龍源院 |
〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺町53
http://www.rinnou.net/cont_03/07daitoku/ |
大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山で龍寶山と号します。龍源院は、大徳寺の塔頭の一つである。
大徳寺は、鎌倉時代末期の正和4年(1315)に、大燈国師宗峰妙超禅師が開創となりました。
室町時代には応仁の乱で荒廃したのですが、一休和尚が大徳寺を復興し、桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営むほどの重要なお寺となりました。信長の菩提を弔うために秀吉が総見院を建立したり、寺領を寄進したりし、それが契機となって、戦国武将が競うように塔頭の建立をしました。大徳寺も隆盛を極めていくようになりました。
大徳寺は、勅使門にはじまり、山門、仏殿、法堂(いずれも重文)に続き、方丈(国宝)が南北に並んでいます。その他を併せて「七堂伽藍」が完備しています。
特別名勝・史跡となっている大徳寺の方丈庭園は、江戸時代初期を代表する枯山水の一つです。方丈の正面に、聚楽第から移築された国宝・唐門があります。方丈内にある襖絵八十余面は重要文化財で、狩野探幽筆であると伝わっています。
平素は未公開ですが、10月第二日曜日が公開日となっています。残念ながら、方丈も方丈庭園も訪れる機会がありません。
龍源院は、総門を入ってすぐ左手角にあり、通常は公開していますので訪れやすい塔頭の一つといえます。私もこれまで、何度か訪れています。
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【龍源院パンフレット】 資料1 資料2
【アクセス】 京都市バス 1、204、205、206「大徳寺前」下車徒歩5分
【山内地図】 山内地図(PDFファイル)
【注意点】
大徳寺境内へは無料では入れます。
山内の各塔頭は、特別拝観時以外は拝観できるところが限られています。また、拝観料は、各処で支払います。
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■■ 龍源院(りょうげんいん) ■■
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9:00〜16:30 常時公開
http://odekake.huuryuu.com/daitokuji.html#ryogenin |
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■■ 龍源院
大徳寺塔頭の中で最も古いお寺 龍源院。
ここは室町時代から残る数少ない禅宗の建物、四つの石庭、時の権力者が対局した碁盤などがみどころです。
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龍源院の表門(重文)、門奥の正面がわが国最古の唐門(附玄関、重文) |
表門入ってすぐ左の灯籠 |
京都紫野の臨済宗大徳寺の塔頭で、南派の法源地本院として、由緒の殊に深く、朱色の大徳寺山門の前に、厳然と位置している大徳寺中で最
も古い寺である。
その名称も大徳寺の山号〔龍賓山〕の“龍"と、今日の臨済禅で唯だ一つのみ存続している松源一脈の“源"の両字よりなっている。
今より約500年前、文亀2年(1502)大徳寺のご開祖、大灯国師より第八代の法孫である東漢宗牧禅師(時の後柏原天皇より特に仏恵大円禅師
の号を賜わる。=1455〜 1517)を開祖として、能登(石川県)の領主であった畠山義元公、九州の都総督であつた大友義長公(大友宗麟の祖父)ら
が創建された。
明治の初め頃、神仏分離によって現在大阪の住吉神社の内に在った往時の慈恩寺と、岐阜高山城主金森長近公が大徳寺に創建した金竜院とを
合併して、今日に至っている。 <パンフレットより> |
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聚楽第に使われていた礎石
凸と凹と2つある |
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■■ こ沱底(こだてい)
入ってすぐ左にあるこ沱底(こだてい)の両端には、豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第(じゅらくだい)に使われていた礎石が置かれ、阿吽(あうん)の石庭とも呼ばれています。
軒先と塀の隙間にあるので圧迫感があって少し狭いかな。
【パンフレットより】
庫裡の書院南軒先にある(阿昨の石庭)で、吾が宗祖の臨済禅師が住まわれた、中国河北の鎮州城の南に流れる淳it河より銘がある。
