40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
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2月1日 | |||||||
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■ 一夜正月 因みに、男性の厄年は、数えで15歳、42歳、60歳ですし、女性は19歳と33歳です。気になる人は神社でお祓いを受けるとよいでしょう。逆に今年は厄年なので何事にも慎重に行こうという前向きな人もいらっしゃるでしょう。 私のようにのんきな人間は、「病は気から」などと楽観的に見て、「前厄」とか「後厄」などと言われても気にしないでいました。母が健在なのですが、きちんと厄払いを私のためにしてくれていたのですね。お陰さまで、その三年間を無事に過ごすことができ、今日に至っています。親というのは、いくつになっても親なのですね。 |
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■ ニオイの日 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 臭う、匂う、香る、薫る?? ニオイの日に思う 2月1日は「ニオイの日」の日でした。 「臭いの日」としないで、「ニオイの日」としたことに素晴らしさを感じます。 もし、その意味がお解りの方は、すばらしい日本語の語感をお持ちだと思います。 「悪臭」「変な臭い」「臭い」「臭い飯を食う」「面倒臭い」という表現から、「臭」という字は、あまりよいイメージを感じません。 広辞苑第六版を見ますと、トップに「いやなにおい」が表記されています。 そのほかの意味も芳しくありません。 おなじ「におい」でも「匂い」となると、広辞苑でも好感度のある意味が表記されています。 そのものから ただよってきて、鼻に感じられるもの。 それらしい感じ。おもむき。「下町の━がする」 〔雅〕美しい色つや。「━めでたき桜花(サクラバナ)」 うなぎ屋さんの前を通るとき漂ってくる薫りはなんとも言えませんね。 これも「良い臭い」と書かず「良い匂い」と書くべきでしょう。 日本語に詳しい私ではありませんが、最近の日本人は、語感が低下していると思います。 「生足」 私は生首を連想してしまいますので・・・ 「生き様」 「ざまーみろ」という言葉がありますが「様を見ろ」から来ていますが、この場合の「様」は決して良いニュアンスではありません。 「生き方」と表現するだけで、私のように違和感を感じる人が少なくなると思います。 私が、このような話をしますと、大半の方が、「なぜ、あんたはそんなことにこだわるの?」と疑問を持たれます。 これも感覚のずれなのでしょうね。 |
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■ その他 |
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■ 一休宗純 生誕 いっきゅうそうじゅん 明徳5年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日(1481年12月12日) 室町時代の臨済宗大徳寺派の僧で、誰もが知っている説話のモデルとしても知られています。 出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されています。 母親の出自は不明ですが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられています。三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存します。 「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より一休の道号を授かりました。 正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位しましたが、この即位には一休の推挙があったといわれています。 戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。 名言「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」 巷では、「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」といいますが、やはり[門松]がただしいようです。 |
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■ 良忍 |
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■ 真雅 しんが 延暦20年(801年) − 元慶3年1月3日(879年2月1日) 貞観寺僧正・法光大師 平安時代前期の真言宗の僧。父は佐伯田公。空海の族弟。讃岐国多度郡屏風浦の出身。 清和天皇の誕生以来の護持僧で、帰向を受け、法印大和尚、また東寺法務是にとなりました。藤原良房とともに、清和天皇の御願寺である山城貞観寺の開基でもあります。 空海の十大弟子の一人でもあります。 山城貞観寺で、元慶3年1月3日に79歳でなくなりました。 弘法大師空海の弟であっても、修行を重ね、十大弟子の一人にまで達しました。 実るほどに頭を垂れる稲穂かな 人の上に立つほど、腰を低くすることにより、一層、自分の存在感が増すという、私の祖母の教えでもあります。 |
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■ 沢村 栄治 プロ野球史上に残る伝説の投手 さわむら えいじ、旧字体:澤村 榮治 1917年2月1日 − 1944年12月2日 三重県出身の日本プロ野球史上に残る伝説の投手です。 京都商業学校(現在の京都学園高等学校)の投手として1933年春、1934年春・夏の高校野球全国大会(当時は中等野球)に出場し、1試合23奪三振を記録するなど、才能の片鱗を見せました。 戦前のプロ野球界で、史上2人目のシーズン防御率0点台や、史上初の投手5冠(1990年代に宇佐美徹也が提唱)に輝き、史上初のノーヒットノーラン達成を3回など、さまざまな記録を打ち立てました。 プロ野球リーグが始まる前の1935年、第一次・第二次アメリカ遠征に参加し、アメリカ人を相手に勝敗互角の勝率を上げました。 慶應義塾大学へ進学しますが、正力太郎の強引な説得で巨人入りしました。 プロ野球リーグが開始された1936年秋に中山武とのバッテリーでプロ野球史上初(昭和初、20世紀初、大正生まれ初)のノーヒットノーランを達成します。同年12月、大阪タイガースとの最初の優勝決定戦では3連投し、巨人に初優勝をもたらしたのです。 日中戦争(支那事変)に従軍。前線で手榴弾を多投させられたことから生命線である右肩を痛めたり、左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染したりと悲劇が続きました。 得意の、オーバースローからの速球が投げられなくなり、サイドスローに転向し、抜群の制球力と変化球主体の技巧派投球を披露し、3度目のノーヒットノーランを達成しました。 再度の応召で、フィリピン防衛戦に向かう軍隊輸送船が撃沈され、2才の若さで、屋久島沖西方 にて戦死しました。 読売巨人軍では、背番号14を永久欠番にしています。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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