HOME  仏教  仏像  名所旧跡  スナップ
HOME
仏   教
仏   像
名所旧跡
スナップ

私のサイトへの訪問をありがとうございます。

へたの横好きで撮った写真をここにまとめておくことにより、必要なときに見やすいようにと考え、単なる思いつきで着手しました。

他人様に見ていただくというより、自分の作品を整理するためのページです。

カシャリ!一人旅
京都 洛北の旅 2015

曼殊院 詩仙堂 下鴨神社 山科
 関連資料

 2015年3月、前泊を含め2泊3日の旅でした。旅は実質2日目と3日目ですが、前泊しましたので1.5日のショートトリップでした。
 2日目は、修学院を訪問したかったのですが、見事抽選に外れました。何年かぶりに曼殊院と詩仙堂を回りました。最後に糺ノ森(ただすのもり)・下鴨神社にも寄り道をしました。
 3日目は、大石内蔵助で有名な山科に行ってきました。
 桜には、やや早い時期でしたが、のんびりとカメラを片手に歩いてきました。

京都 山科

  山科と言いますと、大石内蔵助、琵琶湖疎水、天智天皇等々のキーワードが思い浮かびます。

 この山科一帯は、平安時代には、山城国宇治郡山科郷という名で呼ばれていました。さらに歴史を遡ることができ、古くは縄文時代からの足跡が今も残されています。芝町遺跡や中臣遺跡からは土器や石器類が発掘されます。

 山科は大石内蔵助が討ち入り前に隠れ住んでいたといわれていますので、ご存知の方も多いでしょう。毎年12月14日には、「山科義士まつり」に住民の多くが参加します。

 半日のわずかな時間でしたが、山科の一端を垣間見てきました。



天智天皇 山科陵


天智天皇は、
日本で最初に時計を利用した人として知られています。
その記念の日時計がおかれていました。

天智天皇陵 入口

 万葉ロマンの世界をしのばせる鏡山や天智天皇陵も見逃せません。平安時代から存在するという数々の伝説を秘める有名社寺もあります。



入口付近から天皇陵方向を望む



天智天皇陵門



天智天皇陵門を入ったところ
陵の方向を臨む



天智天皇陵前の広場左手



天智天皇陵左側の松



天智天皇陵前広場左手の水場



天智天皇陵前広場の水場を上から見る

↑top 
天智天皇陵

 天智天皇の陵墓は、山科の駅から徒歩で10分足らずの処にあります。

 中大兄皇子と呼ばれた皇太子の時に、中臣鎌足らと共に、蘇我氏を滅ぼしました。いわゆる大化の改新を行った天皇です。




天智天皇陵の石碑
正面右に位置



天智天皇陵前は、広いスペースがあり、
玉砂利が敷かれていました。



天皇陵正面



天皇陵正面
右に石碑が見えます

天智天皇山科陵関連資料
↑top 
琵琶湖疎水

 京都にとって琵琶湖の水を引くことは昔からの夢でした。第3代京都府知事となった北垣国道が、明治維新による東京遷都のため沈みきった京都に活力を呼び戻すため、琵琶湖疏水の建設を取り上げました。

 山科北部を流れる琵琶湖疏水(第一疏水)は明治23年に完成しました。京都の近代化を目指して建設された大土木事業で、水力、干害、舟運等に利用できるようになりました。また、これにより、山科に新しい景観をもたらしたのです。

 天智天皇陵の入口まで戻り、狭い道を左折し、5分ほど歩いて突き当たりをさらに左折します。急な登りを数分歩きますとと、5分ほどで疎水に突き当たります。左に行きますと、インクラインや南禅寺に至ります。

