伊豆下田 宝福寺2 お吉記念館 |
宝福寺に隣接されているお吉記念館には、
お吉に関連するものだけではなく
龍馬が、脱藩した土佐藩の重鎮・山内容堂に
勝海舟の仲介で面会した部屋のレプリカもあります
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お吉十八歳の絵
生前着用の長襦袢を着ている
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お吉絵と人形
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お吉 モデルは水谷八重子
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伊豆の下田に泣いて咲く
お吉椿の濡れまつげ
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お吉の墓の柵
お吉の墓の傍らに自生していたサルスベリ
大平良之助の師平山芦江の歌
下田来てみりゃお吉の墓に
咲いた涙のサルスベリ
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風呂場図
中央のザクロ口から出るお吉
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お吉物語の絵
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19歳のお吉の写真が出回っているようですが、
この時代、写真の撮影技術は日本では確立されてなく、
庶民が写真に写ることは難しいでしょう。
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宝福寺 お吉記念館 坂本龍馬 |
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下田は、坂本龍馬とのかかわりもあります。
龍馬は、土佐藩を脱藩した身で、土佐藩からは睨まれていました。江戸から上洛中の山内容堂が、天候不順などから下田に寄港しました。
折しも別の船で下田に寄港した勝海舟が、龍馬脱藩の罪を憂い、容堂に斜面を願ったのです。容堂は、それを受け入れ、龍馬は許されました。
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有名な龍馬の写真(レプリカ)
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龍馬・容堂謁見の間の入口
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龍馬・容堂謁見の間
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謁見の間の欄間
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謁見の間の床の間(右)
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謁見の間の床の間(左)
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謁見の間の床の間(左)
容堂に謁見した龍馬の二人が使ったといわれる大杯
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坂本龍馬肖像画
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宝福寺 お吉記念館 タウンゼント・ハリス |
■ タウンゼント・ハリス
Townsend Harris, 1804年10月3日 - 1878年2月25日
アメリカ合衆国の外交官で、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使、初代駐日領事を務めました。
ニューヨーク市の教育局長として教育関係でも功績があります。仏伊西を独学で学び、来日する前は、アジアの複数の国での活躍もしました。
通訳ヒュースケンを伴い、13代将軍徳川家定に謁見しています。
唐人お吉の物語から、日本人にはあまり評判が良くなく思われていますが、生涯独身を通しています。駐日後半は、体調を崩し、看護士としてお吉が仕えました。非常に短期間(3か月と言われています)でもあり、物語に描かれているハリスとはちょっと異なるようです。
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ハリス愛用の品々
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日本ではあまり見られなかったようなガラスや陶器
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ハリスに関連した遺品
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ハリスが使ったひげそりと望遠鏡
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宝福寺 お吉記念館 前田青邨のお吉絵 |
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前田青邨
まえだ せいそん、1885年1月27日 - 1977年10月27日
岐阜県中津川市出身の日本画家、大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。
1955年(昭和30年)に、文化勲章を受章するなど、画壇・院展を代表する画家として長年活躍した。
晩年には、法隆寺金堂壁画の再現模写や高松塚古墳壁画の模写等、文化財保護事業に携わっています。その遺志は、青邨の弟子の平山郁夫等にも引き継がれているのです。
青邨によるお吉の絵が多数残されていて、それがお吉記念館にも飾られています。
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精密な描写で知られる青邨ですが
お吉がソフトな筆遣いで描かれているのに
驚きました。
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前田青邨コーナー
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宝福寺 お吉記念館 お吉関連の品々 |
お吉が着たという着物や小物
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お吉の着物
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お吉のひな人形
花柳章太郎氏が、実際に舞台で使ったといいます。
後に、宝福寺に寄贈されました。
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川柳中興の祖と言われる井上剣花坊が
唐人お吉を読んだ書
「アメリカに ぬらした袖も 土に成り」
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お吉を説得してハリスに仕えさせた
伊佐新次郎の書
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館内ポスターより
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南知多町
お吉像のある南知多町は、愛知県の知多半島南部に位置し、三方を海に囲まれています。
三河湾国定公園と南知多県立自然公園に指定されており、名所、旧跡、文化財、祭りなど観光資源は豊富にあります。また、自然を利用したレクリエーションの基地として、四季型観光地への条件を整えつつあります。
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記念館入り口の造花
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よく見ると折り鶴でできています
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