勧修寺 書院 |
書院全景
江戸時代の初め、延宝元年(1673)から延宝3年にかけて造営された
後西天皇の旧殿が移築したと伝わっていますが、
女帝であった明正天皇の旧殿とする説もあるようです。
建物は、人母屋造、柿葺(こけらぶき)で、
江戸初期の書院造の典型とされています。
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庭園側からみた書院
八重桜が咲いていました
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勧修寺 書院内部 近江八景図 |
内部は、門跡の御座所である「上段の間」、
対面所としての「次の間」、
門跡の私室と思われる「柳の間」があります。
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重要文化財 近江八景図
次の間(二番目の部屋の意味)に描かれている絵は、
土佐派の復興に尽力した土佐光起の筆によるもの。
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重要文化財 近江八景図
中国の浦湘八景図にならい、
近江琵琶湖沿岸の風光明媚な景色を描いたものです。
床の間の左下には「瀬田の唐橋」を渡る大名行列が、
衣装まで微細に描かれていて、
当時の風俗を知る上でもたいへん貴重なものといわれています。
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近江八景図(右半分)
右上には紫式部ゆかりの寺としても名高い
「石山寺」が描かれていて、
近江八景の大和絵としては
日本最大級のものです。
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次の間 床の間
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↑ 拡大 |
↑ 拡大 |
勧修寺 書院内部 上段の間 |
「上段の間」には、世に「勧修寺棚」と称される違棚があり、
床の間には江戸時代前期から中期の絵師である
土佐光成(土佐光起の子)の筆による
「龍田川紅葉図」が描かれています。
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重要文化財 竜田川紅葉図
上段の間に描かれている絵は、土佐光成の筆による
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竜田川紅葉図(左側) 床の間と違い棚
柱は床柱も含め、木曽の山あいから切り出された
「尾州ひのき」が用いられています。
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違い棚(右側)
欅の1枚板からなる3つの棚のうち、
中央が一段高い左右対称の優美な姿を見せている。
そのため、安定感のある空間を構成しています。
竜田川と川辺に立つ人と対岸の大松
大松は、正面の襖に繋がっています
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竜田川の両岸に立つ紅葉
龍田川は大和国、生駒山系を流れ、
古来より紅葉の名所として、
多くの歌人に詠まれてきたところです。
左端の柱は、木曽の山あいから切り出された
「尾州ひのき」が用いられています。
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書院上段の間(右側)
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書院上端の間の襖絵
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勧修寺 書院 廊下 |
書院の廊下
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奥に見えるのは宸殿
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勧修寺 書院前の庭園と燈籠 |
左手が書院、右手が宸殿
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書院前から庭の南端を見る
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庭には、石がアクセントとして置かれています。
ビャクシンに隠れるように、石灯籠がおかれています。
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水戸黄門で知られる水戸藩2代藩主であった
水戸光囲(みとみつくに)が寄進した
「勧修寺型灯籠」が配されています
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這柏槇の中に、背丈3mほどの老這柏槇が
立っていました。
その左手に勧修寺型灯籠が隠れていて、見えません。
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勧修寺 書院前の老這柏槇 |
書院前に老這柏槇が植えられています。
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樹齢約750年といわれる
ヒノキ科の常緑低木「ハイビャクシン(這柏槙)」
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ワニが宸殿の方角を向いているように
老ハイビャクシンが這っていました。
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老ハイビャクシンのワニの頭
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その隣には、子供のハイビャクシンが
元気に育っています。
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何と、子のハイビャクシンの脇には、孫が生えていました。
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