35年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
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■ ■■ 江戸男性のおしゃれ 26 江戸は、男性の多い社会であったことは知られています。 参勤交代で、地方から武士がやってきますし、それを当て込んで上方からは商人がビジネスにやってきました。このために男性の数が圧倒的に多く、男女比率から結婚相手を探すのは大変でした。 結婚難のために男性は涙ぐましい努力をするわけです。初物のかつおを振る舞うなどができる身分の男性ならともかく、そうでない男性はどのような努力をしていたのでしょうか。 その一つが「江戸っ子美顔術」です。カミソリで剃った程度では女性にほおずりをしたときに、ちくちくさせてしまいます。肌をすべすべにするために、毛抜きでヒゲをのくのです。現代男性顔負けの努力です。 デートの前にあわてて抜いたりすると、頬が血だらけになってしまい、逆効果になることもあったようです。 女性優位の時代ですから、男性の努力はヒゲ抜きだけではありません。 今日なら、デートの直前にマウスウォッシュ済を使ったりしますが、当時も講習会・研修会・講演会は嫌われる大きな要素でした。そのために何度も何度もは御身がいたり、うがいをしたりと努力をします。 デートの直前には、梅の花のつぼみを噛んで、爽やかさを演出したのです。 ■ ■■ 見えないところでおしゃれ 27 上方の女性は、お化粧をキチンとするのが「女の身だしなみ」と考えられていました。一方、江戸では、「すっぴんの素肌」を自慢する女性が多かったのです。 上方では、髪をきれいに結い上げますが、江戸では、濡れ羽色といいますか、まだしめっている、漆黒の「湯上がりの洗い髪」が粋とみなされていました。女性が櫛を横にさしている姿が「あだっぽい」といいますか、絵になりますね。 おしゃれにも上方と江戸では違いがあります。 髪型の女性は、綺麗な物を身につけ、さらに飾り付けて、「絢爛」にしていくのがおしゃれです。 一方、江戸では「省略」が、おしゃれとか粋であるとか通である処に繋がります。 色を省略していくと、最後に残るのは「黒」なのです。 江戸では、下着から羽織まで全部黒づくしが粋なのです。ただし、素材に懲ります。「羽織が羽二重、下が縮緬、中が紬」というところで勝負をします。 これでは、外見にはおしゃれかどうかわかりません。女性がしなだれ、羽織に触るとそれが高級な羽二重であったりしてわかってきます。そうこうしているうちに、見えない部分のおしゃれがわかるのが「粋」なのです。 遠くから見て目立つのは、格好が悪いのです。触れるほど近寄ってわかる人だけにわかってもらえるのが「粋」というもの。死んでから「あれが本当の通なのだ」といわれるのが江戸っ子の粋とでもいうのでしょうか。 ■ ■■ 江戸っ子と伊達 28 江戸では、マイナス要因だと思われることをカッコよく見せられる人が「一番粋」なのだそうです。 例えば頭が禿げている人が、「あの人の禿はカッコいい」と言わせれば粋になるのです。マイナスをプラスにすれば良いわけで、おなじ禿げるのであれば、ユールブリンナーよろしく、つるつるの頭にしてしまうと「粋」になります。 昨今では、背が高くてイケメンな男性が持てますが、江戸時代には、遠くから目立ってしまうので「粋」ではなく「野暮」なのです。 「伊達男」という表現がありますが、服装が伊達であるということは、「バサラ」につながります。 伊達になるには、手ほどき書、すなわちマニュアルがありました。それを学ぶことによって伊達になれるのですが、「粋」というわけではありません。 やつれた感じが、逆に評価されるのが江戸の粋なのです。「滅びの美学」と言っても良いのでしょうか。 「滅び」という観点から魚など食べ物は腐る寸前がおいしいというのです。 ■ ■■ 江戸っ子の上方コンプレックス 29 江戸の人たちには、上方コンプレックスがあったようです。 例えば、京都の人は、昔から「都」であったことに誇りを持ち、プラス思考を強く持っていました。 ほこりの裏返しがコンプレツクスで、江戸っ子は、否定的要因を肯定し、開き直おるのです。 例えば、江戸の住宅事情は、上方に比べてよくありませんでした。 それを、狭くて何も持たず、こざっぱりしているのが粋というのです。 その代表的な存在が、「薄着」です。江戸っ子は、冬でも木綿の布子一枚でいました。しかも尻からげで裸足という出で立ちで走り廻っていたのです。家に閉じこもって火鉢を抱え込むような行為は「恥」なのです。 寒いのが粋というのはおかしな話ですが、江戸にもそのようなことをする人を「やせ我慢」といって、笑う人もいました。 要は、「滅びの美学」といいますか、「Simple is beautiful」なのです。それは上方コンプレックスに繋がっていることを、わかっている江戸っ子も多かったといえます。 ■ ■■ 侍パンツ? 30 江戸の庶民といえば長屋住まいです。昨今では飽食の時代で、着る物がタンスの肥やしになっていますが、江戸庶民はせいぜい3~4枚です。