修善寺 山門 |
■ 山門
2014年に改修工事が完了し、改修に伴い、指月殿から金剛力士像が遷座されました。
金剛力士像は、古くは修禅寺の総門があった横瀬大門にありました。そこで、寺の入口の守護をしていたのです。
指月殿へ移されたのはいつの時代か不明ですが、現在は、金剛力士像は、山門の両脇に配されています。
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金剛力士像(阿仰)
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修善寺1 |
修善寺の山門へ |
4分 |
修善寺は、温泉街のほぼ中央にあり、山門には藤原時代作の阿吽の金剛力士像が配されています。 |
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修善寺 手水舎・納骨堂 |
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■ 手水舎 (ちょうずしゃ)
立派な甍を持つ手水舎ですが、一見しますとどこにでもありそうです。
近づいて龍の口から流れ出る水で手を清めてみてください。温かいのに驚くのではないでしょうか。
手水というのは、通常は水ですが、ここでは空海が掘り起こしたという温泉水が清めてくれます。
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納骨堂
本堂を正面に見て左手にあります。
ここで法事などが催されるのでしょう。
内部には金色に輝く仏像があり、
火灯窓もついていて、
厳かな雰囲気を醸し出してくれています。
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納骨堂前には、左右に羅漢像が拝されています。
一つ一つ顔かたちが異なります。
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納骨堂の前に、ハスがあり、ポンと音を立ててこれから咲きそうです。
境内には10本ほどモミジがあり、秋になると赤く色づいて境内を美しく彩どってくれるそうです。山門、鐘楼堂、手水舎のあたりが特に見事だといわれています。
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修善寺2 |
手水舎・納骨堂 |
5分 |
修善寺の手水舎では、水ではなく、空海による魔法の”水”が龍の口から流れ出ています。納骨堂には14体の羅漢像が配されてます。 |
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修善寺 本堂及び周辺 |
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■ 本堂
大同2年(807)に、当時は、密教形式の堂宇が多い中、弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺院です。
ご本尊の大日如来像(重文)は、源頼家が殺害されたときに歯は北条政子が作らせました。
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扁額「修善寺」
"空海以来の書聖"とたたえられる書家・政治家の
副島種臣(そえじま たねおみ)氏による筆
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【修善寺公式サイトより】
本堂の正面に掲げられた「修禅寺」の寺号額は、明治三筆の一人とも言われた書家であり政治家である副島種臣(1828-1905年)の揮毫です。種臣は佐賀藩出身で伯爵、外務卿、内務大臣などの肩書きを持つ明治の元老。明治38年に78歳で没しています。
弘法大師1050遠忌にちなみ、33世物應契先住職の代に修善寺温泉へ逗留していた種臣が、求められて揮毫したものです。蒼海または一々学人とも号した種臣は皇族や華族の定宿だった菊屋旅館の客でした。いずれも日付、肩書、落款は無いのですが、菊屋旅館にも三点の墨跡があり、また近年には修善寺小学校からも軸物が発見されています。
額は横246cm、縦108cmで、表面は書を写して陽刻され、下地の朱色が金泥になじんで趣のある古色をおびています。裏側には明治21年4月21日の日付、寄進した三島宿有志中として川島忠兵衛ほか8名の世話人の名前や、製作に携わった人々の名前が墨書されています。
平成18年春には種臣没後100年を記念して佐賀県立美術館で「副島種臣展」が開催されましたが、その際たまたまこの額は本堂大修復のため降ろされていたので初めて門外へ貸し出され展示されました。
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屋根の甍や鬼瓦も立派です。
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本堂前には、弘法大師(空海)の石像があります。
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修善寺3 |
修善寺の本堂 |
6分 |
修善寺の本殿は著名人の筆による扁額や屋根瓦・鬼瓦だけではなく本殿前の松や空海像も見落とせません。 |
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修善寺 鐘楼と境内 |
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百度石と石灯籠
前面に並ぶ四基の一番右側の屋根付きの石柱が「お百度石」です。
"お百度参り"による願掛けは、
ここをくぐって本殿との間を百回繰り返し往復すると
願い事が叶うと言われています。
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鐘楼堂
「鐘楼堂」は、構造・石積が全国有数の美しさを持つとして知られています。
平素は立入禁止ですが、
大晦日の夜は一般参拝者も除夜の鐘に参加できます。
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鐘楼堂としての建物の美しさも知られていますが、
玉石による土台もまた注意深く見たいものです。
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宝物殿
宝物殿には、頼家ゆかりの品や
岡本綺堂の「修善寺物語」で有名な古いお面もあります。
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