上杉神社へのアプローチ |
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舞鶴橋
松岬神社の前の参道を上杉神社方向に歩んでゆきますと濠があります。
その濠を越えるのが舞鶴橋です。
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多数の鴨が濠を誇らしげに泳いでいました。
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落ち葉と共に漂うかも
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舞鶴橋
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舞鶴橋たもとより、北西方向を見る
中央の黄紅葉がある部分に上杉謙信像が立っています。
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濠の北側
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結構幅の広い濠です
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濠の北側
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上杉謙信公祠堂跡 |
上杉家初代・上杉謙信の墓が納められていました。
現在は、墓所は、上杉家廟所に移されています。
舞鶴橋を渡ってすぐ左側
石段を登ると謙信公祠堂跡
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祠堂跡への登り口
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石段を登り詰めますと、まず目に入るのが大きな招魂碑です。
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戊辰戦争の戦没者等を弔うための招魂碑
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上杉謙信公祠堂跡
明治9年(1876年)上杉謙信の霊柩を御廟所中央に奉遷するまで
ここに安置されていました。
明治24年(1896年)祠堂跡に遺跡碑が建立されました。
ここからは伝国の杜を見下ろすことができます。
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公祠堂跡に立つ碑
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祠堂碑の北隣に植えられたサクラ
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桜の横にある登ってきた石段を下ります。
中央には、松岬神社角の大銀杏が見えます。
その手前は、舞鶴橋です。
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上杉謙信公祠堂跡から見た上杉博物館
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上杉謙信像 |
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■ 上杉 謙信 義を重んじる戦国武将
うえすぎ けんしん / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)
享禄3年1月21日(1530年2月18日)-天正6年3月13日(1578年4月19日)
戦国時代 - 安土桃山時代に、越後国(現在の新潟県)などを支配した大名、関東管領(1561年 - 1578年)を務めます。山内上杉家16代当主として、越後を統一したほか、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵しました。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸かった戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称されます。
越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾景虎でした。後に、関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られました。「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられて、上杉政虎(うえすぎ まさとら)と改名しました。
上杉氏が世襲していた室町幕府の重職である関東管領を引き継ぎました。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の一字)を受けて、最終的には輝虎と名乗りました。「謙信」とは、さらに後に称した法号です。
謙信は、内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させました。
戦った戦国大名・武将は数多く、5回の川中島におけます合戦で有名な武田信玄だけではなく、北条氏康、織田信長、越中一向一揆等々多数挙げられます。
謙信は、他国から救援を要請される形での遠征が多く、私利私欲に拘泥しない「義の武将」という印象が強いですが、利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も今日では多いです。
足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国、能登国、加賀国へ勢力を拡大しましたが、志半ば、48歳で死去しました。
謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発しました。
上杉景勝が、謙信の意を引き継ぎ、米沢で初代藩主となりました。
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上杉家初代の上杉謙信の像
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軍扇ではなく采配を持っています。
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像の右足元には、サクラの古木が立っていました。
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上杉鷹山像 |
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■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君
うえすぎ ようざん 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)
寛延4年7月20日(1751年9月9日)- 文政5年3月11日(1822年4月2日)
母方の祖母の豊姫が米沢藩4代藩主上杉綱憲の娘であったことが縁で、10歳で米沢藩8代藩主重定の養子となりました。
正室は、養子となった重定の娘・幸姫(又従妹にあたる)でしたが発達障害など健康上の悩みを抱えていたようです。後継者が絶えることを恐れた重役たちの勧めで、1770年(明和7年)に10歳年上で上杉家分家の姫であるお豊の方を側室に迎え、二人の子をもうけました。お豊の方は教養が高く、歌道をたしなんだ人でした。
二人の子供は、若くして亡くなり、鷹山の直結で血を継ぐ人はなくなってしまいました。
江戸時代中期の大名で、出羽国(山形県)米沢藩9代藩主でした。上杉謙信という名門の家柄でしたが、領地返上寸前の財政難に陥っていました。その米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。諱は初め勝興、後に治憲となりますが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名です。
宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎました。
10代将軍徳川家治より「治憲」の名を賜り、明和4年(1767年)に家督を継ぎました。
家督を継いだとき、上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積していました。
初代藩主景勝は、越後で120万石時代に従えていた家臣団6千人をそのまま、石高が15万石で召しかかえました。このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったことから、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたのでした。
加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃したのです。
名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであったと伝えられています。
藩主に就任した鷹山(治憲)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用しました。当然のことながら、先代任命の家老らと厳しく対立することになりました。
江戸での仕切料(生活費)を8分の1に減額、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行ったりしました。
天明の大飢饉では、東北地方を中心に餓死者が多発しましたが、鷹山(治憲)は、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励などの対策に努めました。
自らも着衣として、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、下着にいたるまで着衣の全てに使用していたそうです。食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、昼食や夜食に干し魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていたと伝わっています。酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。結果的に倹約ができて健康にも良い粗衣粗食であったようです。
曾祖父綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖されていた学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として、細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。
改革に反対する藩の重役が、改革中止と改革推進の竹俣当綱派の罷免を強訴するという、いわゆる「七家騒動」が勃発しましたが、鷹山(治憲)は、これを退けました。
これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済するほどまでに財政の健全化がすすみました。
義父・重定は、実子がいるのに鷹山を9代藩主にしましたが、鷹山は重定の次男・勝意(治広)を、鷹山の跡を継がせて10代藩主としました。逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しました。
隠居後は、重定隠居所の偕楽館に、後に米沢城三の丸に建設された餐霞館が完成するとそちらに移りました。
享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号すようになりました。この号は、米沢藩領北部にありました白鷹山(しらたかやま)からとったと言われています。
文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に、享年72才で死去しました。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は米沢市御廟の上杉家廟所です。
初め、上杉神社に藩祖謙信と共に祭神として祀られましたが、明治35年(1902年)に設けられた摂社松岬神社に遷され、現在に至っています。
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信玄像から参道を挟んだところに、上杉鷹山の坐像があります。
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坐像の左側に、鷹山による有名な言葉
名言として多くの人が知る
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状)は、
「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられました。
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いくつかの逸話が残っています。
米沢の名産である笹野一刀彫の「御鷹ぽっぽ」は鷹山の象徴といいます。
一時期、珍しい鳥を何羽も飼っていましたが、倹約令を出したときに全て野に放ちました。
隠居後、煎茶に凝った時期があり、かなり上達しましたが、他人に入れてもらったお茶がおいしくなく、それを申しわけなく思って、それをやめたという、見えない部分でも人に思いやる心を持っていたようです。
ある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうで、老婆は手が足りず困っていました。通りかかった武士2人が手伝ってくれたそうです。
取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例であり、老婆は餅を持ってお礼に行きました。屋敷(米沢城)に通された老婆の前に現れたのはお殿様(藩主治憲)で、手伝いをしてくれたのが鷹山であったのに驚いたそうです。
それどころか、老婆の勤勉さが褒められ、褒美に銀5枚まで授けられたそうです。
その老婆は、その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにしたそうです。
このことを娘が手紙として綴り、その手紙は現在、米沢市宮坂考古館にて所蔵・展示されています。
明治以降、鷹山は修身の教科書で数多く取り上げられました。また、内村鑑三が海外向けの日本人論として英語で著した『代表的日本人』でも、鷹山の生涯が紹介されています。
第35代アメリカ合衆国大統領にジョン・F・ケネディが1961年に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話もあります。
ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、山形県や米沢市の要請に応じて2014年9月に米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをしました。
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鷹山像の脇のもみじもまた見事でした。
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天地人 上杉景勝と直江兼続像 |
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江戸時代の当時、米沢藩で奸臣と見なされていた直江兼続です。
彼の200回忌法要に鷹山が香華料を捧げたことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになりました。
鷹山が兼続を再評価したことになります。また、鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものともいわれています。
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