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【今日の写真】 | |
福岡・住吉神社 住吉神社サイトより 住吉神社は底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神(なかつつのおのかみ)、表筒男神(うわつつのおのかみ)の住吉三神を祭神としています。御出現は、伊弉諾大神(いざなぎおおかみ)が筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラヘ(禊祓)をされたときにお生まれになったと「古事記」に記されています。相殿(あいどの)には天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)を配祀し、これを併せて住吉五所大神とも呼ばれています。 |
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1月19日 | |
■ 家庭消火器点検の日 1月19日が「緊急電話の119番」に因むことから、全国消防機器販売業協会が1991(平成3)年に「家庭消火器点検の日」を制定しました。 因みに、11月9日は消防庁が定めた「119の日」です。 【全消販ウェブサイト】 全消販の目的 全消販は活動の第一として、消防法に基づく消防庁の住宅防火基本方針を会員と共に積極的に遵守協力していくこと、第二として、各関係行政機関及び関係団体との協力体勢をとり、全消販にて、「消防機器の研究・開発」、「消防・防災の機器の推奨製品の研究・案内」、「防火対策のための資料作成・配布」の実施を積極的におこない、消防機器販売業者の資質の向上を図ると共に社会の火災予防思想の啓発に貢献すること、第三として、不適正点検業者・販売業者への対応策を検討し、公的に対応参画すること、第四として、会員及び関係各業界団体と多くのセミナール・会合等を催し、意思の疎通を諮ることにより地域の活性化と資質の向上に機能すること。 消火器は買うときは防火意識があっても、次第にそれが薄れ、いつしか期限切れを忘れてしまいがちですね。わが家も早速確認しました。 |
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■ のど自慢の日 |
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■ 119だけではなく「7119番」も知ろう 、近年、タクシーを利用すべきところを、安易に119番に電話して救急車の出動を求める人が多くなっているといわれています。 「7119」という電話番号をご存知でしょうか。 急な病気やケガをした場合に、「救急車を呼んだほうがいいのかな?」、「今すぐ病院に行ったほうがいいのかな?」など迷ったときには、119ではなく7119に電話すべきです。 ここは、「東京消防庁救急相談センター」の相談窓口です。相談医療チーム(医師、看護師、救急隊経験者等の職員)が、24時間年中無休で対応しています。 それにより不要に救急車を利用して、本来必要としている人に迷惑を掛けなくて済むようになります。 東京消防庁 http://www.tfd.metro.tokyo.jp/lfe/kyuu-adv/soudan-center.htm |
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■ その他 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ お宅の消火器は期限切れになっていませんか? 1月19日は「家庭消火器点検の日」です。 消火器は買うときは防火意識があっても、次第にそれが薄れ、いつしか期限切れを忘れてしまいがちですね。 わが家も早速確認しました。 ところで、消火器はどこでお買いになりますか? 訪問販売でお買いになる家庭が多いようです。 お店で購入しても、持ち帰るのが結構重くて大変なために、訪問販売は便利ですね。 ところが悪質業者が結構いるようです。 全国消防機器販売業協会が悪質業者対策をしていますが、あとを絶たないようです。 最近はネット購入する人も多いと思いますが、古い消火器をどうしていますでしょうか? 再利用する方法はないのでしょうか? |
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■ 勝海舟 かつ かいしゅう 1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日) 江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)で政治家、位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵です。 初代海軍卿となり、山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。 幼少時の文政12年(1829年)、親類・阿茶の局の紹介で、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されました。 一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が天保9年(1838年)に早逝しました。同年、父の隠居で家督を相続することになりました。 嘉永6年(1853年)に、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されますと、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になりました。 海防に関する意見書を、幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集しました。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなりました。 目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日に、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たしたのです。 長崎海軍伝習所時代、海舟は頻繁に船酔いに苦しんでいたこともあり、船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上しましたが、すぐには実現しませんでした。 外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになりました。 咸臨丸には、軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟が任ぜられました。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込みました。 咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。 アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けました。 海舟と木村の対立があったようで、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因のようです。 明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠せ我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっているといわれています。 文久3年(1863年)に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出てきますが、両者のそれ以前の交流は不明です。 家茂を補佐するなどはあったものの、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた松平春嶽も政局を放り出して離脱、海舟は孤立した時期もあります。 家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると考える海舟にとってはやりづらい状況となりました。幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して、上奏したりしましたが、下関戦争が発生したり、期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で解体されたりと思う様に進みません。 佐久間象山が暗殺されたり、禁門の変が発生したり、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなったりして、海舟の立場は危うくなったりもしました。 慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免された海舟は、最後の陸軍総裁に起用されました。 幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が罷免、海舟はに海軍奉行並、続いて徳川家の家職である陸軍総裁に昇進しました。 官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まり、新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせました。 その様なときに、有名な西郷隆盛との階段が開かれたのです。勝野準備が、西郷を納得させたとも言えるかもしれません。しかし、「パークスの圧力」を利用することはできなかったとも言われています。 晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い、徳川家のスキャンダルが外に出ないような工作もしました。 最晩年は、孤独な生活だったといわれています。活躍が報われなかったのが、寂しいですね。 |
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■ 明恵 承安3年(1173年)1月8日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。 治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]。16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。 |
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■ 道元(禅師) どうげん 正治2年1月2日(1200年1月19日)-建長5年8月28日(1253年9月22日) 諡号は仏性伝燈国師、承陽大師。諱は希玄 鎌倉時代初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖で、同宗旨では高祖と尊称されます。 13歳で出家し、比叡山で研学し、その後栄西に臨済宗を学んでいます。24歳で入宋し、曹洞禅の秘奥を究めました。 29歳で帰朝し、諸事を建立し、その一環として永平寺の建立があります。 「徒(いたずら)に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがある」という修証一等、只管打坐の禅を伝えました。 著書『正法眼蔵』は、和辻哲郎など西洋哲学の研究家からも注目を集めた |
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■ 関山慧玄忌 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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昨日 明日 | |
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