大仏殿 外観 |
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■ 東大寺大仏殿 国宝建造物
創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建され、現在に至っています。
江戸期には、柱とする木材が調達できず、芯となる槻(つき)を檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした珍しい工法の木造建築です。
創建時には、11間(86m)ありましたが、現在は7間(57m)となっています。それでも現存する門としては、日本で最大級のひとつです。
毎年、大晦日から元旦に正面唐破風(からはふ)下の観相窓が開かれ、大仏尊像のお顔を外から拝しながら新年を迎えることができます。
平成24年に、大仏殿内、廻廊、霊名所、授与所の照明装置を全てLED化し、消費電力を8分の1に落としたことは、当時、大きな話題となりました。LEDにしたことにより、熱や紫外線が殆んど出なくなるという副次的な効果もあります。
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大仏殿を参拝
午前中早い時間なので、修学旅行生くらいしかいませんでした。
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大仏殿は創建以来、二度焼失しました。現在の建物は江戸時代に再建され、明治と昭和の二回、大修理が行われました。
鎌倉時代の再建時は、現在の物より大きかったと言われています。
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大仏殿の参拝後
参拝中に、沢山の人が訪れてきました。
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破風の作りも、多くの寺院に見られるものとは異なりますね。
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大きい建物に気圧され、
細部まで目が行き届きませんが、
細かい彫刻が施されているのですね。
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■ 金銅八角燈籠 国宝
東大寺金銅八角燈籠は、大仏殿の目の前にあります。大仏殿の参道に立っている国宝ですが、大仏殿があまりにも大きいので、見落とされがちです。
高さが4.6メートルもある巨大な燈籠です。康和3年(1101年)や寛文8年(1668年)の修理銘を有するなど数多の修理を経てきています。
奈良時代の創建当初から残され続けている大変貴重な存在といわれています。日本で最大かつ日本最古の灯籠ですので、当然のこと国宝として指定されているのです。
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すっくと立つ、立ち姿も美しいですが、
火袋(灯袋)は、8面よりなる美しい装飾には惚れ惚れします。
(燈籠の火を灯す空間を覆う部分を「火袋」と呼びます)
東西南北4面には、獅子の透かし彫りがあります。
その間にある4面には「音声菩薩」が彫られています。
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南東側のものは竽(う)と呼ばれる
細い竹の部材を集めて作った楽器を奏でる姿が描かれています。
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北東側のものは銅鈸子(どうばつし)と呼ばれる
シンバルのような楽器を持っています。
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二月堂から見た大仏殿
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大仏殿 盧舎那仏 |
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■ 盧遮那仏 (るしゃなぶつ)
東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿(金堂)の本尊である仏像(大仏)で、一般には「奈良の大仏(ならのだいぶつ)」と親しみを込めて呼ばれています。
正式には、大仏は「盧舎那仏坐像」、大仏殿は「金堂」といいます。
【Wikipedia】
聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われた。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部である。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
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現存する大仏殿は、江戸期に再建されたものです。
当時、柱となる太い木材を調達することが困難でした。
芯となる槻(つき)と呼ばれる心材を
檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした
珍しい工法の木造建築です。
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盧舎那仏全体を見る
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光背にも仏様が彫刻されているのですね。
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柱と柱の間、
この角度からの大仏様のお顔は
あまり見ないのではないでしょうか。
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大仏殿 盧舎那仏の脇侍 |
虚空菩薩像
盧舎那仏の脇侍(正面から見る人の左手)
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■ 虚空蔵菩薩
「広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩(【Wikipedia】)」、という意味です。
このことから智恵や知識、記憶といった面でのご利益(りやく)をもたらす菩薩として信仰されています。
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虚空菩薩像
盧舎那仏の脇侍として祀られていますので、
少々小さく見えますが、
この像だけが寺院に納められていたら
「大きい~~」という感嘆の声を
あげるのではないでしょうか。
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虚空菩薩像
穏やかなお顔は、盧舎那仏のキリリとした顔立ちに比して、
また、異なった思いを感じます。
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如意輪観音
盧舎那仏に向かって右側の脇侍
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■ 如意輪観音(にょいりんかんのん)
如意輪観音は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊で、観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊でもあります。 手には、如意宝珠や紅蓮華を持っているのが一般的です。
