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私が訪れた名所旧跡です。

コンパクトカメラやスマホで撮影したものもありますので画質があまりよくありません。
私の限られた感性での写真ですので、たいした作品でもありません。
自分自身の作品を、自分のために整理したものです。

東京・新宿区  神楽坂界隈 

■ 新宿区と寺社

 新宿区は、概ね山手線より内側が御府内(江戸町奉行・寺社奉行の所管内)にあたります。

 武家屋敷を中心に町が発達していましたので、曹洞宗や臨済宗を中心としました、多くの寺社がありました。しかし、明治維新後に、神仏混淆や多くの寺院が廃寺となりました。また、関東大震災後に、大がかりな再開発が行われ、郊外へ移転した寺院も多数あります。御府外(豊島郡域)にあたる地域には、真言宗寺院や日蓮宗寺院が多いです。

 江戸時代に比べますと、寺社数は減少していますが、郊外と比較しますと、まだまだ数多くの寺社が残っています。

 

■ 神楽坂地区

 神楽坂(かぐらざか)は、東京都新宿区にあり、早稲田通りと大久保通りの交差点から外堀通り交差点までの坂をいい、坂の周辺の地名ともなっています。

 江戸時代には、外堀に設置されていた牛込門に通じる交通の要衝でした。いまでも、飯田橋駅の近くに「江戸城外堀跡」として、石垣が残っています。

 ここから、外堀通りを超えたところが「神楽坂下」と呼ばれ、坂を登り切った先に神楽坂の象徴的な存在であります「善国寺」が左手にあります。この通りの両側に、飲食関係をはじめ、和風小物店をはじめ、いろいろなお店が並んでいます。

 近年は、これらのお店を目当てに、若い人がそぞろ歩きをする場所になっています。通りより奥に入りますと、昔から続く歓楽街があり、いまでも神楽坂芸者は健在です。

 さらに下りますと大久保通りとの交差点にでます。このあたりを「坂上」といいますが、神楽坂からは下った場所にあります。「上」とは、中心街という意味で用いられています。

 ここからは、都営大江戸線の牛込神楽坂駅まで数分の距離ですので、神楽坂は、大江戸線だけではなく、JR飯田橋駅、東京メトロ東西線神楽坂駅からもアクセスできます。

 


■ 神楽坂地区横山町周辺

 大江戸線牛込神楽坂駅A2出口 ―1分→ 南蔵院 -1分→ 袖摺坂 ―3分→ 大信寺 -2分→ 宝国寺 -3分→ 長源寺 -5分→ 島村抱月終焉の地 -1分→ 龍門寺 -5分→ 法正寺 -3分→ 牛込神楽坂駅

 



地図: 新宿区(一社)新宿観光振興協会地図

東京・新宿区  神楽坂界隈の史蹟

 島村抱月終焉・芸術倶楽部跡
 
 この地は、評論家、作家、演出家、小説家など、多才な活動を行った島村抱月(1871-1018)が、女優松井須磨子と共に、近代演劇や文学、音楽、美術の普及、発表、交流のため大正二年(一九一三)七月に創設した芸術あの拠点「芸術倶楽部」の跡地です。

 島村抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日(明治4年1月10日)- 1918年(大正7年)11月5日)は、日本におけます新劇運動の先駆けの一人として知られています。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎です。

 イギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学に留学しました。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」誌を復刊(第二次)し、主宰しています。

 1906年(明治39年)には、坪内逍遥とともに文芸協会を設立、1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめました。

 しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化、これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となりました。

 同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博しました。



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松井須磨子(左) 島村抱月(右)



芸術倶楽部(看板写真)



芸術倶楽部跡・抱月終焉の地



 
 
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