それも一生のうちでその枚数ですから、一つのものを着た切り雀です。 それも新品を買ってくるというより、親から譲り受けたり、古着屋で購入したりしたものです。 一つの着る物を大事に使います。 すり切れそうな処は事前に裏当てしておきます。袖は下ろさずにいます。江戸っ子の絵になる尻っぱしょりは、「尻っ端折り」と書くように、尻近くの端に相当する裾を守という目的もあります。 すなわち、すり切れやすいのが端ですので、その部分を保護することにより、古着として販売するときの商品価値をできるだけ下げないように来ていたのです。 尻っぱしょりをするというのは、イコール褌をしているということです。褌なしに尻っぱしょりはさすがにできません。すなわち尻っぱしょりは、それそのものがステータスなのです。 とにかく、当時、褌は高級品であり、ステータスシンボルの一つなのです。 褌というと「越中褌」「六尺褌」がすぐに思い描かれます。 「越中褌」の名前の由来には諸説あるようですが、その一つが越中富山薬屋さんが置き薬の景品として使ったことから全国的に使われるようになったそうです。 「長さ100cm程度、幅34cm程度の布の端に紐をつけた下着である。一部ではクラシックパンツ、サムライパンツとも呼ばれている」(【Wikipedia】) ■ ■■ 江戸のレンタル・ブティック 31 生地が貴重な時代ですので、褌をはけない人が多かったのです。銭湯での盗品のナンバーワンが褌でした。盗まれないように褌を頭の上に乗せて手ぬぐいで縛り付けている絵を見たことがおありでしょう。自衛策だったのですね。 褌の普及率はどのくらいなのかはわかりませんが、上方よりも江戸の普及率の方が高かったようです。高級品ということからも、下着なしの男性が多かったことは推定できます。 それに対して、女性の下着といえば「腰巻き」です。腰巻きに至ってはほぼ100%の女性が身にまとっていました。ここにも江戸の女性優位が現れているのでしょうか。 きもの類だけではなく、リサイクルが一般的であった江戸では、揮や腰巻きですら古着屋に出すのです。 古着屋では、それをリユースに回すこともありますが、古い腰巻きで頭巾にリフォームして販売することもあったようです。 江戸の神田明神下というと銭形平次ですが、江戸のど真ん中を流れているのが、南こうせつさんで有名になった「神田川」です。 古着屋というのは、神田川沿いの柳原土手に並んでいたようで、屋台形式の店舗から、キチンとした店舗まであったようです。屋台形式ですとすぐに畳めるというメリットがあり、商売に成功したり、逆にうまくいかないと店じまいをしたりしました。 上方は、衣類の街でもあり、江戸に比べると品が豊富だったようです。古着のリユース需要は江戸ほどではなく、江戸の古着屋は上方から仕入れていました。 古着が一般的であり、一生のうちに3~4着ほどしか消費しなかった江戸では、祝言など、ここ一番というときには「レンタル・ブティック」を利用していました。 「レンタル・ブティック」というのは、「損料屋」といいました。借りて使うことにより、品の価値が下がります。それが「損料」なのでしょう。 損料屋では、着る物だけではなく、小物などの持ち物から履物まで、なんでも揃いました。 利用者が多いことから損料屋は銭湯と同様にあちらこちらにたくさんあったようで、気軽に利用していました。 江戸の女性が何をしなくても済む例として、子育てがあります。江戸では子供は「共有財産」ですから、街ぐるみで育てるために、子育てに煩わされることも少なかったのです。 とにかく、江戸の女性は何もしなくても済むようにサービス産業ができていたのです。 ■ ■■ 江戸のアウトソーシング付加価値ビジネス 32 前回、江戸の「レンタル・ブティック」の話でリサイクル、リユースについてご紹介しました。 洗濯屋も結構繁盛していました。江戸時代の新規産業の一つで、江戸中期にできたようです。 江戸の女性は強かったこともあり、手間のかかることはあまり自分ではやらず、アウトソーシングしていたのです。大変な手間となる洗い張りなどはほとんどの女性がやらなくなってきました。 その分、洗濯屋が繁盛したのでしょう。 洗濯屋だけではなく、サービス産業は江戸では結構流行っていたようです。それもそのはず、江戸には単身赴任者が多かったのです。 江戸の単身者需要を当て込んで、アルバイト的に「江戸のかかあ」はいろいろと現金収入の道を考えていたようです。 ウジ虫も湧くような男やもめだけではなく、単身者の部屋の掃除する仕事がありました。単身男性では、繕い物もあります。これらのトータルサービスをするビジネスがあったのです。オールパックで月額いくらという料金設定でした。 八百屋のかかあは、売れ残った野菜くずを漬け物パックにして売っていました。野菜として買うと8文のものが、くず野菜で16文になるのですから、こんな“うまい”話はないですよね。 すでに付加価値を考えたビジネスというかニッチ産業としてのビジネスが江戸時代にあったのです。 ■ ■■ 江戸遊郭のマーケティング 33 江戸時代のファッションの発信地は吉原と京都の島原の遊女立ちであったようです。