上杉 謙信(うえすぎ けんしん)  1530-1578
 享禄3年1月21日(1530年2月18日)-天正6年3月13日(1578年4月19日)(49歳没)
 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)など北陸地方を支配した武将・大名[2]。

初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。関東管領・上杉憲政の養子となり、山内上杉家の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)、上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し[3]、同家が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には輝虎と名乗った[4]。謙信は、さらに後に称した法号である[5]。正式な姓名は、藤原 輝虎(ふじわら の てるとら)[2]。

後世においては「敵に塩を送る」の逸話など、私利私欲に拘泥しない義の武将として知られる[注釈 3]。一方で、最近の研究においては、利害を冷徹に判断しながら領土拡大に努力した戦国大名とする研究者が多い[注釈 4](後述)。

上杉 景勝 1556-1623
 うえすぎ かげかつ
 弘治元年11月27日[1](1556年1月8日)-元和9年3月20日[2](1623年4月19日)
 戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。豊臣政権の五大老の一人。米沢藩の初代藩主。山内上杉家17代当主。
 上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた[注釈 2]。実子のいない謙信の死後、上杉氏の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉氏の当主となった。
 豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石(「上杉家記」では120万1,200石余、上方の在京領は除く)を領した。秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は石田三成ら西軍に付き敗北した。戦後に、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。




直江 兼続(なおえ かねつぐ) 1560ー1620
 永禄3年(1560年)-元和5年12月19日(1620年1月23日)
 直江 兼続(なおえ かねつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。米沢藩(主君 上杉景勝)の家老。兜は「錆地塗六十二間筋兜」 立物は「愛字に端雲の立物」