「如意」は「思いのまま」という意味で、如意宝珠の三昧(定)に住み、意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意としています。
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左手に如意宝珠を持っていますが、
大仏殿では持っていません。
如意宝珠とは、全ての願いを叶えるもので、
法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、
煩悩を破壊する仏法の象徴となったものです。
像容は、原則として坐像または半跏像で、立像はほとんどありません。
片膝を立てて座る六臂の像が多いですが、
大仏殿の如意輪観音は二臂の坐像です。
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如意輪観音のお顔
頬に当てて思惟相を示していることが多いので、
逆に右指を頬に当ていて半跏像をしている仏像を見れば、
「如意輪観音」であることが直ぐに想像できます。
大仏殿の如意輪観音は、
思惟相をしていません。
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大仏殿 盧舎那仏の周辺 |
↑ 拡大
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■ 大仏蓮弁
大仏が座っている蓮台の回りにある蓮弁(ハスの花びら)に、いずれも同じ図柄の絵が毛彫りされています。
奈良時代に線刻された「蓮華蔵世界図」と呼ばれていて、おおまかに上下ふたつの部分からなっています。
上半分には、説法図の如来像が大きく刻まれています。その左右に各々11体の菩薩像が対照的に、かつ群像として描かれています。
下半分には、26本の界線が横に引かれて、小仏や宮殿が点在し、さらに下方には、請花(うけばな)と反花(かえりばな)の一対になった蓮弁が七対あります。各々の請花には、山脈や宮殿、それに小さな釈迦三尊像や四頭の動物の頭が描かれた逆俤形などが見られます。
この複雑な図柄は『華厳経』が説く宗教的世界観を絵で表現したもので、お釈迦さまが六年間の修行の末、大いなる宗教体験を得られ、無限の広がりをもつ“ほとけ”になられた時の状態か説かれています。
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台座蓮弁
大仏が座っている蓮台の回りにある蓮弁(ハスの花びら)に、
いずれも同じ図柄の絵が毛彫りされています。
奈良時代に線刻された「蓮華蔵世界図」と呼ばれていて、
おおまかに上下ふたつの部分からなっています。
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■ 蓮華 (れんげ))
ハスの花のことです。種類は多く、仏教では、紅蓮華 (ぐれんげ)、白蓮華 (びゃくれんげ) 、青蓮華などが代表的です。ただし、その分類は、植物分類とは異なり、仏教界における分類です。
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蓮弁 上半分
説法図の如来像が大きく刻まれています。
その左右に各々11体の菩薩像が対照的に、
かつ群像として描かれています。
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下半分には、26本の界線が横に引かれて、小仏や宮殿が点在し、さらに下方には、請花(うけばな)と反花(かえりばな)の一対になった蓮弁が七対あります。
各々の請花には、山脈や宮殿、それに小さな釈迦三尊像や四頭の動物の頭が描かれた逆俤形などが見られます。
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大仏前にある青銅の水瓶には
大きな蝶が止まっています
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大仏殿の鴟尾(しび)
写真では、どのくらいの大きさか解りませんね。
比較写真(パスワードが必要)
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↑ 拡大 鴟尾(しび)
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■ 鴟尾(しび)
高:3.375m 幅:2.48m 厚:1.33m 重:1.7t
鴟尾は、建物大棟の両端に据えられる飾りです。形の起源には諸説あり、魔よけや防火のまじないの意味をもつともいわれています。
奈良時代の宮殿や寺院の主要な建物には鴟尾が載っていました。聖武天皇の発願による奈良時代創建当初、経典に記される仏教世界が大仏様の台座の蓮弁部分に毛彫で描かれましたが、この中の宮殿建物の屋根にも、鴟尾の表現が認められます。当時の鳩尾が残されているわけではありませんが、このような絵画から、奈良時代に建てられた大仏殿の屋根にも鳩尾が載っていたと考えられます。
大仏殿は創建以来、二度焼失しました。現在の建物は江戸時代に再建され、明治と昭和の二回、大修理が行われました。再建当初、鳩尾は載っていませんでした。
この鴟尾は、明治の修理の際に、鴟尾を載せることで奈良時代の要素を取り入れようと作られた東西一対の内の西側のものです。木で作った形の上に銅板を貼り付け、銅板の表面に漆を用いて金箔を押した(貼-つた)、日本最大級の鳩尾です。明治から昭和の間、60年以上大仏殿の屋根に載っていました。痛みが大きく、昭和の修理の際に降ろされ。替わりの鵬尾が新調されました。
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大きな大仏様には、精華では小さすぎます。
精華の代わりが松なのでしょう。
その手入れをして下さっている
珍しい現場をカシャリ
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白蓮華 (びゃくれんげ)
造花ですが、大仏様に
彩りを加えています。
光背の仏様にも感謝
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盧舎那仏と虚空菩薩
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大仏殿 盧舎那仏の四天王 |
広目天
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■ 広目天(こうもくてん)
仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、多聞天と共に四天王の一尊に数えられます。
サンスクリット語で「種々の眼をした者」あるいは「不格好な眼をした者」という意味ですが、「尋常でない眼、特殊な力を持った眼」さらに千里眼と拡大解釈され、「広目」と訳されました。
筆を持っていることが多いのですが、三鈷戟(げき - 古くから中国にある武器)と羂索(両端に金具を付けた捕縛縄)を持っていることもあります。
東大寺の広目天は、筆に巻物という標準的ともいえる物を持っています。
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広目天
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増長天と持国天
