髙遠 歴史博物館とその道 |
法幢院曲輪から南ゲートを出て
歴史博物館方向に向かえます。
チケットがあれば再入場できます。
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現代アートのオブジェとサクラ
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素敵なオブジェもあり
奥の建物が髙遠美術館と思っていましたら
御手洗いでした。
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ミツマタの木
歴史博物館への途中階段があります。
斜めになったポールに驚いた瞬間
見慣れない花を見つけました。
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その花は「ミツマタ」の花でした。
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■ ミツマタ
ミツマタは、和紙の原料として知られています。「三椏」という見慣れない漢字表記があるのですね。
冬には葉を落とす落葉性の低木で、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属するそうです。原産地は、中国中南部・ヒマラヤ地方です。
花は、3月から4月ごろにかけて咲きます。三つ叉(また)に分かれた枝の先に黄色い花を咲かせることから、その名があるようです。(【Wikipedia】を参照)
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ミツマタと水仙
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三峰川にかかる白山橋
髙遠ダム下
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髙遠歴史博物館
古代、中世から現代に至る高遠の歴史、文化、人物、民俗などに
スポットをあてた展示
髙遠城址公園入場券で割引を受けられます
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髙遠 絵島囲み屋敷 入口 |
■ 絵島事件
正随4(1714)年、江戸城大奥を舞台に起こった一大事件のことです。
当時の将軍はわずか6歳の徳川家継でした。政治の実権は前将軍家宣の側近だった間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石が握っていました。大奥の政治への影響力も増していました。
この頃の大奥における最大勢力は、将軍の生母・月光院でしたが、前将軍の正室である天英院も大きな力を持っていました。大名らの「間部・新井VS普代大名」という対立が、大奥の「月光院VS天英院」という構図と結びついていきました。
またこの頃、商品経済が発達し、裕福な商人は大奥に商売を広げようと、芝居見物や土産物などを振る舞うことで女中たちに取り入ろうとしました。
大奥の風紀は乱れていたのです。
一方、幕府の財政は綱吉の時代を躾てすでに行き結まっていて、大奥の経費は幕府にとってますます大きな負担となっていました。
あるとき、月光院に仕える女中の筆頭である絵島は、主人の名代とLて前将軍の墓参に出かけた帰路に芝居見物をし、門限に遅れてしまいました。
この規律違反が幕府役人の耳に入ると、芝居見物に同行した女中たちは解雇され、絵島も兄・白井平右衛門宅にお預けとなりました。
取り調べは非常に厳しく、私財、遠島、追放など重い刑が課せられました。総勢70名以上が処罰されたといわれています。
歌舞伎などでは、大奥年寄り・絵島と歌舞伎役者・生島の悲恋として描かれていますが、これは実話ではなさそうです。
絵島は、髙遠へ遠流され、三の丸長屋を仮牢とされ、後に場内から4kmほど離れた場所に移されました。その時の建物がここに移築されたのです。ここでは、制約も多く、ひたすら読経の毎日を過ごし、享年61歳でした。
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歴史博物館の横を通り過ぎると絵島囲み屋敷に至ります。
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十月亭(有島生馬の俳号)の絵島の歌
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■ 有島生馬(ありしまいくま)
有島武郎の弟で、明治から昭和にかけての画家です。
志賀直哉や児島喜久雄とは少年時代からの友人で、「白樺」創刊に参加し、代表作「蝙蝠の如く」があります。(【Wikipedia】を基に作成)
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大奥で実権を握っていた絵島には、
狭いところで苦痛だったでしょうね。
しかし、時間経過と共に
現実に沿って生きるようになったのではないでしょうか。
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木戸をくぐると玄関横に出ます
サクラの花が台所を飾っています。
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玄関の方に時計回りに巡ります
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↑ 拡大
かつての屋敷図
現在残っているところよりは広かったことがうかがえます。
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↑ 拡大
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↑ 拡大
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↑ 拡大
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髙遠 絵島囲み屋敷 内部 |
玄関を入ると万人番人の詰め所があります。
幽閉生活は、どの程度の自由度があったのでしょうか。
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玄関からぐるりと回ると下女のための狭い部屋があり、
その奥が番人詰め所、一番奥が台所です。
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手前が番人詰め所、奥が台所
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玄関と反対側から台所を見る
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台所にも格子窓
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絵島の部屋にも格子
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縁側突き当たりが風呂場
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風呂場の隣が御手洗い
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御手洗いの前
手前は格子窓
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↑ 拡大
絵島ゆかりの地
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