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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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今日は何の日    1月13日
■ 初虚空

 毎月十三日が虚空蔵(こくぞう)縁日で、その年の最初の十三日である今日は初虚空といわれます。

虚空蔵、すなわち虚空蔵菩薩は、智慧の仏様で、それを授かるために参拝されます。天満宮が神道系であるのに対して、虚空蔵は仏教系の叡智をさずかれる処としてたくさんの受験生で賑わいます。

 
■ 成人の日1月第2月曜日)

 成人の日は、日本の国民の祝日の一つで、1999年までは1月15日でした。今日では1月の第2月曜日があてられています。真冬ということで、行きで晴れ着が汚れたりすることを懸念して、近年ではお盆などに成人式を開催する地方も多くなりました。

 成人の日は、国民の祝日に関する法律には「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」ことと記載されています。

 「最近の若い者は・・・」と渋面されることもありますが、一方で前向きな姿勢も多いに評価されることが多々あります。

 長幼の序は、理屈としてではなく、心から守という姿勢は必要と考えて人生を送ってきました。そのためにずいぶんと先輩達からかわいがられてきました。

 社会人としてのマナーを守り、その場の空気をきちんと読める人間になると、世の中のマジョリティは認めてくれるように思えます。

■ 咸臨丸出航記念日

 1860(万延元)年1月13日(18日・19日説あり)、勝海舟や福澤諭吉らを乗せた軍艦「咸臨丸」が、江戸幕府の遣米使節として品川沖を出航しました。

 全長163フィートの木造で3本のマストを持つ蒸気機関を備えた船です。1857年(安政4)江戸幕府がオランダに発注・購入した軍艦で、原名ヤパン号です。

 福沢諭吉翁が、咸臨丸に乗船していたことは意外と知られていません。彼が海外渡航をしたことから、西欧の事情を肌で感じ、学問のすすめを始め多数の著書を出すことになったといえます。

【Wikipedia】 咸臨丸
 洋式の軍艦としては、観光丸(外輪船)に次ぐ2番艦であるが、洋式のスクリューを装備する船としては初の軍艦である(スクリューは入出航時に主に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていた)。
 幕府の船として初めて太平洋を往復したことから名を知られる。幕府の練習艦として用いられた後、戊辰戦争に参加するものの、軍艦としての機能は他艦に劣り、既に運送船の役割を担っていた咸臨丸は新政府軍によって拿捕される。明治政府に接収された後、開拓使の輸送船となった。

【経営コンサルタントの独り言】

■ 勝海舟と福沢諭吉

 江戸幕末期、勝海舟や福澤諭吉翁らを乗せた軍艦「咸臨丸」が、江戸幕府の遣米使節として品川沖を出航しました。

 福沢諭吉翁の渡米は、明治になってからと思っていらっしゃる方が多いです。ところが、このときに「奉行従者」という身分で咸臨丸に乗船していたのです。

 偉そうにこのように記述しています私も、大学に入るまでは江戸時代にすでに渡米していることを知りませんでした。

 その時に同行した通訳がジョン・万次郎、本名中濱萬次郎であることはよく知られています。

 万次郎は土佐の半農半漁の家に生まれ、14歳の時に漁の途中で遭難しました。伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し、143日間の生活をしていましたがアメリカの捕鯨船に救助され、そのままアメリカに連れて行ってもらったのです。

 子供の頃、日本のロビンソン・クルーソーとして伝記を読んだ記憶は、143日という数字まで覚えているのですから、私にとっては印象的だったのでしょう。

  http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/c409625b1efb9c0cb7f0fa0114af46bd

 福澤諭吉は、『瘠我慢の説』という公開書簡を通じて、勝海舟の批判者であったこともまた、あまり知られていません。

 戊辰戦争最中、清水港に徳川方の戦死者が放置されたことがありました。清水次郎長が彼らを埋葬したことで男を上げたことはよく知られています。榎本武揚の名で、戦死者の慰霊の石碑が清見寺に立てられたのですが、それを見て諭吉翁が激怒したという記録があります。

 「食人之食者死人之事」という碑文が気に入らなかったようです。この意味は、「徳川幕府に仕え、世話になった者は、徳川家のために死す」という意味です。

 勝海舟と福沢諭吉は、咸臨丸では呉越同舟だったのですね


■ その他
◇ 足利正徳寺虚空蔵尊祭 ←クリック   

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■ 宗峰妙超 入滅 (大燈国師)

 しゅうほうみょうちょう
 弘安5年12月7日(1283年1月7日) − 延元2年/建武4年12月22日(1338年1月13日)

 鎌倉時代末期の臨済宗の僧で、一般には「大燈国師」の名で知られています。
 諱は妙超、道号は宗峰、播磨(兵庫県)の出身で、同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)の子として生まれました。

 朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられ、京都の大徳寺の開山でもあります。

 11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学びます。

 のちに禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明(大応国師)に参禅しました。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)、26歳のとき、師から印可を得ました。

 花園天皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発しています。

 その際、妙超は浦上庄の半分を自分の一族に分配する事を申し出ますと、天皇はこれを承認し、妙超の一族である浦上為景にその旨を伝える綸旨を発行しています。

 建武4年(1337年)、妙超は病に伏し重態となりますが、花園法皇の求めに応じて、妙超没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙しました。

 師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属するといわれています。


 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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