40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
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■【今日の写真】 花の女王「ラン」 国際ラン展より |
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2月9日 | |
■ ふくの日 「ふ(2)く(9)」という語呂から2月9日を「ふくの日」として、下関ふく連盟が1981(昭和56)年に制定しました。 |
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【Wikipedia】 フグ(河豚、鰒、鮐、魨、鯸、鯺)は、フグ目、特にフグ科に属する魚の総称。フグ科に属さないフグ(ハコフグ、ハリセンボン)などはフグ目を参照。 185種の魚がフグ科に分類される。そのうち食用とする種として、トラフグ、マフグなどが有名。クサフグなど、体全体に毒がたまる種もおり、このような種は食用には適さない。汽水、淡水性のフグの一部の種は、観賞魚として人気がある(淡水フグ参照)。 |
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我々は「フグ」と言うのが一般的ですが、フグ毒の成分は主に「テトロドトキシン」であることはよく知られています。 ところが、フグ自身は自分の毒で死ぬことはないのでしょうか? フグが何故、自分の毒で死なないのかは、テトロドトキシンに対し高い耐性を持っているためだからです。しかし、フグに大量のテトロドトキシンを投与するとやはり耐性の限度を超えて死んでしまうそうです。 いずれにしろ、フグの毒については、いまだにわからないことが多いのだそうです。 万一フグ毒を摂取してしまったときには、薬とか療法、解毒剤などはなく、呼吸困難が収まるまで人工呼吸器を続けることが唯一の治療法だそうです。 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 経営士の資格取得手順はどの様になっているのでしょうか 経営コンサルタントになろうとしている人は、「経営コンサルタント資格=中小企業診断士」と思い込んで、その受験準備を始めるのが通例です。 それは、けっして間違った考え方ではありませんが、なかなか難しくなっています。 そのために、若い人に有利です。 資格を取れるのでしたらとっておくに超しません。 ところが、多くの方が、定年を前に、50代、60代になってから準備を始めるでしょう。 記憶力も衰えてきている人には、受験勉強は辛いですね。 もっと、別な方法はないのでしょうか? 今回は、受験による経営士資格取得をご案内しています。 しかし、中小企業診断士より難問と言われています。 記憶力重視、オールラウンドな知識重視というのではなく、経験・実力・実績重視の経営コンサルタント資格が「経営士」です。 そのために、試験内容が、中小企業診断士と異なり、経営の現場に即した、実践的な内容のために、実務経験の浅い人にはむつかしいです。 経営士の資格をいきなり取得しようとしないで、日本経営士協会にまず入会し、「ながら方式」で資格を取得する方法があります。 一般会員として入会し、 仕事をしながら 勉強をしながら プロ経営士と接しながら まずは「経営士補(アシスタントコンサルタント資格)」をめざし、そこでコンサルティング実務を体感しながら、コンサルティングを体得して行っては如何でしょうか。 中小企業診断士資格は、それからとっても良いではないですか。 http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/ca6d57046b6962182e9537445856339d |
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■ その他 |
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■ 夏目漱石 (なつめ そうせき) 1867年2月9日(慶応3年1月5日)- 1916年(大正5年)12月9日) 日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏 江戸時代末期、牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)の出身で、大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学びました。 帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めました。 イギリスへの留学はその後のことです。精神的な病気にかかったといわれますが、研究に没頭している様を見た人が、その生活態度を見て、「夏目発狂」という噂を流したとも言われています。 帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』など、次々と傑作を書いて行きます。 その後、朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載したりしています。晩年は、胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となりました。 。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。 新宿の生まれた場所と言われるところには、現在でも「漱石公園」など、ゆかりの地があります。 |
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■ 南浦紹明(円通大応国師) なんぽしょうみょう 嘉禎元年(1235年)- 延慶元年12月29日(1309年2月9日) 鎌倉時代の臨済宗の僧で、出自については不詳ですが、聖一国師の甥で、駿河国安倍郡井宮村(静岡県静岡市葵区井宮町)の出身です。諱は「紹明」(「しょうみょう」とも「じょうみん」ともよむ)、道号は「南浦」、勅諡号は「円通大応国師」です。(【Wikipedia】を基に作成) 始めは浄弁に就き、数学を学びました。その後、建長寺の道隆に禅を学ぶことになりました。 正元元年に入宋し、虚堂智愚のもとで大悟(学ぶ・悟る)し、文永4年に帰朝(帰国)しました。 筑前興徳寺や崇福寺に重視、30年余の間、九州に禅の布教活動を行いました。 嘉元二年に上洛し、その後鎌倉に下りました。徳治2年北条貞時の帰依を受け、建長寺第13世となりましたが、翌年寂し、「円通大応国師」を諡られました。日本における国師号第一号です。その門下は「大応派」と呼ばれ、大徳寺や妙心寺がそれに属しています。(無量山傳通院寶暦参照) |
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■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者 てづか おさむ、本名:手塚 治 1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日 説明するまでもなく、日本を代表する漫画家であり、アニメーター、アニメ監督としても活躍しました。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍してこられました。 兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)で、同市名誉市民でもあります。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学)を持っていました。 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューしたのですね。知りませんでした。 1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現していて、手塚は、漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていました。そのためにノイローゼにまでかかったという話も残っています。天才にも、その様なことがあるのですね。 幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーションに強い関心を持っており、 1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立、後に虫プロダクションと改名しています。 1963年に、自作をもとにした、日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしたことはいうまでもありません。 当時、従兄弟達が、それを見る年代で、テレビにかじりついていたことが、昨日のように思い出されます。 しかし、アニメブームと共に、多くの同業社の乱立・乱作から、コスト競争に直面し、倒産にまで追い込まれました。私の知人が、その時の管財人をしていました。 晩年近く、1980年代になりますと、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)など、歴史物で円熟味を示し、青年漫画というJANするに新たな代表作を手がけることになりました。 100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、昏睡状態を断続的に起こしたにもかかわらず、病院のベッドで医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていたそうです。 死に立ち会った人によりますと、「頼むから仕事をさせてくれ」というのが手塚の最後の言葉であったといわれています。 最後まで、漫画・アニメーターだったのですね。 |
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■ 仮名垣 魯文 かながき ろぶん 1829年2月9日(文政12年1月6日)- 1894年(明治27年)11月8日 江戸末期から明治初頭にかけての戯作者で、新聞記者もしていました。 江戸の京橋生まれ、本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めました。別号に鈍亭、猫々道人(みょうみょうどうじん)などがあり、俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄です。これらからも、魯文の多才さがうかがえます。 魚屋を営む父野崎佐吉は、俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育ちました。大きな商家の丁稚となった時に、人相見に、「小説家になれば出世する」と言われ、18才で花笠魯介文京の弟子となりました。 自作の執筆の他に、先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、生活のために古道具屋や売薬業も営みました。 筆名は、初め「英(はなぶさ)」または「鈍亭」としていましたが、1873年(明治6年)に、師の魯と文の字を取って仮名垣魯文としました。 代表作に西洋道中膝栗毛(1870-1876年)があり、多数の書を書いています。 |
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■ 江藤 新平 幕末明治初期の佐賀藩の藩士「佐賀の七賢人」 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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