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■ 伝通院(でんづういん)
近所に伝通院というお寺があります。散歩がてら時々お伺いします。
伝通院のウェブサイトを引用・要約すると下記のように説明されています。http://www.denzuin.or.jp/
1415年に浄土宗第七祖了誉が開山、無量山寿経寺という名で開創されました。1602年、徳川家康公の生母於大の方の菩提寺とし、その法名から「傳通院」と呼ばれるようになりました。
以前に、当ブログでも紹介しましたが、於大の方の墓があるだけではなく、千姫の墓もあります。以前にもブログに書きましたが、千姫は、2011年NHK大河ドラマ「お江」の娘です。すなわち三代徳川秀光公の妹ということです。
数年前に、本堂が新しくなり、2012年には三門が新しく作られました。
【伝通院のウェブサイト】
応永22年(1415)、浄土宗第七祖了誉が開山したお寺です。当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。
それから200年後の慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母於大の方が75才、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。正保4年(1647)には、家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り諸堂伽藍を整えて参りました。
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1月5日 |
■ 囲碁の日
1月5日は、「い(1)ご(5)」の語呂合せから「囲碁の日」を日本棋院の提唱で制定されました。
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日本棋院は、1924(昭和13)年に創立され、今日では公益法人になっています。JR市ヶ谷駅前に立派な建物を構えていて、さすがと思わせます。
囲碁のネットワークグループに「パンダネット」があります。ネット上で対戦したり、指導を受けたりと、色々なサービスや催しものが行われています。
昨今では、コンピュータとの対戦が話題になっていますが、これまでの常識とは異なる手を打ってくることが多く、プロ棋士も手を焼いているようです。
いずれは、コンピュータに歯が立たなくなるのでしょうか?
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【ひとり言】 「棋士」とは?
2016年暮れ、将棋界最古参のプロ棋士と最年少の棋士の対戦が話題になりました。
それとともに、本戦中に、某棋士のコンピュータ利用疑惑という暗いニュースもありました。
将棋界では、コンピュータが押し気味になってきていて、人間が負けてしまうことが多くなってくるかもしれません。
1月5日は、「囲碁の日」でしたが、囲碁は盤のマス目が多く、コンピュータにとっては膨大な計算をしなければなりません。
そのために、コンピュータが勝つのは容易ではないでしょう。
コンピュータ界も量子コンピュータの基礎技術が固まってきていますので、現在のスーパーコンピュータ「京」の百万倍の計算速度も夢ではなくなってきています。
いずれは、コンピュータに歯が立たなくなるのでしょうか?
因みに、一般的には、プロをさすようですが、囲碁も将棋も「棋士」というのですね。
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■ その他
◇ 初水天宮
◇ 幡随意上人寂
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■【きょうの人】 ジャン・バティスト・セイ
1767年1月5日は、フランス人 ジャン・バティスト・セイの誕生日です。経済学者で「セイの法則」が良く知られています。
【Wikipedia】ジャン・バティスト・セイ
ジャン=バティスト・セイ(Jean-Baptiste Say、1767年1月5日 - 1832年11月15日)はフランスの経済学者、実業家。彼は自由主義的見解を持っており、競争、自由貿易、および事業上の制約の引き上げに賛成する主張を行った。「供給はそれ自身の需要を創造する」という「セイの法則」で知られる。
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■ 幡随意上人
ばんずいい
天文11年10月15日(1542年11月21日)- 慶長20年1月5日(1615年2月2日))
戦国時代から江戸時代初期にかけての浄土宗の学僧で、紀伊(相模国という説もあり)の出身です。号は「白道演蓮社智誉(向阿)」
9歳の頃から出家の志があり、11歳の歳には玉縄二伝寺(藤沢市所在)で出家し、幡随意と号しました。
その後、鎌倉の光明寺で浄土教学を修め、武蔵国川越の蓮馨寺(れんけいじ)の存貞にも学びました。
慶長6年(1601年)、徳川家康の命により江戸で浄土宗法論の奉行役を務め、翌・慶長7年(1602年)に京都百万遍知恩寺の33世住持となります。
慶長8年1603年には、ふたたび家康によって招聘され、江戸神田駿河台に新知恩寺(のちの関東十八檀林の一つ幡随院)を開創しました。後に上州館林に善導寺を開き、中興開山となりました。
慶長18年(1613年)徳川家康の命により九州に下り、キリシタンの改宗に力を尽くしました。和歌山の万性寺を開創後、慶長20年に入寂、74歳でした。(【Wikipedia】を基に作成)
■ 夏目漱石 (なつめ そうせき)
1867年2月9日(慶応3年1月5日)- 1916年(大正5年)12月9日)
日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目金之助(なつめ きんのすけ)。俳号は愚陀仏
江戸時代末期、牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)の出身で、大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学びました。
帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めました。
イギリスへの留学はその後のことです。精神的な病気にかかったといわれますが、研究に没頭している様を見た人が、その生活態度を見て、「夏目発狂」という噂を流したとも言われています。
帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり『坊っちゃん』『倫敦塔』など、次々と傑作を書いて行きます。
その後、朝日新聞社に入社し、『虞美人草』『三四郎』などを掲載したりしています。晩年は、胃潰瘍に悩まされ、『明暗』が絶筆となりました。
。代表作は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』など。明治の文豪として日本の千円紙幣の肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。
新宿の生まれた場所と言われるところには、現在でも「漱石公園」など、ゆかりの地があります。
■ 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力
り こうしょう
1823年2月15日(道光3年1月5日)-- 1901年11月7日(光緒27年9月27日)
中国清代の政治家で、字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力しました。
日清戦争の講和条約である下関条約で、清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことで知られています。
清朝末期に起こった反乱・太平天国の欄で、政府軍に降伏した敵軍を吸収しながら、西洋式軍事訓練も施して、自軍強化に努め、蘇州・常州を奪回するなど、活躍しました。
李鴻章は、その手腕を買われ、清朝の重臣筆頭となり、さらに同治帝の母・西太后の厚い信任を得ました。
日本の朝鮮出兵などの動きに驚異を感じ、日本との関係を模索しました。同治9年9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、日本との提携を記した草案の作成を担当し、伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結びました。
大久保利通他とも交流を持ち、西欧やロシアの圧力に対抗を試みるなど政治的手腕を発揮しました。しかし、日本は、日清戦争に走ります。日本側は列国の干渉をおそれ、休戦条約を調印し、日清講和条約(下関条約)の調印を行います。
この条約で朝鮮・台湾・遼東半島などの喪失と賠償金支払いなどで、清の威信は大きく低下し、李鴻章は失脚します。しかし、西太后の意もあり、復権します。
波乱の人生でしたが、李鴻章の意志は、袁世凱に引き継がれます。
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【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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