40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。
当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 |
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■ 【今日の写真】 花の女王「ラン」 国際ラン展より |
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2月5日 | |
■ 長崎二十六聖人殉教の日 1596(慶長元)年2月5日に、豊臣秀吉の名により、カトリック教徒が弾圧され、長崎西坂で26人が処刑されました。 殉教したのはペトロ・バプチスタ神父を含む6人の外国人と日本人20人です。この26人は、1862年にローマ教皇ピウス9世の時に「聖人」に列せられました。 しかし、その背景には、キリシタン大名等の行き過ぎたやり方がありました。キリスト教徒が寺社を焼かれたり、僧侶を迫害したりしたのです。 これは少々信じられない行為ですが、こともあろうにポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売ったということがわかりました。 それもあって秀吉が「バテレン追放令」を発布したのです。 禁制扱いされた宗教を邪宗門ということは知られており、北原白秋の邪宗門も出されています。キリシタン弾圧は歴史的には何度も行われてきましたが、秀吉のキリシタン弾圧による長崎西坂の二十六聖人殉教レリーフの記念碑は有名です。 |
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■ ふたごの日 「ふた(2)ご(5)」の語呂合せから、2月5日を双子育児用品の専門店・ベラミが制定しました。 ベラミ(Bel-Ami)は、もともとは、モーパッサンの小説のタイトルで、「美しい男友達」という意味です 【Wikipedia】 ジョルジュ・デュロア |
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美貌の青年:ジョルジュ・デュロアが、女性たちを利用して栄達する姿を描く。自然主義文学の典型例とされる。 軍隊から除隊し、アフリカからパリに戻ったデュロアは、職もなく困窮していた。再会した戦友:フォレスティエの紹介で記者となるが、エッセイ記事が書けず、フォレスティエの妻:マドレーヌに代筆させる。 デュロアは記者の立場と美貌を武器に上流階級の夫人たちに取り入り、ド・マレル夫人、ヴァルテール夫人を次々に利用していく。フォレスティエの死後、マドレーヌを妻とするが、財産を奪い、彼女の不貞を理由に離婚する。最後は、新聞社の社長令嬢:シュザンヌと再婚する。 |
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ベラミ |
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■ プロ野球の日 |
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【経営コンサルタントの独り言】 ◆ 長崎二十六聖人殉教の日と邪宗門 学生時代に、東京から車で西日本を一周したことがあります。 その時に、長崎で二十六聖人殉教の碑を訪れました。 何の知識もなく行ったのですが、秀吉はひどいことをする男だったのだ、という単純な思いをしました。 白秋の邪宗門というのは、受験のための知識としては持っていましたが、書を紐解いたこともありませんでした。 歴史的に見ますと、秀吉も、信長の比叡山焼き討ちほどはひどくなかったことがわかりました。 ポルトガル商人が、日本人を侮辱的ビジネスに使ったことが秀吉の逆鱗に触れたようです。 詳しくは、ブログでどうぞ http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/a92da0367acb2a8aefd9dd8b7c4f2c46 |
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■ その他 ◇ 三蔵会 |
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■ 一向上人(一向 俊聖) 踊り念仏の普及 いっこう しゅんしょう 暦仁2年1月1日(1239年2月6日)−- 弘安10年11月18日(1287年12月24日) 鎌倉時代の僧侶で、伝記に謎が多く、生没日も定かでなく、実在すらが疑問視されていましたが、考古遺物により、存在が証明されました。 伝承によりますと、筑後国西好田(福岡県久留米市か)の鎮西御家人草野氏の草野永泰の第二子に生まれたとあります。 俊聖(一向上人)は、寛元3年(1245年)に、播磨国の書写山にある圓教寺に入寺して天台教学を修めることとなり、建長5年(1253年)に剃髪受戒して名を俊聖としました。 翌年夏には書写山を下り、奈良の興福寺、鎌倉の蓮華寺(光明寺)をはじめ各地を遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念仏を修し、道場を設けるまでに至りました。 一遍と並んで浄土系遊行聖となり、各地を回り踊り念仏を広めました。 弘安七年、近江蓮華寺を立てて開基となりました。49歳で同寺で最期を迎えたといわれています。 ■ 尾崎 士郎 小説家、社会主義活動をベースにした作品が多い おざき しろう 1898年(明治31年)2月5日−1964年(昭和39年)2月19日) 小説家で、新聞連載小説『人生劇場』がヒットし、流行作家になりました。 愛知県幡豆郡横須賀村(現西尾市)、1898年に生まれました。 中学在籍中に、雑誌『世界の日本』に論文「いかにして選挙権を拡張すべき乎」を寄稿したことが契機となり、その評者の早稲田大学教授・永井柳太郎の目にとまりました。早稲田大学政治科在学中に、社会主義運動にかかわり、中退後、国家社会主義に身を投じたりしました。 1921年(大正10年)に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てるようになりました。 1933年(昭和8年)から都新聞に『人生劇場』を連載開始、大ベストセラーとなり、文芸懇話会賞を受賞しました。戦前、雑誌『文芸日本』、戦後に『風報』を主宰したりもしています。 川端康成とは関東大震災の翌年1923年(大正12年)に出会って以来からの変わらぬ親友で、葬儀の弔辞は川端康成が読み哀悼の意を表したそうです。 『石田三成』『真田幸村』『篝火』などの歴史小説も書いたほか、相撲にも詳しく、長編小説『雷電』など相撲関係の著作もあり、横綱審議委員を務めたこともあります。 展示物に徳利などがあり、相当なる酒豪であったそうです。1964年(昭和39年)、大田区山王の自宅で、直腸癌により、66才で死去しました。 尾アの功績は、平成20年5月にオープンした「尾ア士郎記念館」に表されています。 尾ア士郎記念館 https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/814873daf9796f4929d3c829754062d2 |
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【 注 】 「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。 |
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昨日 明日 | |
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