40年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
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12月17日 | |
■ 年の瀬 今年も余すことろ2週間あまりとなりました。東京に住んでいる人は、浅草の年の市(としのいち)や羽子板市で年の瀬を感じるでしょう。 年の市では、六大市がたち、正月の飾り物や縁起物、関連雑貨などが売られます。羽子板市は、浅草寺の境内にある仲店で羽子板を売る露店が建ち並びます。その年を代表するキャラクターの羽子板が伝統的なものの中に並びます。 東京の年の瀬は、台東区の浅草観音に代表されます。12月中旬から下旬にかけて、注連縄(しめなわ)や門松などの正月の飾り物、縁起物、雑貨などを売る市です。 因みに「六大市」というと、当ブログの江戸塾でおなじみの深川八幡は当然含まれます。銭形平次で有名な神田明神や芝明神、芝愛宕権現、平河天神の計6カ所です。 |
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■ 羽子板市 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ またひとつ羽子板市で年の瀬を感じます 12月17〜19日には、東京・浅草寺境内で羽子板市が開催されます。 羽子板市は、年の瀬に行われる行事のひとつで、浅草寺だけではなく各処で開催されます。 浅草寺では、仲見世通りを始め、境内に露店が並びます。 縁起物の羽子板ですので、ご祝儀相場で何万、何十万という高値がつくこともあります。 定価というのはなく、丁々発止のやりとりの末、値段が落ち着きます。 しかし、相場の値段より安く価格が決まった場合には、その差額をご祝儀として売手さんに渡すのが粋な計らいですので、結局定価で購入するようなものです。 京都の新京極の市も全国的に知られていますね。 |
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■ 沢庵 宗彭 没 たくあん そうほう、澤庵 天正元年12月1日(1573年12月24日)− 正保2年12月11日(1646年1月27日) 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、諡は普光国師、号に東海・暮翁などがあります。 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれで、紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開きました。 8歳のとき但馬山名家は織田信長の侵攻に遭い配下の羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人しました。 天正10年(1582年)、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得ました。 天正13年(1586年)、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事し、秀喜と改名しています。 天正19年(1591年)、希先が没した後、この間に出石城主となっていた前野長康が、大徳寺から春屋宗園の弟子・薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いたことで、沢庵は薫甫に師事することになりました。 文禄3年(1594年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入りました。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名しています。 慶長4年(1599年)、石田三成が居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、三玄院の建立以来親交がありました春屋に住職の派遣を依頼しました。 春屋が薫甫を住職に任命したことで、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行し、翌年までそこで過ごしました。 慶長12年(1607年)、沢庵は、大徳寺首座となり、大徳寺塔中徳禅寺に住むとともに南宗寺にも住持しました。 元和6年(1620年)、郷里出石に帰り、出石藩主・小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結び、これを投淵軒と名づけて、隠棲の生活に入りました。 寛永18年(1641年)、長年の努力が実り、紫衣事件の発端となった大徳・妙心両寺の寺法を旧に復すことが家光より正式に申し渡されました。こうして大徳寺派・妙心寺派寺院の法灯は続くことになったのです。 書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残しています。沢庵漬けの考案者と言われていますが、これについては諸説があるようです。 ■ 酒井忠次 徳川家康のNo.2として苦言を呈す さかい ただつぐ 大永7年(1527年)−慶長元年10月28日(1596年12月17日) 酒井忠次は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将で、徳川の筆頭とされ、家康第一の功臣といわれています。 酒井忠次の生誕地である井田城址で、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として今日の愛知県岡崎市井田町です。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕えていました。 竹千代(徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、家臣の中では酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)として同行しました。この後、松平元信(徳川家康)の配下として仕えました。弘治2年(1556年)、柴田勝家に2,000騎で激しい攻防の末、勝家を敗走させるなど軍略にも長けていました。 永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの酒井家武将と行動を別にして、家康に従いました。 石川一正が、西三河を、忠次が東三河を統制することとなり、家康の主な戦いには全て参戦し、功を残しています。歯に衣着せぬ物言いをする人ですが、家康の厚い信任を受け、家康第一の重臣となりました。 松平家が、織田信長から武田との謀反の詰問を受けたとき、家康の息子信康を十分に弁護できませんでした。これが家康の心のそこにあったのか、他の重臣が多くの禄を加増されましたが、忠次は、その恩恵を受けませんでした。 天正16年(1588年)、長男の家次に家督を譲って隠居しました。加齢、眼病などがその理由のようですが、家康のやり方に嫌気がさしたのではないかと、私は考えます。 慶長元年(1596年)10月28日、京都で死去、享年70、墓所は知恩院の塔頭・先求院で、墓は知恩院山腹の墓地内にあります。 |
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