米沢 法音寺 |
上杉家廟所への参道左手に法音寺はあります。
上杉家歴代藩主の菩提寺で、
附属する博物館には、上杉家の什物が多数保存されています。
越後の春日山から移されました。
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■ ご本尊 大日如来尊
本尊は大日如来で、両手を胸の前にあげ、左手の人差し指を右の拳で握っている印相”智拳印″を結ぶ金剛界の大日如来です。悩み・助けを求める人を、いろいろな諸仏・諸菩薩に身を変じ、直ちに救いの手を差しのべて下さる仏さまです。
真言密教の教主にふさわしく、堂々とした風格で、智慧(ちえ)の境地を示す深遠な表情は、昔から多くの人に信仰されてきました。(製作年代 江戸時代前期)
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■ 泥足毘沙門天
もともとは、上杉謙信の居城である越後春日山本丸北側にあった毘沙門堂のご本尊で、謙信公が最も崇拝された御守本尊でした。
特に出陣にあたっては、数日篭って読経し祈り続けたといわれます。ある時、夜を徹して祈願をこめたあと、朝になりますと、護摩壇(ごまだん)の上から外に向って点々と毘沙門天の足跡が残っていました。このことから、謙信の戦陣にまで出向いて加勢したといいます。
このことから、上杉家では特に「泥足毘沙門天」と尊称して、善光寺如来尊とともに米沢城内本丸に造営された御堂に、謙信公のご尊骸を中央にして左右に祀り、歴代藩主によって深く尊崇されました。明治九年当寺に移されました。
出陣の際、謙信公が主だった武将を毘沙門堂に招集して"正義の戦い"であるとの誓いをこめて戦勝を祈願した「武てい式」はあまりに有名です。また、上杉の軍旗「毘」の字はこの毘沙門天信仰によるものです。(製作年代 鎌倉時代)
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■ 善光寺如来尊
インドより百済を経て552年、仏教伝来と共に欽明天皇に献じられた我国最古の仏像とされる三国伝来の秘仏です。蘇我稲目に賜りましたが、物部尾興等の奏請により難波堀江に棄てられた後、推古天皇10(602)年に信濃国人若麻績東人(後に本田善光と云う)がこれを奉載して祀ったのが、信濃善光寺如来尊です。
天文二十(1551)年、川中島の戦いの折、信州中野城主高梨政頼は、戦国の兵火を避けるため、信濃善光寺のご本尊を上杉謙信に奉じました。謙信は春日山に如来堂を建ててご本尊を懇ろに奉祀するとともに深く尊信し、厳重に守護しました。
慶長六(1601)年、上杉家の国替えに伴い、善光寺如来尊も米沢に移され、景勝は、米沢城本丸の東南隅に藩祖謙信を祀る御堂を建て、御堂本殿の中央に謙信の尊骸を、右に善光寺如来尊、左に泥足毘沙門天を安置し、さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗21ヶ寺を建立して、守護の掟頗る厳重にして、その供養勤行は丁寧を極め代々奉祀されました。
明治に入り、法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、明治九年本丸の御堂が解体されて謙信の遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座された際、善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は当寺に移され奉安されました。
毎年、5月15日に御開帳法楽祈願祭を厳修して、世界平和、万民息災と諸願成就を祈願します。
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山門前の地蔵像
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地蔵像は、一対になって配されています
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博物館二階窓より 奥:本堂 手前:食堂
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本堂鬼瓦と破風
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米沢 法音寺 庭 |
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博物館に会から見下ろす桜
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法音寺前から見た上杉家墓所
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米沢 春日山千勝院 |
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■ 善日山千勝院 ぜんにちさん せんしょういん
越後高田で「千手院」と号し、上杉謙信の祈願所でした。謙信は、刄八毘沙門天(とうはちびしゃもんてん)を守護本尊として祀り、出陣の際は、必ず護摩をたいて戦勝を祈願しました。
降魔の神である毘沙門天の「毘」の一字を白地に大書し、本尊の代わりに戦場へ持参したので、「毘」の軍旗は「御旗本尊」とも称されました。この軍旗のもと、数多い戦にすべて勝利を得たので、千遍戦えば千遍勝つという寺号を「千勝院」と改称しました。
山号の「善日」は「日々是好日」から名付けられました。慶長年中、上杉家の移封に伴って会津から現在地へ移住しました。
例大祭は、十月十八日
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越後高田で「千手院」と号し、上杉謙信の祈願所でしたが
ここに移築しました
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千遍戦えば千遍勝つという寺号を「千勝院」と改称しました
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謙信は、刄八毘沙門天(とうはちびしゃもんてん)を守護本尊として祀り、
出陣の際は、必ず護摩をたいて戦勝を祈願しました。
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