六波羅蜜寺というと、空也上人が口から「南無阿弥陀仏」の六文字を表す六体の仏像が出ている像を想像する人が多いでしょう。それが空也上人立像です。
このお寺には、その像くらいしかないものと思って訪れたところ、小さいながらも博物館があります。度重なる兵火をくぐり抜けてきたお寺らしく、鎌倉時代の木像が多数あり、二時間ほどかけてじっくりと拝見しました。
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人により開創された西国第17番の札所である。
当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。(現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与している)
現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。(六波羅蜜寺パンフレットより)
六波羅蜜寺
六波羅蜜寺立て札
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■ 開山の空也上人
第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(946)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。
上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。定盛は上人の遺風を伝えて茶筌を作り、これを世に広め、子孫は有髪の姿に黒衣をまとって踊り、念仏しながら瓢をたたいて市中を徘徊した。これが今六斎念仏として伝わっている。当山の空也踊躍念仏はさらにその源流である。(六波羅蜜寺パンフレットより)
空也上人立像(パンフレットより)
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■ 博物館 木像
◆ 十一面観音立像
本尊の十一面観音立像は平安時代に彫られた国宝です。
◆ 薬師如来座像と四天王
薬師如来座像は重文で、平安時代の明るさの窺える木像です。寄せ木造りの技術がまだ十分ではない時期でありながら、稚拙さを感じさせない仏像です。
その周囲を重文である多聞天、増長天、持国天、広目天の立像が守っています。
(パンフレットより)
(パンフレットより)
(パンフレットより)
◆ 地蔵菩薩座像
運慶作の地蔵菩薩座像は、鎌倉時代、一族の菩薩寺十輪院のご本尊で、「夢見地蔵」と呼ばれています。眉目秀麗な面相と変化のある法衣は一見の価値があります。
(パンフレットより)
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◆ 地蔵菩薩立像
地蔵菩薩立像は、光背の一部が欠けているものの透かし彫りがみごとです。平安朝の華麗さを漂わせる定朝の作、重文。もともとは六波羅地蔵堂の本尊で、優しい面相にはうっとりとします。何よりも目を引くのは、左手に頭髪を持っていることで、髪掛地蔵とも呼ばれています。
(パンフレットより)
◆ 運慶・湛慶座像
運慶・湛慶座像は、鎌倉時代に彫られた父子像で、重文です。本尊の脇侍のように祀られていたそうです。
(パンフレットより)
◆ 平清盛座像 鎌倉時代(重要文化財)
巻物のお経を手に持っている清盛は、これまで持っていた清盛のイメージを払拭するような気品をたたえています。
清盛像
(パンフレットより)
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■ 六波羅弁財天
寺の正面門は、特別な催事以外は閉じられています。通用門があり、その正面にあるのが六波羅弁財天です。
弁財天(弁天様)は、七福神の中で唯一女神です。
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