建国記念の人は異なると言うことです。ここに当時のお役人の苦労が覗えます。因みに紀元節は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされるている日が2月11日であることからこの日を紀元節に当てたようです。

 日本では、「国旗を大切にしよう」などと言うと「あいつは右翼だ」などと言われそうですが、私が学んだアメリカでは小学校をはじめとして教室正面に国旗を掲揚しているのが一般的です。そこに愛国心をいしきさせているのです。

 日本では、そのようなことを積極的にしようとする教師はごくまれでしょうし、それを実行する教師は皆無と言っても良いでしょう。サッカーなどの国際試合に一喜一憂する様子を見ると愛国心がないわけではないでしょう。
 
■ 例祭(紀元祭・きげんさい)

 毎年2月11日に、勅使参向のもとに行われます。1年を通じて行われる祭典のうち、最も重要なお祭りで、建国記念の日の起源にもなっています。

 樫原神宮の御祭神は神武天皇です。建国創業の御神徳を景仰する国民的祭典で、数千名に及ぶ参列者があります。


樫原神宮】サイトより ←クリック

 畝傍山の南東麓、約50万平方メートルもの広大な神域に建てられた檜皮葺き(ひわだぶき=檜の樹皮を屋根に使ったもの)で素木(しらき)造りの本殿と神楽殿が、玉砂利の参道と背景となる深い森の緑に調和して、なんともいえない爽やかさと、厳かな雰囲気を生み出しています。
 初代天皇であると伝えられる神武(じんむ)天皇が、橿原宮で即位したという「日本書紀」の記述に基づき、明治23年(1890)に建てられました。本殿と文華殿は重要文化財に指定されています。
 祭神は神武(じんむ)天皇とその皇后・媛蹈?五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)です。本殿は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したものです。橿原市を代表する橿原神宮(かしはらじんぐう)で、本殿と神楽殿を訪ねると日本の伝統的な建築美に出会うことができます。

 【経営コンサルタントの独り言】

◆ 延暦寺に行かれたことはありますか?


「延暦寺に行かれたことはありますか?」と、あなたの友人に尋ねてみてください。

 多くの方が「修学旅行の時に、根本中堂の前で記念写真を撮った」とお答えになります。
 根本中堂というのは、お堂の名前であってお寺さんの名前ではないですよね。

 延暦寺というのは、比叡山の一帯にある寺領のことで、延暦寺というお寺の建物はないのです。

 もし、延暦寺の建物を見たという人は、根本中堂を延暦寺と誤解をしています。


 比叡山に対して高野山も忘れてはならない日本仏教の中心地です。

 高野山のお寺さんの名前をご存知ですか?


  
http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/96bae4d2336ec2d85d505ce5881386ee

【 注 】
 URLは、途中で改行している場合に、リンクが切れて表示されないことがあります。
 その場合には、一旦すべてのURLをWordなどにC&Pして、一旦連続した1行にしてからご利用下さい。

■ その他
◇ 奈良樫原神宮例祭  

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■ 明恵

 みょうえ
 承安3年1月8日(1173年2月21日) − 寛喜4年1月19日(1232年2月11日)
 幼名:薬師丸、号:明恵房(房号) 諱:成弁→高弁 尊称:明恵上人、栂尾(とがのお)上人 宗旨:華厳宗

 鎌倉時代前期の華厳宗の僧

 紀伊国有田郡(現:和歌山県有田川町)に生まれ、幼くして高雄山に登り、華厳、倶舎などを学びました。

 その後、諸寺に遊学し、密禅の諸教に通じるようになりました。

 華厳宗第十七世の法脈を嗣ぎ、後鳥羽上皇の勅により、栂尾山を賜りました。鳥獣戯画で有名な高山寺に晩年を過ごし、そこで歿し、廟は高山寺禅堂院にあります。

 代表的な著作として「摧邪輪」がありますが、その他多数をちょしています。

 栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名です。高山寺には、日本で最初の茶畑があります。



Wikipedia】 明恵

 承安3年(1173年)18日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。

 治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。

■ 伊能忠敬 日本の正確な姿を明らかに

 いのう ただたか
 延享2年1月11日〈1745年2月11日〉−文化15年4月13日〈1818年5月17日〉

 江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家
 通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれました。後に伊能家の養子に入ります。

 忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村でした。伊能家は、その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていました。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていました。

 田沼意次は、幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行しました。明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告されました。

 佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もなかったのですが、ようやくやりたいという人物が表れ、江戸との交渉役に忠敬は江戸へ出向くなど、村のためにも活躍しました。

 忠敬は、名主にも推挙されたのですが、天明3年(1783年)、浅間山の噴火などに伴って天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となり、そこでも手腕を振るいました。

 一方で、忠敬は暦学に興味を持っていて、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごしていました。長男景孝に家督を譲り、店の仕事を任せるようにしました。次のような家訓をしたためて景敬に渡したといわれています。
 第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし
 第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし
 第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず

 寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、忠敬は、当時の暦の権威者である高橋至時の弟子となりました。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳でした。昔の中国の暦『授時暦』が、実際の天文現象と合わないことに気づいていた忠敬が、その理由を江戸の学者たちに質問したときに、唯一回答できたのが至時だったので師事したという話が伝えられています。

 忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていたという逸話もあるほどです。師至時は、暦法『授時暦』やティコ・ブラーエやケプラーの理論にも通じていました。

 寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導につきました。その時に天体観測についても教えを受けたのです。観測技術や観測のための器具について精通していた重富を通じて観測機器を購入し、自宅に天文台を作り観測を行いました。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかったそうです。

 蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まり、アダム・ラクスマンが根室に入港して通商を求めたり、択捉島上陸事件などが起こったりました。瀑布は、蝦夷地の調査を行わせ、堀田仁助には蝦夷地の地図を作成させました。

 これらを契機として、忠敬にも命が下り、寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発したのです。辛苦の地図作成作業が始まり、蝦夷地から種子島などまで南下し、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国の測量を果たしました。間宮林蔵などの樺太測量などとあわせて、没後、『大日本沿海輿地全図』が完成され、国土の正確な姿を日本地図として明らかにしたのです。

 1818年、74歳の生涯を閉じました。1883年(明治16年)、正四位を授かっています。

■ 塚原 卜伝 戦国時代の剣士で鹿島新当流を開く

 つかはら ぼくでん
 延徳元年(1489年)−元亀2年2月11日(1571年3月6日)

 日本の戦国時代の剣士で、兵法家です。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開きました。

 鹿島神宮の神官で大掾氏の一族・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢、よしかわあきかた)の次男として、常陸国鹿島(現・鹿嶋市宮中)に生まれました。

 卜伝は号で、実家である吉川家の本姓の卜部(うらべ)に由来します。

 剣豪・松本政信の奥義「一之太刀(ひとつのたち)」が養父の安幹から伝授されました。

 卜伝の弟子であります加藤信俊の孫の手による『卜伝遺訓抄』の後書によりますと、その戦績は、目を見張るようなもので、一度も不覚を取ったことがないと文献に記されています。

 卜伝は、琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が卜伝だと知ったその剣士が決闘を挑むなど、いろいろなことを経験してきたようです。

 飛ぶハエを、箸でつまんだというような逸話も残っています。

 若い頃の宮本武蔵が、卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があります。しかし、実際には、武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ないことでした。


 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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