全高約19mあったという木製大仏ですが、初代大仏殿の規模は現在も不明です。
慶長元年(1596)伏見大地震のため大仏は倒壊。秀吉は「うぬは、京の町を守るを忘れ、まっ先に倒れるとは、慌て者が!」 と弓矢を打ちつけたという逸話が残っております。
慶長9年頃、放火により炎上したあと、豊臣秀頼が再興しました。
現在は本殿から東、少々離れたところに『大仏殿跡緑地公園』としてその名を残しています。
ここは大仏殿の中心部分にあたり、2000年に遺構の状態を確認するため、部分的な発掘調査が実施されました。
その結果、大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m東西約55m、
大仏の全高18mという東大寺大仏殿をもしのぐ壮大さであったことが改めて確認されました。
発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。
偉容を誇った大仏殿は、残念なことに寛政10年(1798)に落雷による火災で大仏もろとも焼失してしまいました。
天保年間に寄進された旧大仏木造半身像も昭和48年、火災によって焼失・・・・
いまでは大仏殿と大仏の一部であると考えられる遺物が保存されています。
大仏殿関連が銅製風鐸、銅製舌各一点、鉄製金輪4点
大仏関連が銅製蓮肉片、銅製蓮弁、鉄製光背金具各1点
全部で9点の「カケラ」が残されています。
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