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私が訪れた名所旧跡です。

ケイタイやスマホのカメラで撮影したものもありますので画質があまりよくありません。
私の限られた感性での写真ですので、たいした作品でもありません。
自分自身の作品を、自分のために整理したものです。
奈良県  東大寺 鐘楼・俊定堂・行基堂・念仏堂  
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鏡池越しに見る中門
奥は大仏殿


 世界最大級の木造建築である大仏殿で知られる東大寺です。高さ約15mもある奈良を代表する大仏が鎮座しているお寺です。

 境内には、金剛力士像が向かい合う南大門や、修二会(お水取り)が行われる二月堂など、歴史ある伽藍を数多く有しています。

 奈良時代は、華やかな時代であると同時に、政変があったり、自然災害、病気の流行など惨憺たる時代であったりもします。

 聖武天皇は、急逝した親王の菩提を追修するために、神亀四年(727)11月に、東大寺の前身である金鍾山寺を建立し、良弁(ろうべん、のちの東大寺初代別当)を筆頭に智行僧九人を住持させました。

 天平13年(741)に、国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔が発せられると、この金鍾山寺が昇格して大和金光明寺となり、これが後に東大寺になります。

 聖武天皇は、「華厳経」の教えをもとに盧舎那大仏造立を強く願い、良弁等が勧進などに東奔西走しました。

 東大寺・大仏が完成したものの、大地震や火災などにあいました。とりわけ、江戸時代、永禄十年(1567)に三好・松永の乱では、主な建物が焼失し、本尊盧舎那大仏は約120年間雨ざらしとなってしまいました。この時に立ち上がったのが、公慶上人で、全国勧進行脚を実践し、復興しました。

 明治大修理では、大屋根を支える虹粱(こうりょう)にイギリス製の鉄骨トラスが組み込まれ、今日も問題無く大屋根を支え続けています。東大寺は天平創建以来、多くの人々の助援により、今日に至っています。

アクセス

 〒630-8587 奈良市雑司町406-1
 TEL/0742-22-5511 FAX/0742-22-0808

 JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から市内循環バス「大仏殿春日大社前」下車徒歩5分、または近鉄奈良駅から徒歩約20分

4~10月 7:30~17:30 11~3月 8:00~17:00
大人(大学生以上) 600円



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東大寺  鐘楼



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■ 東大寺鐘楼 (しょうろう)

 大仏殿から法華堂(三月堂)・二月堂方面へ上がる道の途中左側にあります。私は、大仏殿から相輪横のスロープを登ってゆきましたので、正面に見えてきました。

 除夜の鐘でも知られ、名鐘であるわりには、あまり立ち寄る人もいないようです。

 この辺りは、貴重な仏像で有名な「俊乗堂」や勧請で貢献のありました「行基堂」、念仏堂などがある「鐘楼ヶ丘」と呼ばれるエリアにあります。

 鐘楼は大鐘を吊っていますので、堂々たる建築物です。鐘楼の建物も巨大な「大鐘」も国宝に指定されています。

 大鐘は、鐘の部分だけでも高さ4メートル近くもあり、重量は26トンにも及ぶといわれます。その重さは、電車一両分に匹敵するといわれるほどの重量です。



相輪横から登ってゆきますと、石段の上に勇姿を見せてくれました。



大鐘を吊す鐘楼



高さ4メートル近くもあり、重量は26トン
鐘の口径は1.5m近くもありそうです。



無断で撞いたり、傘などでたたく人もいるようです。



角度を変えると、その異様は別な物に見えます。
行基堂前から



俊定堂前から

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東大寺  俊乗堂



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■ 俊乗堂 (しゅんじょうどう)

 鐘楼があります鐘楼ヶ丘の北側にある、小振りの堂です。元禄年間、公慶上人が、重源上人の遺徳を讃えて「俊乗堂」を建立しました。

 堂内中央に、国宝「重源上人坐像」が安置されていることからも、その重要性が解ります。

 俊乗房重源は、1121年(保安二年)に京都に生まれました。父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族の紀季重です。

 13歳で醍醐寺に入って密教を学び、1167年(仁安2年)入宋(にっそう:中国宋を訪問)し、翌年帰国しました。

 1180年(治承4年)平重衡によって大仏殿が焼かれるなど、東大寺の多くの伽藍が焼失したが、翌年60歳を過ぎた彼が造東大寺の大勧進職に任ぜられ、10数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げました。再建に当って、大仏様(だいぶつよう)と呼ぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚の号を受け、1206年(健永元年)86歳で入滅した。



俊乗堂の扁額



俊乗堂

堂内中央に、国宝「重源上人坐像」が安置
60歳を過ぎた時に、造東大寺の大勧進職に任ぜられ
その功績は大きい


 
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東大寺  行基堂



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■ 行基 (ぎょうき/ぎょうぎ)

 天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)

 奈良時代の日本の僧。和泉国(現在の大阪府堺市)に生まれ、15歳で出家し、法興寺、薬師寺で唯識等を学びました。また、徳光、道昭、義淵などにも受法(学ぶ)しました。

 生駒山に隠遁生活をした後、諸国を遊下して寺を創建しました。

 民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のために、弟子を率いて架橋や開田など社会事業に偉業を残しました。朝廷からは度々弾圧や禁圧されましたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返しました。

 その後、日本で最初のとして聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘され、諸国を勧進して資金集めをし、その功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられています。


「出る杭は打たれる」といいます。

 たとえ、朝廷からの弾圧があっても、自分の信念を崩さず、社会貢献を通じての布教をしたことに頭が下がります。

 修学旅行生にとって最も印象に残るひとつの奈良の大仏も行基がいなければどうなっていたのかは解りません。



行基菩薩坐像が祀られています



江戸初期を示す正面の向背や、角柱、蟇股(かえるまた)



円柱と本瓦で頂上に鉄の露盤と宝珠をのせた宝形屋根をしています



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東大寺  念仏堂



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■ 東大寺念仏堂 (重要文化財)

 東大寺鐘楼などのある「鐘楼ヶ丘」エリア東側にある朱色の建物です。

 寄棟造の念仏堂は、もとは地蔵堂と言われ、鎌倉時代の建物ですが、屋根は江戸時代に改修されたあとがあります。

 堂内に安置された本尊は、地蔵菩薩で、仏師康清が嘉禎三年(1237)に造仏したもので、重要文化財に指定されています。

 毎月五日と春秋2回の彼岸に法要が営まれます。また、毎年八月十一日には戦没者慰霊法要も行われています。



念仏堂

もとは地蔵堂と呼ばれ、ご本尊は地蔵菩薩です。



寄棟造の念仏堂

屋根は江戸時代に修復され、二段になっています。



念仏堂の裏には、鹿がたむろして休んでいました。


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