髙遠城址公園 本丸の桜 |
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■ 本丸跡
高遠城は天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二の丸、さらに、その外側に三の丸を巡らした城郭三段の構えを持っていました。
天正十年(1582)、城主仁科五郎盛信が小田郡に敗れ、壮烈な戦死を遂げました。その後、城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄4年(1691)からは、内藤氏が明治の廃藩まで八代、180年間にわたって城主を務めました。
本丸御殿は、政庁であるとともに、藩主の住居も兼ねていました。廃城時、城内の建物は取り壊されましたが、明治8年(1875)頃に移植されたサクラの古木が毎年美しい花を咲かせています。(案内看板より)
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高遠城の戦い(武田軍VS織田軍)
武田氏による高遠支配は35年ほど続きましたが、織田信長が勢力を拡大する中で、高遠城は武田対織田の壮絶な戦いの場となりました。
天正10年(1582)3月、武田軍としての高遠城主であった仁科盛信は敵方の総大将であった信長の嫡男、信忠からの降参の要請に応じず城に籠り、数千の兵で数万の軍勢を相手に一戦を交まじえました。
織田勢の大軍にひるむことなく戦った盛信でしたが、城はわずか一日と持たず、多くの家臣は討死にし、盛信も自害し、高遠城は落城しました。(公式サイトを基に作成)
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本丸跡
何のモミュメントか確認し忘れました
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本丸跡には、古木が結構ありました
廃藩の廃城時、城内の建物は取り壊されましたが、
明治8年(1875)頃に移植された
サクラの古木が毎年美しい花を咲かせています。
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太鼓櫓の前から、アルプスを背にして本丸跡のサクラを見る
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太鼓櫓の前から本丸中心方向を見る
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記念植樹
このようにして、髙遠の桜は守られているのですね
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須田経哲(けいてつ)碑
後はお堀
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■ 須田経哲(けいてつ)
須田泰嶺(すだ たいれい、文政8年5月5日(1825年6月20日)- 明治41年(1908年)9月5日)は、日本の医師(蘭方医)で、諱は「経哲」、号は「経石」、「老嶺」といいます。
江戸の林洞海、佐倉の佐藤泰然に入門し、蘭方医学を学びました。帰郷して外科、産科を開業し、種痘を実施したことで、高遠藩から賞詞を授かっています。(【Wikipedia】を参照して作成)
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髙遠城址公園 新城藤原神社 |
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新城(盛信)神社・藤原神社の由来
天保二年(1831)七代藩主内内藤頼寧(ないとうよりやす)は、家臣中村元恒(もとつね)の建議に上り、夭正十年(1582)当城において織田の大軍を引き受け、壮烈な最期を遂げた武田信玄の五男、仁科五郎盛信の霊を、五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀り、崇拝しなした。
以前より城内には、先代内藤頼以(よりもち)が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったため、廃藩後の明治十二年(1879)この神社を「新城神」と合祀(ごうし)して、今日に至っています。
なお、宝物とし内藤家寄進の甲冑、その他の文化財がありましたが、それらは現在、高遠町歴史博拗館に保管されています。
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問屋門をくぐってまっすぐ進みますと
右手に藤原神社があります。
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石の鳥居が、サクラとともに立っていました
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質素で神社らしくない建物でしたが
とても趣を感じました
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藤原神社前の桜
奥は中央アルプス
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髙遠城址公園 本丸 大太鼓櫓 |
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江戸時代には、時を報じるために太鼓を打っていました。
この鼓楼は、搦手門(からめてもん)の傍らにあって、楼上に三鼓を備えていました。
常に番人がいて、時刻が来ると、予備の刻みうちを繰り返した後に、時の数だけ太鼓を打って時を知らせていました。
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廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて、時を報じていましたが、明治10年(1877)頃に、本丸、西南隅の現在値に移されました。
その後も、旧制通り、朝六時から夕六時まで、偶数時に打たれていましたが、戦時色の強い昭和18年(1943)に中止されました。
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廃城の際、有志によって対岸の白山に鼓楼が新設されて、時を報じていましたが、明治10年(1877)頃に、本丸、西南隅の現在値に移されました。
その後も、旧制通り、朝六時から夕六時まで、偶数時に打たれていましたが、戦時色の強い昭和18年(1943)に中止されました。
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髙遠城址公園 本丸から見た中央アルプス |
藤原神社前から中央アルプス・木曽山脈を見る
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藤原神社前からサクラを透かして木曽駒ヶ岳を見る
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本丸跡からは、南アルプス木曽山脈が、
サクラの飾りを手前に付け、
白銀の帽子をかぶって、その勇姿を楽しませてくれました。
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一段と高い山が木曽駒ヶ岳です
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サクラの額縁と木曽駒ヶ岳
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三から五分先と報じられているサクラ
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何度見てもサクラにアルプスは美しい
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