40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
Yahooブログ アメブロ ブログ人 ドリームゲート |
■【今日の写真】 冬の南紀白浜 |
|
1月10日 | |
■ 十日戎 えびす様は、七福神の一柱で、商売繁盛の神様と多くの人に崇められています。えびす様を参拝し、縁起物を飾った笹や熊手をいただいて願掛けをします。 前日の9日は「宵戎」、当日が「本戎」、11日が「後戎」とか「残り福」と呼ばれ、3日間の行事となるところが多いようです。 烏帽子をかぶり、釣り竿と鯛を持つことからもわかるように、もともとは漁業の神様でした。室町時代に七福神の一柱と数えられるようになり、今日のように商売繁盛の神様となり、人気があります。 |
|
■ 110番の日 1月10日は、「110番の日」として警察庁が1985(昭和60)年12月に制定しました。 110番は、もともとはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部:General Headquarters)の勧告で、すでに1948(昭和23)年に、東京、大阪など8大都市で始められていました。 しかし、東京は110番でしたが、大阪や京都は1110番、名古屋は118番などと地域により番号が異なりました。1954(昭和29)年になってようやく110番に統一されたのです。 |
|
■ 歌会始、歌御会始 |
|
■ その他 |
|
【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 最近「菜根譚」が人気のようで書店を賑わせています 菜根譚があまり話題に乗らない時期から、日本経営士協会理事長藤原久子先生は、菜根譚についてイロイロと語っていました。 藤原先生のお言葉の一部を紹介します。 『采根譚』の著者は洪自誠といわれ、日本に江戸時代中期に伝えられ、以来知識人の隠れた教養書として、明治以降も多くの人々に愛読されてきました。『采根譚』の書名は宋代の学者(思想家)汪信民の「人よく菜根を咬みえば、則ち百事なすべし」によると言われています。「菜根」すなわち、野菜の根は硬く筋が多いが、これをよく咬みうる者のみが、物の真の味を味わうことが出来る、ということを意味しています。 また「菜根」は貧しい生活、暮らしをいうことから、貧苦に十分耐え得るもののみが人生百般の事業を達成できることも意味しています。『采根譚』が日本に紹介されたのは江戸時代中期、加賀前田藩の儒者、林瑜(はやしゆ)が紹介したのが初めとされています。いらいおびただしい数の復刻本が出版され、中国よりも、日本で広く愛読されてきました。実業・ビジネスの世界で活躍されている多くの人々に、心の指南書として親しまれてきました。時が移り人が変わっても、変わる事のない哲理を今に活かそうとしているからだと思っています。 ブログで菜根譚前集の「未だ就らざるの功を図る」についての藤原先生の文章を紹介しています。 http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/91643ee0aca253d53526e11d72244ede |
|
↑ Page Top | |
■ 臨済 【歴史に学ぶ経営】 ウラを取れ 臨済義玄は、中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖です。 深く仏教を好み、諸方に遊び博く、経論を探り、最も戒律を究めた人です。 彼の言行は、弟子の三聖慧然によって「臨済録」としてまとめられています。 「語録の王」というあだ名がつくほど、いろいろな言葉を残しているようです。 人の上に立つ人や経営コンサルタントなど、変革を定着させ、企業の成長を願う人は、「口癖を持つ」ということが大切だと考えます。 私事で恐縮ですが、「ウラを取れ」というのが私の口癖言葉のひとつです。 物事というのは、多面性を持っています。噂を鵜呑みにして、それを真実だと思い込んでいる人が多いです。 あるビジネスパーソンが、濡れ衣を着せられ、左遷されることになりました。 というような話は、三文小説にもよく出てきますが、そのきっかけが根も葉もない噂であったなどというのもざらにあります。 私達経営コンサルタントは、顧問先の社員さんからヒアリングをし、それを経営アドバイスの材料にすることがあります。 その中には、フェイクもあれば、推量もあり、その人の個人的な見解であることもあります。これらをそのまま判断材料にしては、アドバイスの方向が間違えてしまうことがあります。 そのために「ウラを取る」とか「現場百遍」という、刑事物語に出て来る言葉を、経営現場で私は使います。 |
|
■ 福沢諭吉生誕 福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)は、天保5年12月12日(1835年1月10日)に中津でうまれ、明治34年(1901年)2月3日に亡くなりました。 諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に、彼が生まれたことにあります。 武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者ですが、慶應義塾の創設者であることはよく知られています。慶應義塾だけではなく、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力しました。 ジャーナリストとしての一面も持ち、大隈重信、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞新聞『時事新報』を創刊することになりました。東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長も務めています。 安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学んだり、大阪適塾で頭角を現し、江戸に出てからは蘭学塾の講師を務めたりしています。この蘭学塾では、佐久間象山の影響も受け、洋式砲術の教授を受けたりしています。 諭吉が横浜に出かけた折、オランダ語が全然通じないことから、英語の習得に力を入れたという有名な逸話があります。 咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、勝海舟らと咸臨丸に乗り、渡米しています。 文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚し、その年の冬、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節が欧州各国へ派遣されるとき、翻訳方としてこれに同行することとなりました。 これらの功績が認められ、昭和59年(1984年)に一万円紙幣表面の肖像に採用されていることも知られています。 明治31年(1898年)に脳溢血で倒れ、明治34年(1901年)脳溢血が再発し、2月3日に東京で、享年67(満66歳没)の生涯を閉じました。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議しています。葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5000人の会葬者が葬列に加わったという記録が残っています。諭吉の功績や人徳が偲ばれます。(【Wikipedia】をもとに作成) |
