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私が訪れた名所旧跡です。
ケイタイやスマホのカメラで撮影したものもありますので画質があまりよくありません。
私の限られた感性での写真ですので、たいした作品でもありません。
自分自身の作品を、自分のために整理したものです。
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山形県 米沢市西部 9 |
公式サイト 関連記事(秘) |
■ 米沢市(よねざわし)
山形県の置賜地方に位置する、この地方最大の都市で、上杉氏の城下町として知られています。置賜地方(おきたまちほう・おいたまちほう)は、山形県内陸部南部を指す地方名です。
鎌倉時代は、長井氏の領地、室町時代初期から伊達氏の領地となり、「独眼竜」伊達政宗は米沢城で生まれました。江戸時代から明治の廃藩置県までは上杉氏の城下町で、上杉氏との縁で上越市(新潟県西部)との関係が深いのです。
米沢藩の藩校として1697年に設置された興譲館は、現在の山形県立米沢興譲館高等学校として伝統を受け継いでいます。上杉家歴代の中でも、家祖上杉謙信と中興の祖上杉鷹山は特に顕彰され、全小学校肖像画が掲げられています。
また、山形大学の工学部は、1910年(明治43年)設立の米沢高等工業学校を前身とし、旧建物は文化財として保存されています。
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米沢市資料より
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米沢市(西部) 法泉寺 |
米沢 法泉寺 |
↑ 拡大
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■ 法泉寺
法泉寺は、城北にある、初め禅林寺という名前で、1618年直江兼続が創建しました。
兼続は、足利学校で学ばせていた九山禅師を呼び寄せ、寺内に米沢藩士の子弟を教育するための学問所「禅林文庫」を開設しました。藩学の基として、後に上杉鷹山が創設した興譲館へと受け継がれてゆきます。 兼続が収集した禅林文庫の蔵書は、今でも貴重な文化財として残っています。
米沢三名園のひとつとして、庭園があります。九山禅師が、京都天竜寺の名園をまねて造ったと伝えられています。
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門を入ると左手に庭園が広がり、
期待も大きくなりました
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法泉寺本堂
庭園前の道を挟んだ向かい側にあります。
昭和初期に、境内を貫通する新道が切られ、
本堂と庭園は分断され、また庭園は縮小され、
今は池の水も涸れてしまったままです。
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米沢 法泉寺 堂宇の横に広がる庭園 |
■ 法泉寺庭園
法泉寺の庭園は、米沢三名園の一つで、二代藩主上杉定勝が、九山和尚に諮り、京都天龍寺の名園を模して造ったといわれています。享保年間(1716~35)に、絵師として著名な藩士・小田切官省県寒松軒が補修したといいます。
歴代藩主も度々訪ね、上杉鷹山は明和七年(1770)に、百二十余名の家臣を招き、この庭園で詩会を開催しました。境内には、直江兼続と九山和尚の詩碑、鷹山の詩会を記念した石碑などが建っています。
昭和初期に、境内を貫通する新道が切られ、庭園は縮小され池の水も涸れましたが、齢を重ねた樹木や苔に覆われた庭は新たな趣をみせています。
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米沢 法泉寺 庭園(池周辺) |
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昭和初期に、寺境内を自動車道が横切り
爾後、池の水は涸れたままです。
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この堂宇の裏は自動車道で、本堂は道の向こう側に分断されて配されています。
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境内には、直江兼続と九山和尚の詩碑、
鷹山の詩会を記念した石碑などが建っています。
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法音寺・千勝院 旧米沢高等工業学校・林泉寺 |
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