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私が訪れた名所旧跡です。

ケイタイやスマホのカメラで撮影したものもありますので画質があまりよくありません。
私の限られた感性での写真ですので、たいした作品でもありません。
自分自身の作品を、自分のために整理したものです。
奈良県  吉野山 金峯山寺3 
公式サイト 吉野山パンフレット 金峯山寺パンフレット 関連資料(秘) 

 金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山です。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角と伝えられています。

 金峯山寺のある吉野山は、桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝の中心地でもありました。

 古代から山岳信仰の聖地であり、あることから桜を愛でる人だけではなく、多くの参詣人を集めてきました。金峯山寺は、その中心的な堂宇なのです。

 ここでは、2019年5月に金峯山寺を訪れたときの写真を中心にご紹介します。

所在地  〒639-3115 奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
山号    国軸山(こくじくさん)
宗派    金峯山修験本宗
寺格    総本山
本尊    蔵王権現3躯(秘仏、重要文化財)
創建年   7世紀後半
開基    (伝)役小角
札所等   役行者霊蹟札所 神仏霊場巡拝の道 第39番
文化財
 本堂(蔵王堂)、仁王門、大和国金峯山経塚出土品ほか(国宝)
 銅鳥居、木造蔵王権現立像3躯ほか(重要文化財)
世界遺産

■ アクセス

 時間   8時30分~16時30分 年中無休

 交通アクセス
  近鉄吉野線吉野駅よりロープウェイ5分、吉野山駅より徒歩10分

 JR線に「吉野口」という駅がありますが、そこは、吉野山に行く人は、乗換駅に過ぎませんので、そこが吉野山への入口と誤解されないように・・・

 私は、JR奈良駅から向かいましたので、吉野口で近鉄線に乗り換えました。

 大阪阿部野橋駅から近鉄線で行く方が、特急もありますので、乗り換えなしで一本で行けますので、こちらの方が便利なようです。

 



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吉野山 金峯山寺 付帯諸堂宇

吉野山  行者堂


行者堂

銅鳥居横にある役行者を祀る小さな祠



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■ 役行者 えんのぎょうじゃ

 役行者、別名「役小角(えん の おづぬ /おづの /おつの)
 舒明天皇6年(634年)伝 -  大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)

 飛鳥時代の呪術者で、役優婆塞(えんのうばそく)という呼び名でも広く知られています。

 姓は君、修験道の開祖とされています。

 実在の人物ですが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きく、真の姿が見えない部分があります。

 天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など、多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があります。

吉野山  後醍醐天皇導之大神


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■ 後醍醐天皇導き之稲荷大神

 北朝方との対立が激しくなって、やむをえずひそかに京都の花山院を脱出した後醍醐天皇は、延元元年(1333)12月28日に古野山の行宮(あんぐう:仮の宮)に着くことができました。



後醍醐天皇導き之稲荷大神 鳥居扁額

■ 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)

 1288年11月26日〈正応元年11月2日〉- 1339年9月19日〈延元4年8月16日〉

 大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子 鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇、南朝の初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉-1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。

 鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立しました。

 元弘の乱(元弘の変)により、元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流されました。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していました。

 元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、挙兵します。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して、六波羅探題を攻略しました。

 その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させることにつながります。

吉野山 金峯山寺 南朝妙法殿への道


左朱色の建物は「絵馬堂
中央奥の塔は「南朝妙法殿」です。

蔵王堂を背に右手は急な階段で一段低いところに繋がります。
その手前右手には、女坂がありますので、
そちらから降りると足元が楽かもしれません。
(写真中央に御手洗いもあります)



蔵王堂から見る絵馬堂



階段を降りたところに「吉野朝(南朝)宮址」の石柱があります。

この辺り一帯が、南朝が展開されたところです。


■ 南朝妙法殿

 後醍醐天皇は、延元元(1336)年、幽閉先の京の花山院を脱出し、吉野に潜幸しました。潜幸先は、最初は吉水院に入り、そこを行在所としました。手狭であるため、翌春、蔵王堂の西にあった実城寺を皇居としまし、寺号を金輪寺と改めました。

この寺は、明治初年に廃仏毀釈で廃寺になり、建物一円も取り払われました。その跡に昭和33(1958)年、南朝四帝や忠臣の霊と先の大戦での戦没者追悼の施設として「南朝妙法殿」が建設されました。

 本尊「釈迦如来像」は、重要文化財に指定されています。



階段を降り、南朝妙法殿の方に歩いて行きますと
木陰にベンチもあります。



南朝四帝や忠臣の霊と
第二次大戦での戦没者追悼の施設としての
南朝妙法殿



三層の建物です



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里帰りの大藤



里帰りの大藤

吉野山 金峯山寺 南朝妙法殿


南朝妙法殿の扁額



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南朝妙法殿の内陣



本尊「釈迦如来像」(重要文化財)


吉野山 金峯山寺 仏舎利塔


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■ 仏舎利宝殿 (ぶっしゃりほうでん)

 昭和42年(1967)に、金峯山寺五條覚澄大僧正がインドに渡った折に、ガンジー元首相より、お釈迦様の御真骨が贈られました。ここに泰安されています。

 山上が丈岳で採火された聖火と、比叡山延暦寺の「不滅の法燈」をご宝前に掲げ「仏舎利不滅の法燈」として釈尊(お釈迦様)の遺法を伝えています。

先祖回向の場でもあります。



お釈迦様の御真骨が祀られています。



法輪が足したお印



仏舎利不滅の法燈がともされています



仏舎利殿内陣



仏舎利宝殿横の多重石柱

吉野山 金峯山寺 役行者銅像他


仏舎利宝殿の近くにある「南朝地蔵尊」



役行者銅像


 日本の正史『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生しました。

 名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山上にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられています。


 一時は、謗言によって伊豆大島に流罪になったりしましたが、701年(大宝元年)無罪がわかり、許されて都に戻りました。

 同年6月7日68歳で、「母を鉄鉢にのせて海を渡って入唐した」などと多くの伝説が残されています。

 その尊像の多くは、折伏した2匹の鬼(前鬼・後鬼)を従えた仙人風の姿で祀られています。



一願不動像



役行者銅像前から下を見る



途中に休憩所があり、そこに立つ地蔵像

吉野山 金峯山寺 脳天大神


蔵王堂のご本尊「蔵王権現」の化身である
「脳天大神」は、
頭から上に関する願い事を叶えてくれます。

 http://www.yoshinoyama-sakura.jp/temple/t_nouten.php

住所  吉野山2498TEL0746-32-4880

 金峯山寺の蔵王堂から西側へ急な坂を下りた川沿いにある、金峯山寺の塔頭のひとつです。

  頭を割られた大蛇(金剛蔵王大権現の変化身)を祀っており、「吉野の脳天さん」と親しまれています。

 首から上の病気に霊験あらたかと言われており、入学試験合格、病気全癒、商売繁盛祈願の参拝参詣者が多く訪れます。



金峯山寺仁王堂階段下にある「脳天大神参道」の石碑

右手に進みますが、蔵王堂横からも行かれます。



脳天大神の鳥居



宝泉坊水子地蔵堂
その隣に脳天大神龍王院があります。



日吉神社



日吉神社前から後ろを振り向く


 
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