4月13日 |
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■ 【今日の写真】 春の京都 円山公園
1886年(明治19)開設の市最古の公園。八坂神社の東、東山を背に約86,600m2あり、回遊式日本庭園を中心に、料亭や茶店が散在、四季を問わず風情がある。京都随一の桜の名所で、花見時の‘祇園の夜桜’は圧巻。野外音楽堂、あずまや、藤棚、便所、池泉、噴水。(京都観光ナビより)
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4月13日 |
■ アポロ13号
1970年4月13日は、映画にもなったアポロ13号が酸素タンクの爆発で月面への着陸を断念して、地球に戻ることになった日です。映画では、どれほどの脚色がなされたかわかりませんが、ラヴェル船長の沈着さや、その指示に従ったクルー、それを支える地上要員の活躍は、チームプレーの重要性を教えてくれました。
発射の2日後に電線がショートし、その時の火花で機械船の酸素タンクが爆発したのです。電力と水の不足、大気圏再突入時に必要な電力や酸素、生活のための暖房や水不足との闘いはさぞかし過酷だったでしょう。
2011年3月11日の東日本大震災とオーバーラップをして思い出しましたが、アポロの複雑な構造は原子炉のそれよりも格段の違いがあるでしょう。「想定外」という言葉は便利に使われてきましたが、人知の及ばぬ自然の力の強大さを考えると、神にしかその危険度はわからないのでしょうか。そうだとするとわれわれは原子力発電という両刃の剣を持つべきではないのかもしれません。
■ 喫茶店の日
1888年4月13日に、日本で最初の喫茶店と言われる、東京・上野の「可否茶館」が開業しました。
同店はハイカラな洋館で、その1Fは、ビリヤード場で、2階が喫茶室でした。
当時牛に結うが1杯2銭の時代でしたが、コーヒーは、牛乳よりも安い1銭5厘だったそうです。値段が安すぎて、利益が出なかったのか、喫茶店の認識が薄く顧客が少なかったのか、残念ながら5年に閉店してしまったそうです。
近年、コーヒー・チェーン店におされ、喫茶店が少なくなってしまっています。喫茶店と言えば名古屋といわれますが、その名古屋でも入りたいと思える喫茶店が少なくなってしまったように思えます。
喫茶店は、ゆったりとした雰囲気のところが多く、喫煙者がよく利用するようです。たばこを吸ったことのない私には、煙が充満した、あの臭いがなんとも受け入れられません。
かつて、私が経営コンサルタントの減益としてバリバリやっていた頃、打ち合わせには「談話室 滝沢」を利用することが多かったです。
新宿だと東口、池袋だと三越(今は閉店)の近くにあり、ほかのお店も駅から近い割りには静かなたたずまいを醸し出してくれました。
ソファーがゆったりとした気分にさせてくれ、ほどよい高さのテーブルは打ち合わせにはぴったりでしたし、何よりもウェートレスさんがすばらしかったです。
同店のウェートレスさんは、アルバイトではなく、正社員だったのです。人材育成など人件費が嵩んで、経営 がむつかしくなってしまったのでしょうか。
その滝沢も2005年に閉店してしまいました。あの雰囲気と居心地の良さがなくなり、残念です。
■ その他
◇ 京都嵯峨虚空像十三詣り
◇ 善導寺善導忌
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【経営コンサルタントの独り言】
■ 「13」は本当に縁起の悪い数字なのか?
13という数字を忌み嫌う人もいます。キリストの受難の日が「13日の金曜日」とされている俗説からといわれています。
しかし、キリスト教の信者の話によると受難日は金曜日とされているが日付は定められていないとのことで、この俗説は誤りといえそうです。
映画にもなったアポロ13号が月面着陸を断念して、地球に戻ることになった日も13日であったそうです。
なぜ、断念せざるを得なくなったのか、なぜ、無事に帰還できたのか、冷静沈着な対応の大切さを思い知らされる出来事でしたね。 |
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■ 石川啄木忌
いしかわ たくぼく
1886年(明治19年)2月20日−1912年(明治45年)4月13日)
日本の歌人、詩人で、本名は「石川 一」は、結核によりわずか27歳でなくなりました。
岩手県南岩手郡日戸(ひのと)村(現在の盛岡市日戸)に、曹洞宗日照山常光寺住職の父・石川一禎(いってい)と母・カツの長男として生まれました。
1898年(明治31年)12歳、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学校と改名、現盛岡一高)で学びました。同校の三年先輩には金田一京助が、また、10年後には宮沢賢治が入学します。
中学生時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合うことになります。
『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)や及川古志郎らの影響を受け、文学への志を抱きました。短歌の会「白羊会」を結成したのもこの頃です。
1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載されました。これが初めて活字となった啄木の短歌だったのです。
1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて堀合節子と将来の話をし、後に結婚します。
啄木は盛岡において落ち着いた生活が続きましたが、1907年(明治40年)1月、函館の文芸結社・苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)より原稿の依頼があり松岡蕗堂らと知遇を得ました。
1907年5月5日、函館に移り、5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てます。函館区立弥生尋常小学校の代用教員となりました。代用教員在職のまま函館日日新聞社の遊軍記者も兼ねましたが、函館大火により勤務先の小学校・新聞社がともに焼失してしまいました。
近く創刊される野口雨情がいた小樽日報社の『小樽日報』記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社しました。雨情の起こした主筆排斥運動に荷担しましたが、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になりました。
1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光二郎の講演を聴き、西川と面識を得て、釧路新聞 (2代目)(現在の北海道新聞社)に編集長として勤務しますが、上司への不満と東京での創作活動へのあこがれから、釧路を離れる決意をしました。
1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記します。『スバル』創刊、発行名義人になります。3月1日に『東京朝日新聞』の校正係となります。
1910年5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆します。6月3日には明治天皇の暗殺を計画したとされる幸徳秋水・管野スガら社会主義者・無政府主義者が多数検挙された大逆事件が発生しました。
1930年(昭和5年)京子が妊娠中に急性肺炎を起こし、二児を残して24歳で死去、その2週間後には房江も肺結核により19歳で急逝しています。
啄木の詩などからは、想像のできない波乱の人生だったように思えます。
■ 伊能忠敬 日本の正確な姿を明らかに
いのう ただたか
