大覚寺 心経殿 |
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勅封心経殿(ちょくふうしんぎょうでん)
法隆寺の夢殿を模して八角形をした建物で、大正14年に再建された登録有形文化財です。
殿内には、嵯峨天皇をはじめ、後光巌、後花園、後奈良、正親町、光格天皇の勅封写経や、薬師如来像があります。
この写経は60年に一度開封されます。
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勅封心経殿は、御影堂と五色の紐で繋がれています
左手奥は霊明殿
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勅封心経殿と御影堂を繋ぐ五色の紐
この紐は、御影堂内陣前に垂れ下がり、
これに触れますと、心経殿の教本のご加護があります
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黎明館側からみた勅封心経殿と御影堂
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霊明殿から勅封心経殿を臨む
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霊明殿から勅封心経殿を臨む
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大覚寺 霊明殿 |
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霊明殿(れいめいでん)は、1936年(昭和11年)に起こった二・二六事件で凶弾に倒れた第30代首相の斎藤実が、1928年(昭和3年)に東京都練馬区沼袋に日仏寺を建立し、その本堂を、東京府中市の百草園へ一旦移築したものを、1958年(昭和33年)に、この地に再移築したものです。
朱塗りのため、目立ちます。床は、景色が映り込むほどピカピカです
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霊明殿
御影堂横の村雨の廊下から
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霊明殿
御影堂側から
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霊明殿
御影堂横の村雨の廊下から
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庭湖館前から霊明殿を臨む
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霊明殿
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霊明殿
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霊明殿横のドウダン
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霊明殿内部
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霊明殿内部
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大覚寺 村雨の廊下 |
村雨の廊下(むらさめのろうか)
諸堂を結ぶ回廊のことです。縦の柱を雨と見立て、直角に折れ曲がっている回廊を稲光にたとえています。
天丼は刀や槍を振り上げられないように低く造られ、床は鴬張りとなっています。
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御影堂からみる村雨の廊下
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正寝殿横から宸殿方向に見える村雨の廊下
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正寝殿横から宸殿方向に見える村雨の廊下
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霊明殿から左御影堂、中央奥宸殿を望む
村雨の廊下で結ばれているのがよく解ります
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村雨の廊下
霊明殿から正寝殿方向を見る
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村雨の廊下
正寝殿前から霊明殿方向を見る
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村雨の廊下
霊明殿に向かう
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霊明殿に向かう村雨の廊下
左手は庭湖苑
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大覚寺 庭湖館と庭 |
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庭湖館
江戸中期に大沢池畔に建てられた休憩所を、明治元年に移築したもの。
上段の間には、江戸時代の名僧「慈雲尊者」の大幅掛け軸「六大無礙常渝伽(ろくだいむがいじょうゆか)」が懸かっていたことから「六大の間」とも呼ばれます。
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庭湖苑越しに庭湖館を見る
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庭湖苑
右:霊明殿への村雨の廊下
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庭湖苑
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庭湖苑
霊明殿廊下から見た庭
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小さな滝が落ちています
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霊明殿から庭湖館と秩父宮御殿を臨む
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大覚寺 正寝殿 |
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正寝殿(しょうしんでん)
12の部屋をもつ書院造りの建物。南北に3列の部屋が配置され、東列は、「剣璽の間」「御冠の間」「紅葉の間」「竹の間」、中央列は、「雪の間j「鷹の間」、西列は「山水の間」「聖人の間」が配されています。その南と東に「狭屋の間」があります。
「上段の間」は、後宇多法皇が院政を執った部屋といわれています。執務の際は御冠を傍らに置いたことから、「御冠の間」と呼ばれます。
南北朝講和会議が、ここで開催されたと伝わっています。
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御影堂側から、左側正寝殿
村雨の廊下を通って霊明殿に続きます
古い古木はサルスベリでしょうか
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正寝殿にある障壁画は、狩野派の代表作です。安土桃山時代に信長や秀吉が、自分の力を誇示するために描かせました。
当時の代表的な手法に「金碧濃彩画(こんぺきのうさいが)」と「水墨淡彩画」の二つがあります。
狩野派の絵師は、伝統的な大和絵と中国宋・元から伝わった唐絵との和漢統合折衷として室内装飾画を発展させました。
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狩野派の絵師は、伝統的な大和絵と中国宋・元から伝わった唐絵との和漢統合折衷として室内装飾画を発展させました。
その技法は、金箔を画面一面に貼り、墨による骨書をし、その上に盛胡粉や彩色を施します。樹木と小川などには青緑白群などの高価な岩絵の具をふんだんに使っています。
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武士階級が好む松を中心にした巨大な樹木と華麗な草花などが配されます。鶴や亀、クジャク、鳳凰など吉祥を表す禽鳥類や龍虎なども多く描かれます。
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廊下右手
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廊下左手
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正寝殿内部
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正寝殿
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