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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

今日は何の日 話材からヒントと気づきを

1970年代からの永年の実績で、
皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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■【今日の写真】 伝通院と徳川家

 伝通院は、徳川家とのゆかりが深いお寺です。徳川家康のご生母である於大の方や、二大将軍秀次の長女、千姫など徳川家とのゆかりのある方々の墓所でもあります。

 もちろん寺の瓦や提灯などには三葉葵の御紋が入っています。
 

 山門の彫り物
 

山門から本堂を臨む
今日は何の日      1月7日

■ 七草粥(ななくさがゆ)

 田園地帯に住んでいる方は、七草をご自身で摘んで来て、七草粥にすると思いますが、年によっては七草が全て揃わない正月もあるようです。

 七草とは「芹」「薺(なずな)」「御形(ごぎょう)[母子草]」「繁縷(はこべら)[はこべ]」「仏の座[田平子(たびらこ)]」「菘(すずな)[蕪(かぶ)]「蘿蔔(すずしろ)[大根]」のことです。子供の頃、これを覚えるためにリズムを付けて何度も暗唱したことを思い出します。

 兵庫県のある地域では、通常は15日の小正月の行うどんど焼きを、今日七日に行うそうです。名前もわれわれがよく知っている“どんど”と濁らず“とんと焼き”というのだそうです。

 正月の注連飾り(しめかざり)を持ち寄って朝の四時の暗いうちから行うところと、午後の四時から行うところとがあるようです。

 七草粥は、五節句のひとつであります「人日」とも関係があるのですね。(本日「人日」の項参照)

■ 人日(じんじつ)

 1月7日は「人日」といい、五節句のひとつです。

 古来中国では、正月の1日から6日までの各日に動物を割当て、その日はその動物を殺さないようにしていました。

 1月7日を「人の日」として、犯罪者の刑罰を行わない日としました。

 その風習が七草粥として日本に変質して伝わって来たと言われています。

■ その他
◇ 善光寺御印文頂戴
◇ 長谷寺仁王会
◇ 福岡太宰府天満宮うそ替え

【経営コンサルタントの独り言】

 
意外と知らない「五節句」とは


 1月7日は、人日(じんじつ)ですね。

 七草粥をお食べになった方も多いでしょう。

 スーパーの店頭に、七草粥セットが置いてありました。

 昔はどの家庭でも風習に従って食べていた七草粥も、昨今では少なくなっているのではないでしょうか。

 でも、なぜ、七草粥を食べるのでしょうか?

 なぜ、人日と言うのでしょうか?

 それが、なぜ五節句なのでしょうか?

 五節句とは、下記を言います。

 1月7日 人日(じんじつ)七草
 3月3日 上巳(じょうし/じょうみ)桃の節句、雛祭り
 5月5日 端午(たんご)菖蒲の節句
 7月7日 七夕(しちせき/たなばた)たなばた、星祭り
 9月9日 重陽(ちょうよう)菊の節句

 「節句」の日には、日本の宮廷において「節会(せちえ)」と呼ばれる宴会が開かます。五節句は、公式行事として江戸時代に定められました。

 因みに、新暦では3月3日、5月5日、7月7日は同じ曜日となるということをご存知ですか?

(ドアノブ)
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■ 足利義政

 1436年1月2日〜149017。室町幕府第8代将軍足利義政。銀閣寺の建立でその名が知られています。

Wikipedia】足利 義政(あしかがよしまさ)

 室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。

 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。

■ 前島 密

 まえじま ひそか
 天保6年1月7日(1835年2月4日)−大正8年(1919年)4月27日

 1円切手の肖像で知られる、日本の官僚、政治家です。日本の近代郵便制度の創設者の一人であり、その功績から「郵便制度の父」と呼ばれています。

「郵便」とか「切手」、「葉書」という名称も彼が中心となって命名したと言われています。



【日本郵政サイト】

越後国(現在の新潟県)に生まれ。享年84歳。「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」という信条どおり、近代化が進む日本でまさしく陰ながらより便利でより快適な暮らしの方法を提案し続けた。肖像画は、明治末ころのもの。向かって右えりに勲二等瑞宝章のバッジ、左えりには当時の貴族院議員記章が描かれています。


■ 宗峰妙超 生誕 (大燈国師)

 しゅうほうみょうちょう
 弘安5年12月7日(1283年1月7日) − 延元2年/建武4年12月22日(1338年1月13日)

 鎌倉時代末期の臨済宗の僧で、一般には「大燈国師」の名で知られています。
 諱は妙超、道号は宗峰、播磨(兵庫県)の出身で、同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)の子として生まれました。

 朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられ、京都の大徳寺の開山でもあります。

 11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学びます。

 のちに禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明(大応国師)に参禅しました。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)、26歳のとき、師から印可を得ました。

 花園天皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発しています。

 その際、妙超は浦上庄の半分を自分の一族に分配する事を申し出ますと、天皇はこれを承認し、妙超の一族である浦上為景にその旨を伝える綸旨を発行しています。

 建武4年(1337年)、妙超は病に伏し重態となりますが、花園法皇の求めに応じて、妙超没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙しました。

 師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属するといわれています。


 
 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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