大仏殿の四天王のうち、
増長天と持国天は頭部しか残っていません。
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■ 増長天(ぞうじょうてん、ぞうちょうてん)
持国天、広目天、多聞天と共に四天王の一尊に数えられます。須弥山(しゅみせん)の中腹で南方を守っています。
仏堂では本尊の向かって左手前に安置するのが原則です。その姿には様々な表現がありますが、日本では一般には、赤みに、革製の甲冑(かっちゅう)を身に着け、剣などを持った唐代の武将風の姿で表されることがおおいです。
成長あるいは増大した者という意味で、仏教における天部の仏神に分類されます。毘楼勒叉とも名称されます。本来はインド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神として取り入れられ、四天王として加えられました。
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■ 持国天 (じこくてん)
仏教における天部の仏神で、増長天、広目天、多聞天とともに、四天王の一つで、大日如来などの東方を守る仏様です。革製の甲冑(かっちゅう)を身に着け、唐代の武将風の姿をし、剣などを持ち、主仏に向かって右手、手前に立っていることが多いです。
持物は、既述の通り「刀」の場合が多いです。例えば、胎蔵界曼荼羅では体色は赤く、右手を拳にして右腰に置き、左手に刀を持つ姿で、足下に邪鬼を踏みつけて描かれています。中国の民間信仰に於いては、白い顔で琵琶を持った姿で表されることがあります。
本来は、インド神話に登場する雷神インドラ(帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神として取り入れらました。
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多聞天
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■ 多聞天(たもんてん)
多聞天は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神です。
四天王としては、多聞天とあらわされることが一般的ですが、「毘沙門天」と呼ばれることも多々あります。また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっていて、呼び方も様々なようです。
多聞天の姿には、三昧耶形(手に持つ宝物)が、宝棒(仏敵を打ち据える護法の棍棒)、宝塔であるという他には、はっきりした規定はないようです。そのために、三叉戟(さんしゃげき)を持つなど、様々な表現の形容をしています。
日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表されています。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の上に立っていることが多いです。
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正面から見た多聞天
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右手に宝塔を掲げ、左手に檄を持つ多聞天
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大仏殿 模型でみる大仏殿 |
創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建され、
現在に至っています。
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南大門、中門、大仏殿とレイアウトは変わっていません。
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南大門の手前左に西塔、右に東塔の跡があります。
しかし、江戸時代に再建されるまでは、
南大門の内側の回廊内に東塔と西塔があったようです。
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鎌倉時代に建築された大仏殿は、
外から盧舎那仏を拝顔できたようです。
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大仏殿 盧舎那仏の光背 |
盧舎那仏の光背の厚いのにビックリ
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■ 光背(こうはい)
仏像や仏画などの仏教美術において、仏像の体から発せられる光明を、視覚的に表現したものです。
板状になっていて、そこに仏像などが彫刻されている場合が多いです。東大寺法華堂(三月堂)の不空羂索観音のように、光の線のように放射光で表現したり、輪光など、その他の形で表現したりされる場合もあります。
光背は、仏像・仏画だけではなく、キリスト教美術などにおいて、聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現するものもあります。
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光背の厚さだけではなく、
後ろから見ますと大きさにも圧倒されます。
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盧舎那仏の左手側から見た光背
光背に彫刻されている仏像がレリーフのような平板なものではなく、
立体感あるものであることがわかります。
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大仏殿 盧舎那仏の周辺 |
びんずるさん
大仏殿に向かって、入口右側
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↑ 拡大
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■ 賓頭盧 (びんずる)
釈迦の弟子の一人で、彼の説法が他の異論反論を許さずライオンのようであったため「獅子吼(ししく)第一」と称されています。
名は、「ピンドーラ」、姓は「バーラドヴァージャ」で、その名前の意味は、「不動」、「利根」といいます。十六羅漢の筆頭です。
博識であり慈悲深く十善を尊重し、阿羅漢果により神通力を得たといわれています。白髪長眉の相があったといわれることからも、神通力を持つことがうかがえます。
自分の身体で悪いところがあれば、そこを撫でると除病の功徳があるとされ、なで仏の風習が広がりました。
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回廊
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中門内側の回廊から見る大仏殿
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あやめが咲いていました
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大仏殿の回廊
鎌倉時代には、回廊の内側に東西五重塔があったといいます。
東西五重塔の跡地は、南大門の南にありますので、
いかに、回廊が大きかったかを想像できます。
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