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私が訪れた名所旧跡をご案内します。

ケイタイのカメラで撮影していますので画質があまりよくありません。私の限られた感性での写真ですので、たいした作品でもありません。

【正式名称】豊国神社(とよくにじんじゃ、ほうこくじんじゃ)
【住所】東山区大和大路正面茶屋町
 

【Wikipedia】
 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、京都市東山区に鎮座する神社。豊臣秀吉を祀る。
 豊臣秀吉の死去の翌年の1599年(慶長4年)、遺体が遺命により方広寺の近くの阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に方広寺の鎮守社として廟所が建立されたのに始まる。この時、秀吉は東大寺の大仏に倣い、自身を八幡として祀るように遺言したが、結果として方広寺とは別の存在となり、別に神宮寺が建てられ、神号も大明神となっている。後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られ鎮座祭が盛大に行われた。
 しかし、1615年(元和元年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川幕府により方広寺の大仏の鎮守とするために廃絶され、大仏殿裏手に遷されている。神宮寺や本殿は残されたが、それも後に妙法院に移されている。
 1662年6月(寛文2年5月)に京都で地震が起きたとき、豊国神社周辺に被害がなかったため、地震除けの流行神として参詣者が集まった[1]。
 1868年(明治元年)、明治天皇が大阪に行幸したとき、秀吉を、天下を統一しながら幕府は作らなかった尊皇の功臣であるとして、豊国神社の再興を布告した。1873年(明治6年)、別格官幣社に列格した。1880年(明治13年)、方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。
 









 豊臣秀吉

 豊国神社パンフレットより
 
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※ 
 以下説明文は、京都観光ナビによる説明です。
 
■■ 豊国神社鳥居と唐門
 
     
 

 豊国神社にある桃山時代建築の国宝建造物。本殿正面に建つ四脚唐門。南禅寺金地院から移築された。伏見城の遺構と伝えられ、欄間や扉などに豪華な装飾が施されている。
 
     
 
   
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■ 豊国神社 宝物館 紙本著色豊國大明神臨時祭礼図


 
本社境内には桃山風造りの宝物館(大正十四年開館)があり、豊太閤にゆかり深い宝物が公開されている。主なものとしては豊国祭礼図屏風(狩野内膳筆・重文)や与二郎鉄燈龍(辻与二郎作・重文)、桐鳳凰蒔絵唐櫃(重文)等約八十点が常設展示されており、秀吉公と桃山文化の関わりの大きさを垣間見ることができる
 
 豊国神社にある桃山時代作の重要文化財絵画。豊国神社の豊国大明神臨時祭礼を描いた狩野内膳筆の六曲一双屏風。宝物館に陳列している。

 
 

豊国祭礼図屏風 狩野内膳筆。重要文化財 六曲―双のうち左雙(豊国神社パンフレットより)
 
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■ 豊国神社 宝物館 鉄灯籠 
 

豊国神社にある桃山時代作の重要文化財工芸品。豊国神社廃絶後、妙法院に伝来し、豊国神社再興後返納された。宝物館にて常設展示。釜大工天下一辻与二郎實久作。

 
     
鉄灯籠    鉄灯籠台座
 
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  http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0304/mm.htm
 

■ 方広寺

 京の大仏殿として知られていた同寺は、天正十四年豊太閤の建立されたもの。当時の本尊木像盧舎那仏座像(高さ十六丈、約四十八m)は創建当時の奈良の大仏殿よりも高かったといわれる壮大さで、T一期約二千日の間に延ベー千万人の労力を要したという。
 その後慶長元年(一五九六)の大地震を始め再三の災禍にあい、最近迄は天保十四年建立の木造上半身像(高さ約十四m)があったが、これも昭和四十八年一二月二十七日の出火により焼失した。境内には豊臣・徳川決戦の引き金と伝えられる有名な「国家安康」の鐘(重要文化財、高さ四・二m、重さ八十二・七t)がある。

 








 鐘楼から方広寺を望む
 
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■ 方広寺の鐘楼

 
     
方広寺の鐘楼と梵鐘 その大きさが人のサイズから窺えます。
  
 
     

国家安康の鐘
「国家安康・君臣豊楽」という「家」と「康」を分断した文字が、読みにくいですが見えます。(鐘に白い印がついている)
  
 
国家安康・君臣豊楽」の文字のある著名な同寺「梵鐘」は三条釜座の鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって慶長17年(1612)に、制作されました。この梵鐘は昭和43年に重要文化財に指定されました。

 
 
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■ 方広寺の大仏

 
     
大仏用土台石組み   大仏の破片

 全高約19mあったという木製大仏ですが、初代大仏殿の規模は現在も不明です。
 慶長元年(1596)伏見大地震のため大仏は倒壊。秀吉は「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」 と弓矢を打ちつけたという逸話が残っております。
 慶長9年頃、放火により炎上したあと、豊臣秀頼が再興しました。
 現在は本殿から東、少々離れたところに『大仏殿跡緑地公園』としてその名を残しています。
 ここは大仏殿の中心部分にあたり、2000年に遺構の状態を確認するため、部分的な発掘調査が実施されました。
 その結果、大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m東西約55m、
大仏の全高18mという東大寺大仏殿をもしのぐ壮大さであったことが改めて確認されました。
 発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。
 偉容を誇った大仏殿は、残念なことに寛政10年(1798)に落雷による火災で大仏もろとも焼失してしまいました。
 天保年間に寄進された旧大仏木造半身像も昭和48年、火災によって焼失・・・・
 いまでは大仏殿と大仏の一部であると考えられる遺物が保存されています。
  大仏殿関連が銅製風鐸、銅製舌各一点、鉄製金輪4点
  大仏関連が銅製蓮肉片、銅製蓮弁、鉄製光背金具各1点
全部で9点の「カケラ」が残されています。

 
 
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