 私は、右に、疎水沿いに歩きました。



急な階段を数十段上った先に
疎水が姿を現しました。
上流(写真前方)から、
疎水沿いに歩く人達に会いました。



歩いていると後方に大きな音がしました。
何かと思って振り返ると
モーターボートが走ってきました。
疎水が舟運にも利用されていることが
わかりました。



結構流れが速く、水量が多いのに驚きました。
その流れに沿って、
狭い水路をモーターボートが登るので
大きな白波が立ちました。



モーターボートが通ったあと、
水が騒ぎ、疎水の岸壁に大きく波を寄せていました。
下流方向に、大きな波が波打っていました。



上流の方も、山になった波が
壁を上流に向かって走って行くのが面白かった。

↑top 
安祥寺

 二〇分ほど歩くと、左岸に洛東高校が見えてきました。その先に疎水に架かる橋があり、渡ると正面に安祥寺がありました。

 九世紀中頃、仁明天皇の皇后藤原順子の御願で入唐僧(にっとうそう)恵運が開基です。昔は、上寺と下寺があり、山科北部に広大な地域を占めていたようです。上寺跡は毘沙門堂から約1キロメートル程の処にあります。安祥寺山中腹にあるのですが、道が険しく、近寄り難いというのであきらめました。

 名所図会に、下寺の多宝塔が描かれているそうですが、明治39年に焼失してしまったそうです。現在、一般には開放されていませんで、参拝はできませんでした。五智如来像(重文・平安初期)、蟠龍(ばんりゅう)石柱(唐時代)は京都国立博物館で見ることができるそうです。博物館を訪れたときに、そのことを知らず、見落としました。

↑top 
毘沙門堂

 安祥寺から、疎水沿いの道に戻り、一〇分足らずで安朱橋に至ります。左に曲がって、疏水を離れます。さらに毘沙門堂道を北に向かいますと、やはり一〇分足らずで瑞光院(毘沙門堂)に至ります。境内には浅野内匠頭の供養塔、四十七士墓、瑞光院遺躅碑(いたくひ)等が並びます。



http://www.bishamon.or.jp/

毘沙門天 ←クリック

  毘沙門堂は、天台宗五箇室門跡のひとつで、高い寺格と鄙びた山寺の風情を伝える古刹です。ご本尊は、京の七福神のひとつであります毘沙門天を祀っています。伝教大師作で、延暦寺根本中堂のご本尊薬師如来の余材をもって刻まれたと伝えられています。

 当門跡の公式サイトによりますと、創建は大宝三年(703)に、文武天皇の勅願で、僧行基によって開かれました。たび重なる戦乱から苦難の道をたどり、寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建されました。伝教大師が唐より将来された「鎮将夜叉法」という行法は、天台五箇大法のひとつとして、この門跡だけに伝わる秘法です。

 境内の諸堂は近世の門跡寺院特有の景観を伝える貴重な京都市の有形文化財です。山科盆地を見おろす山腹に位置し、春の桜、秋の紅葉は知る人ぞ知る京の名所です。 < 門跡公式サイトより >


門跡碑

後西天皇行幸の砌りに賜った勅号です。
極楽橋の傍に立つ寺号の碑

手前が極楽橋



失礼な言い方ですが、
これほど大きなお寺さんとは思いませんでした。
やはり門跡だけありますね。



仁王門までは、急な階段でした。



仁王門までの階段の途中に休憩所がありました。
左の建物が休憩所です。

↑top 
仁王門

仁王門(におうもん)

急峻な石段の上にある本堂への表門にあたります。
寛文五年(1665年)に建立された阿吽の二天像が護っています。



急な階段を上り詰めたところに
仁王門がありました。



仁王門には、
大きな毘沙門天の提灯が下がってました。
奥が本殿



左側の吽形像



右側の阿仰像


↑top 
本  殿



中門から本殿を臨む
中門を入って右が参拝受付


本殿



本殿西側回廊



本殿の外欄間



鮮やかな彫り物


 
↑top 
本殿回廊



本殿(左手)西側回廊
中央より奥に見えるのは鐘楼



本殿回廊

奥は三王社



本殿裏側回廊を霊殿から望む
左手が庭園
左の軒は、霊殿



本殿裏側回廊角
弁財天前の池が見える

 
↑top 
弁財天と霊殿

弁財天(高台弁才天、不老弁才天)は、本殿の東裏側
池の畔に立っています。
霊殿は、本殿西裏手

秋の弁才天は、とりわけ素晴らしいようです。



高台弁才天

太閤秀吉の大政所「おね」後の「高台尼」が
大阪城内で念じていた弁才天。



高台弁才天

当門跡中興第三世一品公弁親王が巡錫の砌り、
庶民福楽の為に、所望して当地に勧請せれた。


霊殿(れいでん)

