光明寺 |
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【参考資料】 http://www.kamakura-burabura.com/haiku1koumyouji.htm
光明寺は、浄土宗大本山の格式にふさわしく、鎌倉有数の大伽藍を誇る。この寺の創建は鎌倉時代の寛元元年(1243)です。開基は鎌倉幕府第四代執権・北条経時です。開山は浄土宗の第三祖の良忠。光明寺は鎌倉には比較的少ない浄土宗の寺で元関東総本山で、第五代執権・北条時頼以降も歴代執権の帰依を受け、七堂伽藍を整えた大寺院に発展。念仏道場の中心となった。
江戸時代も徳川家康や家綱の擁護を受け、学問と修業の中心として栄えた。また皇室との関係も深く、後花園天皇からは山門にある「天照山」の掲額を、後土御門天皇からは、関東における念仏修業根本道場として「関東総本山」の称号を受け、国と国民の平和を祈る「勅願所」となった。本尊は阿弥陀如来(県重文). |
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七堂伽藍の立派なお寺さんであることがよく解ります。
山門右手に鐘楼があります。左手には庫裏、寺務所、開山堂がならび、正面の大殿(本堂)に渡り廊下で繋がっています。
渡り廊下は、蓮池を右手に見ながら、開山堂に繋がっています。蓮池の奥には、池越しに端正な姿をしている大聖閣があります。
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光明寺 総門 |
参道に入りますと正面が総門です。
その手前右に「関東総本山」という石柱が
デンと据えられているのが見えます。
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【参考資料】 http://www.kamakura-burabura.com/haiku1koumyouji.htm
光明寺の創建は鎌倉時代の寛元元年(1243)です。開基は鎌倉幕府第四代執権・北条経時です。光明寺は鎌倉には比較的少ない浄土宗の寺で元関東総本山
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総門手前に光明寺の立派な石柱があります
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総門
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総門の扁額 |
総門扉のレリーフ紋章
菊の御紋と五三桐がその格式の高さを表しています |
光明寺 山門 |
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総門を入りますと、大分広い駐車スペースの先に山門(三門)があります。かなり距離があるにもかかわらず、大きいことが解ります。
【参考資料】 山門
現在の山門は1847年に再建されたもので、高さ約20mの巨大な二重門。一階が和風、二階が中国風の造りになっており、中央に掲げられた「天照山」の額は、1436年に後花園天皇より賜ったもの。二階には釈迦三尊・四天王・十六羅漢が祀られている。
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山門をくぐりますと、正面が大殿(本堂)で、普通に見ますと大きな本堂なのですが、山門があまりにも立派なために、意外と小さく見えました。
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皇室との関係も深く、後花園天皇からは
山門にある「天照山」の掲額を賜っています。
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光明寺 大殿(本堂) |
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大殿(本堂)
本堂は、元禄11年(1698年)の建立で、重要文化財に認定されています。
入母屋造の銅板棒瓦葺きですので、その姿は堂々としています。
間口奥行ともに25メートルあるといいますので、
鎌倉では最大級の本堂といえます。
外観が簡素なだけに、実際の大きさの割に温和しく見えます。
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光明寺大殿(本堂)の扁額
念仏道場として重要な役割を演じてきていることが
正面右手の大看板から解ります。
江戸時代になってからも、徳川家康や家綱の擁護を受け、
学問と修業の中心として栄え、今日に至っています。
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大殿(本堂)堂内
お賽銭を上げて本堂内に入りますと、外見が簡素であったにも関わりませず
その豪華絢爛さには圧倒されました。
中央にはご本尊の「阿弥陀三尊像」が安置されています。
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山門左手
左の建物が寺務所、右手が開山堂です。
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鐘楼
山門や本堂にふさわしい鐘楼ですが、
梵鐘が少々小さいように思えました。
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鐘楼の柱上部の彫り物は、鐘楼の素晴らしさを語っています。
獅子の下は、牡丹でしょうか
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光明寺 開山堂 |
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山門を入ると正面本堂の左手(私から見て)、寺務所の奥にあるのが開山堂です。
開基は鎌倉幕府第四代執権の北条経時、開山は、浄土宗第三祖の良忠上人(記主禅師)です。
開山堂には、良忠上人および歴代の法主(住職)が祀られています。
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大殿(本堂)や大聖殿と同様に、簡素といいますか端正な姿です
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善導太子像
中国浄土教の構想である善導太子は、
浄土宗宗祖の法然上人や、当寺開山の良忠上人に大きく影響を与えました。
開山堂と大殿(本堂)とを結ぶ渡り廊下前にありました。
