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■【今日の写真】 伝通院と徳川家 |
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山門の彫り物 | |||
山門から本堂を臨む |
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1月7日 | |||
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■ その他 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ■ 意外と知らない「五節句」とは 1月7日は、人日(じんじつ)ですね。 七草粥をお食べになった方も多いでしょう。 スーパーの店頭に、七草粥セットが置いてありました。 昔はどの家庭でも風習に従って食べていた七草粥も、昨今では少なくなっているのではないでしょうか。 でも、なぜ、七草粥を食べるのでしょうか? なぜ、人日と言うのでしょうか? それが、なぜ五節句なのでしょうか? 五節句とは、下記を言います。 1月7日 人日(じんじつ)七草 3月3日 上巳(じょうし/じょうみ)桃の節句、雛祭り 5月5日 端午(たんご)菖蒲の節句 7月7日 七夕(しちせき/たなばた)たなばた、星祭り 9月9日 重陽(ちょうよう)菊の節句 「節句」の日には、日本の宮廷において「節会(せちえ)」と呼ばれる宴会が開かます。五節句は、公式行事として江戸時代に定められました。 因みに、新暦では3月3日、5月5日、7月7日は同じ曜日となるということをご存知ですか? (ドアノブ) |
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■ 足利義政 室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年 - 1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟にあたる。 幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ。幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。 |
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■ 前島 密 |
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■ 宗峰妙超 生誕 (大燈国師) しゅうほうみょうちょう 弘安5年12月7日(1283年1月7日) − 延元2年/建武4年12月22日(1338年1月13日) 鎌倉時代末期の臨済宗の僧で、一般には「大燈国師」の名で知られています。 諱は妙超、道号は宗峰、播磨(兵庫県)の出身で、同国浦上荘の豪族・浦上氏の一族・浦上一国(掃部入道覚性)の子として生まれました。 朝廷から興禅大灯、高照正灯の国師号が与えられ、京都の大徳寺の開山でもあります。 11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学びます。 のちに禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明(大応国師)に参禅しました。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)、26歳のとき、師から印可を得ました。 花園天皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発しています。 その際、妙超は浦上庄の半分を自分の一族に分配する事を申し出ますと、天皇はこれを承認し、妙超の一族である浦上為景にその旨を伝える綸旨を発行しています。 建武4年(1337年)、妙超は病に伏し重態となりますが、花園法皇の求めに応じて、妙超没後に花園法皇が師とすべき禅僧として、弟子の関山慧玄を推挙しました。 師の南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗はみなこの法系に属するといわれています。 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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昨日 明日 | |||
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