延享2年1月11日〈1745年2月11日〉−文化15年4月13日〈1818年5月17日〉
江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家
通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。
上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれました。後に伊能家の養子に入ります。
忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村でした。伊能家は、その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていました。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていました。
田沼意次は、幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行しました。明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告されました。
佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もなかったのですが、ようやくやりたいという人物が表れ、江戸との交渉役に忠敬は江戸へ出向くなど、村のためにも活躍しました。
忠敬は、名主にも推挙されたのですが、天明3年(1783年)、浅間山の噴火などに伴って天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となり、そこでも手腕を振るいました。
一方で、忠敬は暦学に興味を持っていて、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごしていました。長男景孝に家督を譲り、店の仕事を任せるようにしました。次のような家訓をしたためて景敬に渡したといわれています。
第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし
第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし
第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず
寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、忠敬は、当時の暦の権威者である高橋至時の弟子となりました。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳でした。昔の中国の暦『授時暦』が、実際の天文現象と合わないことに気づいていた忠敬が、その理由を江戸の学者たちに質問したときに、唯一回答できたのが至時だったので師事したという話が伝えられています。
忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていたという逸話もあるほどです。師至時は、暦法『授時暦』やティコ・ブラーエやケプラーの理論にも通じていました。
寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導につきました。その時に天体観測についても教えを受けたのです。観測技術や観測のための器具について精通していた重富を通じて観測機器を購入し、自宅に天文台を作り観測を行いました。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかったそうです。
蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まり、アダム・ラクスマンが根室に入港して通商を求めたり、択捉島上陸事件などが起こったりました。瀑布は、蝦夷地の調査を行わせ、堀田仁助には蝦夷地の地図を作成させました。
これらを契機として、忠敬にも命が下り、寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発したのです。辛苦の地図作成作業が始まり、蝦夷地から種子島などまで南下し、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国の測量を果たしました。間宮林蔵などの樺太測量などとあわせて、没後、『大日本沿海輿地全図』が完成され、国土の正確な姿を日本地図として明らかにしたのです。
1818年、74歳の生涯を閉じました。1883年(明治16年)、正四位を授かっています。
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■ 池 大雅
いけの たいが
享保8年5月4日(1723年6月6日)− 安永5年4月13日(1776年5月30日)
諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)
日本の江戸時代の南画を中心として文人画家であり、書家でもあります。
雅号は、数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などがよく知られています。
与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者といわれます。
享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれ、父を早くに亡くし経済的に苦しい中にもかかわりませず、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始め、神童ともたたえられました。
柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出されました。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富んでいます。
室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立しました。
大雅は、董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に敬重し、旅と登山を好んだようです。旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされています。
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■ 徳川 夢声 無声映画時代の弁士であり、漫談家、作家、俳優
とくがわ むせい
1894年4月13日 − 1971年8月1日
無声映画時代の弁士であり、漫談家、作家、俳優で、本名は、福原駿雄(ふくはら とお)です。
ラジオ・テレビ番組などをはじめ、多方面で活動した日本の元祖マルチタレントとも言える人物です。
好きな男性のことを「彼氏」という表現を造語し、「恐妻家」もその一つです。
日本放送芸能家協会(現・日本俳優連合)初代理事長で、いわゆる「3つの袋」と言われます。
結婚式のスピーチの定番ともいえますスピーチという行為やそこでの言葉や表現を作った人とも言われているほど、結婚式でのスピーチも多く、多くの表現を使っています。
何気なく使っている、私たちの言葉も、彼が造語したり、口癖にしたりしている言葉かもしれません。
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【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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