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善導塚
石柱の中央を彫り、そこに石像をはめ込む珍しい作りです
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開山堂から大殿(本堂)を望む
渡り廊下上記写真の裏側
背後の山は天照山と呼ばれます。
本堂右手の道から登りますと山の中腹に
開山・然阿良忠上人をはじめとします歴代住職と、
開基・北条経時の墓所があります。
天照山からは由比ヶ浜の海を一望でき、
晴れた日には富士山を望むことができるといいます。
今回は、回ることができませんでしたが、
次の機会には是非訪れたいと思います。
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光明寺 紀主庭園と蓮、大聖閣 |
紀主庭園
大殿(本堂)側から、蓮池を望む
毎年7月には「観蓮会」が催され、
大聖閣を眼前した蓮を眺めながら抹茶を味わうことができるそうです。
私が訪れる日を一週間ほど送らせますと
この観蓮会に参加できたのですが・・・
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大聖閣
天照山を背にした大聖閣は蓮池越しに見えます。
中国様式を取りながらも、
その端正さには魅入ってしまいました。
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蓮は約2000年前の種から発芽した
「古代ハス」で、記主庭園の池を埋め尽くしています。
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蓮池の蓮は、盛りをやや過ぎていましたが
まだたくさん咲いていました。
一部の蓮は、もう花びらを落とし、
蓮のみのかさを付けていました。
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蓮池は、石灯籠や小橋で彩られています。
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いろいろな形の石灯籠や灌木が蓮池を引き立てています。
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本堂横からみる渡り廊下
右は、本堂横の |
渡り廊下のたもとにあります石灯籠と手水場
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本堂横には、まだ紫陽花が盛りでした。
その一画に、小さな石仏が多数並んでいました。
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光明寺 三尊五祖の石庭 |
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三尊五祖の庭園
「三尊五祖来迎の庭」と称される、小堀遠州作の枯山水庭園があります。
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開山堂側の渡り廊下から、本堂横をぐるりと回りますと
石庭がありました。
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本堂裏から本堂を右に見た三尊五祖の庭園
奥に見えます小さめの石が「釈尊」です。
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奥左が勢至菩薩様、中央が阿弥陀如来様、
右が観音様で、三尊と呼ばれます。
手前左から当寺開山の第三祖・記主、
第二祖・鎮西、宗祖・法然、中国の抗争善導の五祖です。
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本堂右端から望む三尊五祖の庭園 |
鎌倉 連乗院 |
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連乗院は、光明寺の山門の右手にあります。ご本尊は、源頼朝に鎌倉入りを進言した千葉常胤の守護仏としての阿弥陀如です。もともとは、真言宗の寺でしたが、現在は光明寺の支院です。光明寺の新しい住職は、いったんこの寺に入ってから入山するというしきたりがあるそうです。
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鎌倉 千手院 |
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千手院は、光明寺の山門の左手にある、光明寺の支院のひとつで、一時期、専修院と呼ばれていました。開山や創建年は不明ですが、ご本尊は、千手観音で鎌倉観音巡礼第20番札所になっています。
光明寺の僧坊であったこともあり、各地から学僧が修行道場として修行を積んできました。江戸時代中期には学僧が減少し、子どもたちに読み・書き・そろばんを教える寺子屋となったりし、明治に入ると、桑楊学校と呼ばれ、芭蕉の句碑が刻まれています。
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光明寺の僧坊であったこともあり、各地から学僧が修行道場として修行を積んできました。
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門に懸かる扁額 |
門の奥に本堂が見えます。
手前右に見える石碑は、芭蕉の句碑です。
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本堂に懸かる説明札
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光明寺の僧坊であったこともあり、各地から学僧が修行道場として修行を積んできました。江戸時代中期には学僧が減少し、子どもたちに読み・書き・そろばんを教える寺子屋となったりし、明治に入ると、桑楊学校と呼ばれ、芭蕉の句碑が刻まれています。
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本堂左手(本堂から見て右)に立つ石地蔵像
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本堂の賽銭箱の前に
猫が一匹寝そべっていました。
私が近づいても逃げる気配もありませんでした。
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