さしずめ、吉原は、現代で言うと「パリコレ」的な存在でありました。 吉原というと遊郭のイメージが強いですが、そのようは娼婦街というよりは、現代のハリウッドのような、夢を生み出す所といえる程でした。 最上位の花魁(おいらん)は、ハリウッドの大女優と同じで、庶民は拝むような感じです。 吉原へは、遊びに行くと言うより、自分に磨きをかけるために行くようなもので、行く前にはかなりのプレッシャーがあったといいますから、われわれの常識は覆される思いです。 吉原に行くには、柳橋のあたりから猪牙船に乗って行きます。もちろん陸続きですから歩いても行けるのですが「粋」ではないのです。吉原に入る前から、その人の「格」が試されているのです。 そこに行く前にすでに出来上がっているので、すごい料理が出るのですが、ほとんど箸を付けないそうです。見栄の世界なのです。 江戸も宝暦年間(1751~64)位までは、花魁が華々しい時代でしたが、化政期(1804~30)に入った頃には吉原の権威は失墜し、高いばかりでそっぽを向かれてしまっていたようです。 吉原に代わって、実質を重んじて、品川や深川のほうに客足が変化をして来ました。 この頃、遊郭の世界にマーケティングが入って来ました。客を離すまいと割引制度やクーポン券の発効などが行われたといいますから、マーケティングが実践されていたと言っても過言ではないのかもしれません。 ■ ■■ 江戸時代にアイシャドーがあった 34-60-1307 吉原へ行くときに、男はずいぶんファッションに気を遣ったようです。なにしろ外見で値踏みされるのですから当然でしょう。 髭の先からつま先まで、練りに練ったといわれています。ファッション・コーディネーターよろしく、指南役がいるのです。 また、事前にジョークを仕入れておきます。中には手帳もどきモノをもっていて、20ものジョークを書いておいたそうです。その中で、花魁がいくつくらい喜んでくれるのかを楽しみ行くのです。 本多髷(まげ)という髪型が流行していました。「本多にあらずば通人にあらず」といわれる程でした。 中剃りを耳のぎりぎり上まで剃りあげて薄く盛り上げる結い方です。耳の上がバーコードのようになるのだそうです。細い鶴の足のような髷を、鼠の尻尾のようにして、頭頂部にたらすのです。近年では珍奇に見えるのか、最先端に見えるのか解りません。 そろそろと、すり足で歩かないと崩れてしまうほどだそうです。 眉毛は抜きあげて、細くし、剃った額に、青黛(せいたい)という顔料です。現代のアイシャドーに相当するようで、それをべったりと塗るのだそうです。それも剃ってすぐというのは粋ではなく、二日目くらい経って、ビロード状に生えた頭がカッコいいのだそうです。 ■ ■■ 火事と隠居がつくり上げた文化 35-61-1308 江戸時代も後期に入ると、流行の源は役者から広まりました。 それまでは「十八大通」といった通人を気取ったお金持ちがファッションを自分で工夫をした時代がありました。 成金のまねを皆がしたのです。とりわけ、成金の二代目、三代目あたりがねらい目で、相当な贅沢をいていたようです。 「何の役に役にも立たない贅(ぜい)」がおしゃれの極致だったようです。 これを見ても解るように、江戸の文化は商人あっての日本文化であることが解ります。ただし現役のうちは仕事に精を出して遊びにかまけてはいません。隠居してからのことです。 江戸文化を生み育てたのは、小唄、歌舞伎、盆栽、釣りなどです。いずれも隠居さん達が育て上げたものです。隠居は死ぬまで財産管理権を持っていたので、自由になるお金がたくさんありました。今日のシルバー世代でも、江戸の隠居さんにはかないません。 換言すると隠居が江戸の文化をつくり上げたとも言えます。 江戸の「粋」や「通」の精神は、そこにあるといえますが、今ひとつ忘れていけないのが火事です。 江戸には火事が多かったということは皆さんもご存知でしょう。 立派な建物を作っても火事ですぐに焼けてしまいかねません。そこで「江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇ」という精神が醸成されたのです。 京都には神社仏閣をはじめとした形あるモノが残っていますが、江戸はこのようなわけで形あるものではなく、「文化」を残したといえます。火事が少なくなってから本当の江戸っ子がいなくなったと言われるほどです。 江戸時代には、世界にも珍しいほど長い期間戦がなかったことも、独特の文化を花開かせることになったといえます。 |
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杉浦日向子の江戸塾 1~25 | ||||
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巳年→みどし→見通し へび年は「巳年」と呼ばれます。「巳年(みどし)」は「みとおし」すなわち「見通し」「見透し」に通じます。先見性をもって、判断し、行動することが求められています。グローバル化が一層進みますので、経営の意思決定の迅速さはさらに求められるでしょう。 |