阿弥陀如来を中央にして
歴代の影像や位牌が安置されています。
永禄六年(1563年)に御所の御霊屋として
建立されましたが、
第三世公辨法親王住持の時、
後西天皇より拝領移築されました。
< 門跡公式サイトより >



霊殿は建物全体が本殿と異なり
渋みがあります。その屋根



霊殿(右)回廊から、震殿へ回廊を見る
右手奥は井戸
回廊脇に一文字手水が見えます



霊殿と震殿の間の回廊にある井戸

↑top 
震  殿

御所にあった後西天皇の旧殿を
貞享三年(1686年)に第六皇子一品公弁親王が拝領し、
元禄六年(1693年)に移築を完了し当門跡の新書院としました。
< 門跡公式サイトより >


本殿から震殿を望む



落ち着いた雰囲気を醸し出す震殿



震殿の南面(正面)
勅使門に面している
震殿前の桜は、まだつぼみでしたが
咲いたらさぞかし立派であろうと思えます。



宸殿内部の障壁画百十六面は、
すべて狩野探幽の養子で
駿河台派の始祖狩野益信の作。

襖絵

テーブルが描かれた絵をどの角度から見ても、
鑑賞者が中心になるという
人間の目の錯覚を利用した逆遠近法の手法で
描かれていて、
話材として是非見て欲しい。

天井龍

霊殿の守護龍で、狩野永叔主信の作。
眼の向きや顔が、見る角度によって変化します。
多くの天井龍にある八方にらみの龍
四角に雲が描かれていますが、
それぞれ異なった色彩で描かれています。


板戸の衝立

圓山応挙筆。
平凡な杉板戸に描かれた鯉の
眼を見ながら左右にゆっくり動くと、
鯉が生きているように動いて見えます。

< 門跡公式サイトより >



軒に下がる鐘としては、大きい



奥が晩翠園庭園



震殿裏
左は晩翠園庭園



震殿から、霊殿を繋ぐ渡り廊下を逆方向から見る



震殿から本殿(中央)と霊殿(左)を望む

↑top 
晩翠園

晩翠園(ばんすいえん)

谷川の水を引いてきて滝にした江戸初期の回遊式庭園
「心字」の裏文字を形取った池となっています。
亀石、千鳥石、座禅石などが配置されている名園



晩翠園を、震殿から望む



回遊式、逆心字池の庭園
中央やや左の黒っぽい部分が
谷川の水を引いてきた滝



逆心池に注ぐ滝



晩翠園の一角にある
銘器の手水鉢に続く踏み石と階段




手水鉢(ちょうずばち)

晩翠園の一角にある銘器で
一品公弁親王が大変好まれた鞍馬自然石の手洗いで、
上野寛永寺へ下向の砌り
牛に引かさせて所持されたことでも有名である。
< 門跡公式サイトより >



池に浮かぶ多宝塔



本堂裏から見える弁財天



そばで見ると立派な弁財天


↑top 
勅使門

勅使門(ちょくしもん)

宸殿と共に第三世門主一品公弁親王が、後西天皇より拝領し、
元禄六年(1693年)に移築完了した
檜皮葺きの総門
陛下の行幸、勅旨の代参、並に当門跡門主晋山の大事以外は
一切開門されません。
< 門跡公式サイトより >



勅使門、写真右手に震殿


天皇陛下など、特定の人しか
通用を許されません。


震殿から勅使門を臨む



震殿前の桜



震殿前のしだれ桜

樹齢百年を超える巨木で、
その枝張りは三十メートルにも及ぶと言います。

まだ、つぼみは堅かったのですが
満開になったらさぞかし立派でしょう。



震殿前のしだれ桜の幹
古木であることが窺えます。


↑top 
 
 洛北の旅2015トップページ 
 曼殊院・鷺森神社
 詩仙堂
 糺ノ森・下鴨神社
 山科
↑top 
経営コンサルタント・グロマコン 
 日本コンサルタントアカデミー
 (特)日本経営士協会

HOME 仏教 仏像 名所旧跡 スナップ ↑top
 
Copyright© N. Imai All rights reserved