その右と左の基礎石は昔、米楽第のものと伝えられている。 |
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聚楽第に使われていた凸礎石が奥に |
聚楽第に使われていた凹礎石が中央奥に |
奥が担雪井、創建当時より現存している古い野井戸 |
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■■ 一枝坦
方丈の前にある一枝坦(いっしたん)と言われる庭。
元々は樹齢700年以上の楊貴妃という山茶花が咲き誇っていたのですが昭和55年に樹齢尽きてしまったため、枯山水の庭園が造られたそうです。
角にあるのが蓬莱山(不老長寿の仙人がいる山)、そして大きい円と右端の岩が亀島と鶴島、砂利は海を表現しているそうです。
【パンフレットより】
龍源院の方丈前庭を“一枝坦"という。これは当院開祖の東漢禅師(1454〜 1518)が、釈尊の描華微笑という一則の因縁によって大悟せられ、その師、実伝和尚より賜った室号の、霊山一枝之軒より銘されている。
この一枝坦には曽て樹齢七百有余年を経た中国種の、山茶花“楊貴妃"という老木が生い茂り、11月中頃より翌年の4月頃まで、真紅の花を一面に咲かせてあまりにも有名であつたが、惜しきことに昭和55年春、樹齢つきて枯れ去ってしまった。
蓬莱山とは仙人の住む不老長寿の吉祥の島である。庭の中央右よりの石組が蓬莱山を現し、右隅の石組が鶴島であり、左の方の円い形の苔山が亀島で、白い砂が大海原を現している。この雑物一つなきそのままの端的な独創性の作庭は、おそらく他に全く類をみない庭園であろうかと思われる。 |
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左: 蓬莱山 右: 鶴島 |
蓬莱山の向こうに、黄梅院の甍が見えます |
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■■ 開祖堂
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開祖東漢禅師の南北朝、鎌倉、室町初期時代の様式を取入れた、塔所。
昭和に建立され、檜皮ぶきによる一重入母屋造の唐様木造建築の昭和時代の代表作です。開祖堂前庭は鶏足山と呼ばれています。 |
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■■ 竜吟庭
方丈の北側、僧の居住空間の前に広がる、相阿弥の作と伝えられる竜吟庭。
苔は大洋を表現し、三尊石組で陸地を表しています。
中央の高い石組が須弥山です。須弥山前にある丸い逢拝石は理想を示します。
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【パンフレットより】
方丈の北庭、室町時代特有の三尊石組から成る須弥山形式の枯山水庭園で、相阿弥の作と伝えられ、青々とした杉苔は、洋々と呆てしない大海原を現わし、石組が陸地を表している。
中央に高く突出する奇岩が須弥山で(註=仏説に、この世界は九つの山、八つの海からなっていて、その中心が須弥山)魏々として答えたち、人間は勿論、鳥も飛び交うことの出来ない、唯一人として窺い知ることの出来ない、真実の自己本来の姿、誰もが本来具えもっている超絶対的な人格、悟りの極致を形容表現している。
中央の須弥山石の前にある円い板石を逢拝石と言い、この理想、目的に一歩でも前進し、近づこうという信心の現れである。
追加写真
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■■ 東滴壺
方丈の東にある壺庭です。我が国で最も小さい格調高い石庭として知られています。
【パンフレットより】
底知れぬ深渕に吸い込まれそうな感じのする、格調高い石庭である。
追加写真
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■■ 方丈(重要文化財)
拝観入口を入って庫裡と書院の間を通って、正面奥が方丈です。室町時代の禅宗方丈建築として重要 です。
【パンフレットより】
室町時代の禅宗方丈建築として、その遺構を完全にとどめている唯だ一つのもので、我が国の建築史上、最も枢要な存在である。方文の棟瓦は、附玄関、表門の棟瓦と共に、京都八坂神社楼門の棟瓦と同じ室町時代最古の様式のものである。一重入母屋造、檜皮ぶき。
附玄関(重要文化財、別に唐門とも云う)方丈と同時代の建立で、我が国最古のもの、一重切妻造、檜皮ぶき。
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室中 付き人達の控えの間 |
札の間 説法をする部屋、迫力ある二匹の龍 |
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