|
■ 徳川綱吉 とくがわ つなよし 正保3年1月8日(1646年2月23日)−宝永6年1月10日(1709年2月19日) 徳川綱吉は、犬公方と呼ばれる江戸幕府の第5代将軍です。 慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられました。同月には家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受けました。 寛文元年(1661年)8月、上野館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となりました。12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称され、徳川姓を名乗りました。(館林徳川家の創設)。 館林藩主となりましたが、綱吉は、基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めていました。 延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け、五代将軍となりました。 綱吉は、堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出しました。それまで、「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した、将軍権威の向上に努めました。 また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらい、荻原重秀もここから登用されています。外様大名からも一部幕閣への登用がみられるなど、政治手腕は、犬公方とさげすまされるのとは逆の評価も得られています。 この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになりました。 犬公方と呼ばれるようになったのは、当時の江戸では辻斬りや動物虐待の庶民の生活を見て哀れんだ上、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して、生類発布しました。それが、悪評を呼ぶ理由のひとつが、自分の考えをキチンと周囲に伝えないがために誤解されたことによるものです。どうやら綱吉は、心の優しい人だったようです。 一方で、側用人を重用しすぎて、忠臣蔵で語られるようなことも行っています。 綱吉は。宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により、享年64歳で死去し、上の寛永寺に静かに眠っています。 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/taitouku-uenokouen03.htm |
|
■ 尾崎 紅葉 明治の文豪 泉鏡花ら後進を育成 おざき こうよう 1868年1月10日(慶応3年12月16日)− 1903年(明治36年)10月30日 江戸時代に生まれた、明治時代の小説家で、本名は徳太郎といいます。「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持っています。 1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊しはじめました。『二人比丘尼 色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称されて「紅露時代」を築き、明治期の文壇の重鎮といえます。 1897年(明治30年)から『金色夜叉』の執筆を始めましたが、未完のまま没してしまいた。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など、優れた門下生を育ててました。 小説だけではなく、俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称されました。 |
|
■ 島村抱月 新劇運動の先駆者 しまむら ほうげつ 1871年2月28日(明治4年1月10日)− 1918年(大正7年)11月5日 日本におけます新劇運動の先駆けの一人として知られています。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎です。 イギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学に留学しました。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」誌を復刊(第二次)し、主宰しています。 1906年(明治39年)には、坪内逍遥とともに文芸協会を設立、1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめ、芸術の拠点である「芸術倶楽部」(東京都新宿区)を創設しました。 芸術倶楽部跡、終焉の地(写真) http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/shinjukuku-kagurazaka/shinjuku-kagurazaka15.htm しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化、これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となりました。 同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博しました。 |
|
【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
|
↑ Page Top | |
昨日 明日 | |
↑ Page Top |